キワモノM嬢 ポニー(1)
どこに行ってもいじめはあるし、どこに逃げてもいじめのターゲットにされてしまう。逃げるが勝ちとは言うけれど、逃げても逃げてもいじめに遭う。もしもこの世にいじめのない場所があるとしたら──、それは孤独じゃないだろうか。外の世界と関わらなければ、誰かにいじめられることはない。ポニーはそう思って、先月、独りで生きると神に誓った。だけど結局、それを選んでみたところで、自分で自分をいじめてしまい、腕に多量の傷を刻んだ。遺伝子組み換え米国牛のような身体を、タプンタプンと揺すりながら、風呂場で全裸で切り刻む──。毎晩、毎晩、自分の血を見て気を鎮める──。
死にたい死にたい思っているのに、腹が減ると飯を食う。食っても食っても気が済まない。食って食って悔いまくる。どうしたらいいのか、わからない。仕事はどれも続かない。子育てだってできなかった。自分も、息子も、何もかもを愛せない。
お母さん、ごめんなさい──。
*
ポニーはネットで知り合った相手とSMプレイをする、いわゆるM嬢をしながら生活していた。といっても専業になったのはごく最近だった。年末までビル清掃の仕事をしていたが、この職場でもいじめに遭ってしまい、耐えられずに辞めた。これでもう、トータル十四件目の退職だった──。
一月三日。今日のSM相手は、生活保護を受けているという四十代の男性、クニオだった。何度か会って尻を叩かれている相手で、ポニーという源氏名をつけてくれた相手でもあった。
ポニーはバスに乗って、所山と武蔵村沢の県境にある彼の家に向かっていた。住所は所山らしいが、彼は出会い系での書き込みで、都内在住を自称していた。
クニオは変なところでプライドが高い男だった。十月の中頃、喫茶店で「ケーキが食べたい」と甘えたら「そんなもの食えるわけないだろう! 俺は生活保護だぞ!」と自慢げな顔で声を荒げたことがあった。彼は生活保護の申請を受理してもらうまでに、紆余曲折あったらしい。だから受給できるようになったことそれ自体が自慢のようだった。それからコーヒーを受け取り、喫煙席にドカッと足を開いて仰け反って座った。
そんな彼からLINEが入る。
“年明け一発目、よろしく! 姫始めって、飛馬始めって書き方もするらしい!”
イタズラな笑顔の絵文字と一緒に送られてきた文章は、やる気にみなぎっている感じがして嬉しかった。たまらずポニーは鼻息を荒げた。下半身が疼く。でっぷりとした尻を座席のシートにこすりつけるように、クネリクネリと動いた。
“飛ぶ馬? ユニコーンのことかな? それとも、私かな?”
“少し、遅れそう。お正月明けのせいか、道が、すごく、混んでる”
ポニーはノロノロのバスに揺られながら、モタモタと文章を入力した。指が太い上にフリック入力を覚えていないため、最初の文字の“お”を打ち込むだけでも時間がかかった。返信した矢先に既読がつき、クニオからメッセージが返ってくる。
“遅刻か。お仕置きが必要だな”
クニオのそれに、桃とバナナの絵文字をつけて返信する。
“いやん、優しくして”
既読はついたが返事は返ってこなかった。
彼の家に到着し、インターホンを押した。しかし、音は鳴らなかった。そういえば、前に来たときもそうだった。ポニーは扉についているライオンの顔のドアノッカーをコン、コン、と二回鳴らした。こんなものがついているけれど、少し古めで小さめの、いわゆる普通の民家だった。生家だとは思ったが、彼は一人暮らしをしていた。
「どうぞー」
リビングからか、クニオのダミ声が聞こえた。
「お邪魔しまーす」
ポニーは声高らかにドアを開け、それから、
「明けましておめでとう。今年もよろしくねー」
と言って、靴を脱いだ。
「おーい。あんまりデカい声を出すなよ」
「ええ、なんでー?」
「なんでもだよ、いちいち突っかかってこなくていい」
ポニーは笑み声で返事をした。クニオが玄関まで出迎えに来ないから、ポニーは「上がるよー」と言って家に上がり、リビングのドアを開けた。
「おう。今日も相変わらず馬ヅラひっさげて、牛みてえな身体してるな。まるで件だな」
「クダン?」
「妖怪だっつってんだよ」
「やめてよー、もーう」
ポニーはそう言って黄ばんだ歯を見せて笑った。それからグレーのリュックを下ろし、深緑のジャンパーを脱いで床に置いた。部屋の中は生温い温度に保たれていて、古本屋のような独特なにおいが立ち込めている。
クニオは全裸で黒の合皮ソファーに座りながら、カップに入ったバニラアイスを食べていた。クニオだって、腹がパーンと張り出て大黒様みたいな身体をしているのに、ポニーの体型を弄るのだった。
「お前、また太ったか?」
クニオは上から下へ、下から上へとわざとらしく視線を動かした。ポニーはそれを払い除けるように手をパタパタとさせながら、
「やめてよー、太ってないったらー」
と言って頬を赤らめた。それから続けて、
「それよりアイス、美味しそう。一口ちょうだい」
と言ってはにかんで笑った。
「嫌だね。お前はこっち、こっちを食え」
クニオはそう言いながら、太腿の間にクニャリと垂れたツチノコのようなそれを、木べらを使って差した。
「やだあ、もう。いきなり?」
ポニーがそう言うと、クニオは思い出したようにして「あ」と言って目を見開き、
「そういやお前、息子はどうなった? 無事、預けられたのか?」
と言った。ポニーはまた「いきなりー」と言ったあと、
「うん。渋々だったけどねえ、預けてきたよ。お母さん、すごく怒っていたけどね」
と言った。クニオは乾いた笑いを漏らし、
「そりゃあ怒るだろうよ。勝手に誰の子かわからないガキを産んで、育てられないから預けるってよ、正気じゃねえもんな」
と言って、また笑った。
「産むって決めたときも怒っていたけどねえ。それ以上に怒って、怒って、でもやっと預けられたよ」
「まあ、よかったんじゃないの。つってもなあ──、あんたの母ちゃんも大変だよな。あんたみたいな子供がいるだけでも大変なのに、その子供まで世話しないといけないんだもんな。地獄だな、休ませてやれよ」
「そんなこと、言わないでよー」
クニオの無神経な言葉に、ポニーは明るく振舞っていたが、その言葉一つ一つが、グサリグサリと心臓を突き刺してくるようで痛かった。ゆっくりと真綿で首を締められているような感覚に襲われたが、ポニーはM嬢として、たとえ馬みたいな離れ目だろうが、大きな鼻の穴が前を向いていようが、柔らかな笑顔で対応しようと頑張った。
ポニーには五歳の息子がいた。出会い系で会った男との間にできた子だった。その男とは、一度きりしか会っていないし、どこの誰だかもわからない。顔すら、もう覚えていない。そんな相手との子だとしても、当時、ポニーは産みたくて仕方なかった。子供を産めば、自分が変われるような気がしたからだった。
妊娠前は八十キロだった体重だが、妊娠後期には九十五キロまで増えて医者に怒られた。つわりや腰痛もひどかったが、そんな中でも、幸か不幸か不安でで言えば、幸せの気持ちが圧倒的に大きかった。
子供ができれば人生をやり直せる、そんな強い確信めいたものを持っていたのだった。なぜかはわからない。わからないけれど、そんな気がしたのだった。
子供の頃からいじめられっ子で、今もなお、どこに行ってもいじめに遭うポニーは、視野をいじめっ子らに狭められ、そういう考えに至ったのかもわからない。あるいは、自分の世界に閉じこもりすぎて、考えが浅はかになってしまっていたのかもしれない。母親として生まれ変われば人生がきっとうまくいく。そう信じて疑わず、産みたいという一心で子供を産んだ。
しかし、現実の育児は艱難辛苦以外の何物でもなかった。
夜泣きが続くことによる睡眠不足、何をやっても泣き止まないし、やっと泣き止んだと思ったところで哺乳瓶を洗い始めると、その途中で起きて泣く。それの繰り返しが一年続いた。立って歩くようになったと思えば、癇癪を起こして大声で暴れる、走り回る。道路に飛び出す。近所の人からクレームがくる。引越し先でもまたクレームがくる。それもまた繰り返す。
保育園に入れば友達を叩く、殴る、おもちゃを盗む。言うことなんて聞いてもらえた試しがない。
時々、母親に手伝ってもらいながらの育児ではあったが、それでも辛かった。息子を可愛いと思えたことは一度もなかった。野生のサルにしか見えなかった。何百回、いや、何千回、殺したいと思ったかわからない。そんな中、どこの仕事に就いてもいじめに遭った。理由は、見た目と鈍臭さ──。ポニーもそれが原因であることはわかっていた。しかし、変わろうとすればするほどストレスで食べてしまうし、整形するお金もない。鈍臭さを直そうと頑張っても裏目に出て、余計に空回りしてぐちゃぐちゃになる──。
生きるのに、向いていないのかもしれなかった。不器用だとか、そんなレベルをとうに超えている。
嫌味、物隠し、露骨に「デブ!」と罵声を浴びせられることもしばしばあった。そんないじめも繰り返された。転職しても転職しても転職しても、ずっと続いた。
そんな中、トドメが刺された。十一月、息子が通う保育園から退園勧告が出た。十二月を持って、サヨナラだって。
「まずは発達障害センターに相談に行くことをおすすめします」
そう言われ、資料を渡された。資料に目は通さなかった。もう、転々とするのに疲れてしまった。
息子は、ひどいいじめっ子に育ってしまった。
自分が、いじめっ子の親になるだなんて夢にも思っていなかった。
もう、息子と顔を合わせるのも嫌になった。
実家に置いて、お盆と正月に二回会うだけにしたいと思った。
仕事も辞めた。
いじめのない世界に行きたいと思った。
だけどそんな世界、どこにもなかった。
どうしたらいいんだろうね。わからない。
アイスを食べ終わったクニオは、立ち上がって台所に向かった。何か食べ物を持ってくるのだろうかと見ていたけれど、ただゴミを捨てに行っただけだった。
じっと見すぎたせいか、クニオは「なんだよ」と言って、照れたように笑った。ポニーもつられて照れ笑いを浮かべた。クニオはポニーのスチールウールみたいなゴワゴワの髪を、二、三回撫でた。それからまだ勃起していないクニャクニャの息子を、ポニーの頬に擦りつけた。
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