月収百万円ブロガー アスミ(3)
翌日、約束の時間から一時間遅れてパパが来た。この人はパパの中でも二号に位置する人だった。番号の意味は、単純に出会った順だった。アスミのパパは三人いて、今日のパパは一番お金をくれる人だった。一回会うだけで、いつも二十万円を銀行の封筒に入れて渡してくれる。
「すみませんね、お待たせしてしまって」
アスミの肩が、ポン、ポンと二回叩かれた。アスミはサンシャインホテルのロビーのソファーに腰掛けていた。開いていたノートパソコンをサッと閉じ、後ろを振り返る。
「こんばんは。いいえ、全然待ってなんかいませんよ。実は私も今来たところなんです──。なんて、嘘。ずっと待っていました。来てくれないんじゃないかと思って、ちょっと寂しくなっていたところです」
アスミは、嘘っぱちの哀愁顏を顔に貼り付け、嘘を嘘で塗り固めた言葉を、いとも簡単に口から吐き出した。それからパパの右手を両手で握り「冷たい」と言って手コキのように撫で回した。撫でながら、ああ、この人にはこんなことをする必要はなかったわ、と思った。だってこの人、セックスが目的の人ではなかった。何が目的かと言えば、ただアスミに会うだけが目的だった。
パパは、嬉しそうに少年のような笑顔を浮かべていた。
パパ──?
少年──?
いや、どちらかといえばおじいちゃんと言ったほうが正解に近いかもしれない。本当の年齢は知らないし聞かないけれど、見た目は七十歳を超えている。なぜお金を持っているのかはわからない。服は安っぽいし、肌ツヤもよくない。しかしお金の理由を、アスミは聞かないと決めていた。聞いて関係がギクシャクし、収入源が減っては困るからだった。
パパは三週間前に会ったときより、少し痩せたように見えた。
「ご飯、ちゃんと食べていますか?」
心配そうな顔を瞬時にカスタマイズし、アスミはパパに質問した。
「食べていませんが、平気です」
「本当に? なんだか元気がなさそうで、心配です」
「そのお気持ちだけで充分ですよ。ありがとうね」
パパは最上階の部屋を予約していた。たまたまキャンセルが出たタイミングで予約ができたらしい。
部屋に入り、しばらく夜景を眺めた。ピリオドみたいな点の光がとっ散らかって揺らめいているのをただ眺めた。赤、青、黄色、緑、オレンジ、白──。ちゃんと見ればそれ以外の色なんて全然ないのに、異様にカラフルに見えるのが不思議だった。
電車の光があっちこっちで畝っている。出口もなしに彷徨っている土の中のモグラみたいだ。高さを競ってせめぎ合うビルは、まるでアリの巣。
東京の錯雑な夜は、故郷の空よりもずいぶん落ち着くものだった。見えているのは新宿方面だけれど、東京タワーや都庁なんかを除けば、何がなんだかさっぱりわからない。わからないのが心地いい。わからないからこの空は、自分を押しつぶそうとはしてこない。敵でもなければ味方でもない。ただの空でしかないから心地いい。
アスミはこれから先の人生について思った。意識をぼうっとしたままに、ただなんとなしに考えた。パパ活の収入が途絶えようとも、ブログの収入が途絶えようとも、人生はそこで終わらない。勝っても負けても人生終了というわけにはいかない。生きている限り、かならず続いていくのが人生だ。
これまでずっと、戦略を練って生きてきた。勝負を続けて、勝ったり負けたりしてきた。トータルで考えたら、きっと自分は負けなんだ──。戦略なんか練れないようなキーちゃんは、幸せだって言っていた。それが勝ちかはわからない。でも、自分はキーちゃんに負けてはいない。
本当に?
アスミは湿った掌を窓ガラスに貼りつけた。窓は氷のように冷たくて、ほんの微かに震えていた。
「ねえ、お酒頼んでもいい? 東武の地下でデリを買ってきたから、一緒に食べましょうよ」
自分が幸せなのか不幸なのか、その感覚も今はなんだかわからない。あまり考えたくはない。考えたところで、どうせ幸せだって思い込もうとするのだろう。
アスミはぎこちない笑顔で振り返り、パパの痩せた手首をギュッと掴んで顔を伏せた。パパのその細すぎる手は、アスミに死を想起させた。
死を、思う──。それは少しのあいだ、現実から遠退くことができる魔法のようなものの気がした。死は魅力的で、死は怖い。だから魔法のようなのだ。
自殺なんかは死んでもしない。ただ、そう、死にたいだけ──。
今にも死んでしまいそうなパパの手は、触っているだけで落ち着いた。
アスミは何度もパパの手を握り、指を絡めては解いてを繰り返した。
*
“If we only wanted to be happy, it would be easy; but we want to be happier than other people, and that is almost always difficult,
since we think them happier than they are.”−Charles Louis de Secondat, Baron de la Brede et de Montesquieu
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