月収百万円ブロガー アスミ(2)

 急いでバスに乗って実家に戻ったけれど、到着したときには約束の時間を五分過ぎていた。所山ニュータウン入り口前の停車場で降りてすぐ、レンガ調の二階建て。ナツコはこの家で生まれ、高校を卒業するまでずっとここで暮らしていた。

 アスミはインターホンを鳴らしたあと、急いで玄関のドアを引いた。

「ただいま。ごめんね、遅くなって」

 土間に上がりリビングに呼びかけると、「おかえり」という父の渋い小さな声が、奥から微かに聞こえてきた。それから幼馴染のキーちゃんの声が、追いかけてきた。

「やっと帰ってきた! 遅いよー。早く上がってきなー」

「なんだ、まるで自分の家だな」

 キーちゃんのハスキーボイスのあとに、父のボソッとしたツッコミを聴いた。キーちゃんと母の笑い声が、リビングから湧き出すようにして響いて聞こえる。

 土間の腰掛けに座り、ヒールのストラップボタンを外した。笑い声につられ、アスミも顔がにやけてしまう。それが玄関ドアのミラーに映ったが目に入り、思わず顔を背けてしまった。

 花柄の玄関マットを踏み、家の中に上がった。実家に帰ってきたのはお盆のとき以来だった。アスミは今、世田谷のマンションに住んでいる。

 相変わらず、家の様子は変わりがなかった。このにおい、空気がちょっと重ったるい感じ、照明が微妙に暗いところ──。ずっと変わらずこのままだ。

 下駄箱の上に干支の置物と、母の趣味の観葉植物が並んでいて、向こうに見えるトイレのドアノブには、手づくりの布カバーが被せられている。階段の下には“所山野菜”と書かれた段ボールが置かれていた。その隣には、古紙回収の日に出す新聞やポスティングの紙の束。ぜーんぶ同じ。いつ帰ってきてもこの状態。

 ただ一つ変わったことは、ヒジキが死んでいなくなったこと。それだけ──。

「おかえりなさい」

 母がリビングからひょっこり顔だけ出して笑っていた。アスミは「ただいま」と言って笑顔を返した。母はまだ料理をしている途中なのか、あるいは配膳しているのかはわからないけれど、顔を見ただけですぐに中に引っ込んで、足音だけを響かせていた。

 半年ぶりに帰ってきたアスミだったが、家族で「久しぶり」とか「痩せた太った」とか、そういう会話はこれまでもずっとしたことがない。なぜかしづらい雰囲気なのだ。そういう会話に違和感を覚えるのだ。しかしそれがどうしてなのかはわからない。

 アスミはコートを脱ぎ、リビングに入った。父とキーちゃんと目が合う。二人とも笑顔でアスミを迎えいれていた。刺繍のカーテンの上に飾られた、額に入った賞状が視界に入る。スピーチコンテストの賞状だとか、華道の表彰状だとか──。それらはすべて、アスミが高校時代にもらってきたものだった。少し埃をかぶっているようだった。

 こたつの上にはヒジキの遺影が置かれていた。それを囲むようにして、ヒジキがよく齧っていたうさぎのぬいぐるみや、骨の形のロープが置かれていた。手前にキーちゃんが座り、奥に父が座っている。唐揚げと、茹でただけのブロッコリーも皿に盛られて置かれていた。キーちゃんの座る座布団の脇には、ビール瓶が二本並んでいた。

「もう、飲んでるんだ?」

 アスミはそう言いながら、キーちゃんの隣にチョコンと膝を折って座った。

「うん。今日パピーが早く帰ってきたから、チビ達押しつけて早く来ちゃったの。だから七時ぐらいから来て飲ませてもらってるんだー。ね、アーパパ」

「ああ、そのぐらいからだな」

「じゃあもう、結構酔っ払っているんじゃない?」

「全然。でもアーパパは結構キテるかも」

「いや、そんなことはない」

 キーちゃんは父の顔を見ながら「でも赤いよ」と言って揶揄うようにして笑った。父は気恥ずかしくなったのか、「そうか?」と言ってリモコンを手に取り、テレビをつけた。

 父も母と同じで、何も変わっていなかった。六十歳になってから帰宅時間は早くなったらしいけれど、だからといって、髪の毛が増えるだとか、体型が変わるということもない。いつからか剥げかけの頭をキープし、メタボになりかけのお腹をずっとそのままキープしている。

 父は動物特集の番組にチャンネルを合わせ、それをぼんやり眺めていた。

「アーちゃんお盆以来だよね? なんか──、また綺麗になった? ぶっちゃけ、何かやってるでしょ?」

 キーちゃんはアスミが隣に座るなり早々、下から覗き込み、舐め回すようにしてアスミの顔を見ていた。

「別に何もしていないよ。強いて言えば、好き勝手生きているだけ」

 アスミはそう言いながら、目の前にあったブロッコリーを一つ指先でつまみ上げ、小さく前歯でかじった。キーちゃんの鋭い視線が、ネイルに突き刺さってくる。それをアスミは気づいていないフリをする。

 子供の頃から、不思議とキーちゃんの前ではクールになってしまう。キーちゃんとは付き合いが長いけれど、本当の自分を見せたことはない。いや、本当の自分なんてものは、ブログの雑感記事でしか表現できないのだけれど、キーちゃんの前では、昔から猫の仮面を三枚ぐらい装着しないと落ち着かないのだ。

「前も言ってたね、好き勝手生きてるだけって。ストレスフリーってやつ? それだけでそんなにキレイになれる? 好き勝手ってなに? 働いてないだけ? それともやばいことやってるとか? スキンケアはなに? やっぱり高いの使ってるの?」

 キーちゃんは質問攻めになって、それからアスミの二の腕を軽くつまんだ。それは、どのぐらい二の腕が細いのかを確認されたのだとすぐにわかった。アスミにとって、それはよくあることだった。よく「ほそーい」とか「痩せたねー」と言われ、大学の友人や前勤めていた会社の女性社員にもされていたことだった。

「やばいことってなによ」

「コカインとか!」

 アスミは父のほうをチラリと見た。しかし父は聞いているのかいないのか、キーちゃんの自由すぎる発言にピクリとも反応せずテレビを観ていた。

「しているわけないでしょ。それに、働いてないって、ニートみたいに言わないでよ。フリーランスだってば。前にも言ったじゃない」

「ああ、フリーランス? アタシそれ、よくわかんないんだよね。すごいの? すごくないの?」

「別にすごくはないけど──。会社勤めじゃないってだけ。もう会社で働くとか面倒くさくてさ──」

「ふーん。フリーターとは違うんだ?」

「違うってば」

「へえ。やっぱりよくわかんないや」

 キーちゃんはそう言ってニヤっと笑い、あぐらの足を組み替えた。

 キーちゃんは──、高校を中退し、アパレルで半年働いたあと、十八歳の誕生日を迎えたその日にキャバ嬢になった。それから間もなく、客とヤッて妊娠した。そのときは結婚しないでシングルマザーになったけれど、それから数年して結婚し、二人目の子供を産んで育てていた。今は上が九歳で、下が五歳。どちらも男の子だ。

 キーちゃんは、正直言って頭はよくない──。それなのに、アスミのことをずっと下に見ているところが昔からあった。言葉の節々から感じることもあったし、露骨に「服ダサいよ」とか「メイクはもっとこうしな」と小馬鹿にしながらアドバイスをしてきたこともあった。キーちゃんは自分にものすごく自信のある子だった。それはキーちゃんが、子供の頃からずっと可愛い、可愛いと言われて育ってきたからだった。目鼻立ちがクッキリとしていて、亜麻糸のような色素が薄くて細い髪。それから色白の肌。キッズモデルをやっていた時期もあったけれど、都内に通うのが面倒くさくなって、一年足らずで辞めていた。

 アスミとキーちゃんは家が近くて歳も一緒で、いつも一緒に遊んでいた。だけどアスミは、自分がキーちゃんの引き立て役だということを、いつからか自覚するようになっていた。

 女子は可愛いほうが強い。

 可愛いほうが勝ちで、可愛くないほうが負け。

 実にシンプル。

 まさにシンジツ。

 アスミはキーちゃんの顔を見ないまま、さっき一瞬だけ見たキーちゃんの肌の残像を、天井に転写するようにして思い出していた。キーちゃんの肌は乾燥でパサついていた。くすんでいたし、毛穴も開いているみたいだった。髪も──、プリンでパサパサだった。美人は美人だけれど、すっかり貧乏くさくなってしまった。

 アスミはブロッコリーを咀嚼し飲み込んだあと、キーちゃんのもう一つの質問に答えた。

「スキンケアは──、別に高いのばかり使っているわけじゃないよ。安いのもそれなりのも使ってる。色々使うのが最近の趣味っていうか──」

 気性の荒いキーちゃんにやっかまれないように、ちょうどいい言葉を探しながらの返事だった。実際、嘘ではなかった。ブログで紹介するために、高いものも買うし安いものも買う。そしてそれぞれの使用感を記事にする。昔はそれだけで結構なアクセスがあり、広告収入が得られていたけれど、最近は鳴かず飛ばずで売上は下がる一方──。

「あー、色々使うのっていいらしいね。肌が怠けるから高いのばかり使っちゃいけないってやつでしょ? でも、高いの使えるだけでも羨ましいなあ。アタシもキャバの頃は二万のやつとか使っていたけど、今は百均とドラストばっかり。まあ別にいいんだけどさあ──」

 キーちゃんはそう言いながら、グラスに残ったビールを一気に飲み干した。アスミは「おお、いい飲みっぷり」と言いながら、頭の中では、その肌で「別にいいんだけどさあ」って──、と思っていた。

 キーちゃんは手酌しながら続けた。

「でも育児してるとさあ、自分のことなんてどうでもよくなっちゃうんだよね。服とかも全然買わなくなっちゃった。見てこれ、安物なのにもう三年も着てるからボロボロ」

 そう言って笑うキーちゃんの黒のスウェットは、夜空に雪が舞っているみたいに、白の毛玉が大量にこびりついていた。昔のキーちゃんでは考えられない姿だった。オシャレな服だってメイクだって、いつも同級生の中ではトップで流行に乗っていた。常に同級生の中では抜き出て大人っぽい印象だったキーちゃんが、今ではこんなボロ切れの姿──。

 中学の頃は、彼氏を取っ替え引っ替えするようになって、常にキーちゃんは恋愛していた。オシャレもセックスも、常に誰よりも先を行ってるキーちゃんを、アスミはいつも羨ましいと思っていた。バカでもなんでも、女子は可愛ければ勝ちだった。性格が悪くても男子をめちゃくちゃバカにしていても、それでも可愛いキーちゃんは、いつだって女子の頂点だった。

「でも、幸せだよ。チビたち可愛いし。アーちゃんはまだ結婚しないの? アーパパも孫ほしいでしょ? じいじもチビ達溺愛してすごいの。あ、じいじってアタシのお父さんね」

「うん──」

 キーちゃんは、頭がよくない。だから、話があちこち飛ぶクセがあった。こちらの返答を待たずに違う話題に移るし、こっちが話している途中で「だよねー」と言いながらまったく違う返事をする。だからキャバ嬢時代も、見た目はいいけれど成績はそんなによくなかったらしい。

「アタシ三人目ほしいんだ。三人目はアーちゃんと同い年にしたいなあ。来年デキ婚しなよ。アタシみたいに」

 そう言ってギャハハと下品に笑うキーちゃんは、なんというか、全然大人になっていなくて、まるで中学の頃と同じだった。

「結婚はまだいいよ、私は──」

「ええ、なんで? 結婚最高だよ。まあしょっちゅう旦那と喧嘩するけどね。でも最近こわいのがさあ、突然なんでもない日にケーキ買ってきたりするんだけどさあ──」

 アスミはキーちゃんの話を、適当にうん、うんと聞き流しながら、いつかキーちゃんが言っていた言葉を思い出していた。

 “子育てするようになってから、すごく大人になれた気がする”

 まるで人生を達観しているような顔だった。だけどキーちゃんは、アスミから見ると全然大人には見えなかった。見た目は確かに劣化している。会うたびに、加齢と育児疲れがモロに見た目に現れていってる。だけど、中身は中学からまるで変わっていなかった。落ち着きがないし、品もない。高校中退だから仕方がないのかもしれないけれど──、はっきり言って学がない。

「子供いるといいよ。全然退屈しないし、面白いの。そりゃ、イライラしたり怒鳴ったりする日もあるけどさ、でもなんていうか、子供の成長が嬉しいし、でも寂しいし、みたいな──。やだ、泣いちゃう。アタシ、酔ったかなあ? なんかアーちゃんといると落ち着くっていうか、超語りたくなっちゃうっていうか──」

 キーちゃんは、ひたすら喋り続けたあと、突然に涙目になっていた。アスミは「大丈夫?」と声をかけ、キッチンに水を汲みに行った。

「幸せ、ねえ──」

 誰にも聞こえない微かな声で、さっきキーちゃんが言っていた言葉を復唱した。

 アスミの中では完全に、キーちゃんとの間に下克上が成立してしまったような気がしていた。

 今の自分は、キーちゃんに勝っている。いつから勝っていたのかはわからないけれど、結構前から勝っているような気がする。幸せ──。本当だろうか。どう見ても、ストレスマックスの貧困ママじゃない。子供に自由を奪われて、美しさまで奪われて、それで幸せ? 絶対、負け惜しみでしょ──。

 キッチンでは、母がカレイの煮付けをフライパンから皿に移しているところだった。

「キーちゃん、なんか酔っ払っちゃったみたい」

 アスミがそう言うと、母はニコリと微笑みながら、

「あらまあ。ずいぶん、ストレス溜まっていたのかしらね。キーちゃん、家ではお酒は飲まないようにしているんだって。子供の前では飲みたくないって。だからね、今日はすごく楽しみにしていたみたいよ。声をかけてよかったわ」

と言った。アスミは水をコップに汲みながら「へえ」と言い、それから

「その煮付け、テーブルに持って行こうか」

と言って、母が手に持つ皿を指さした。

「うん、お願い。これ、キーちゃんが手伝ってくれたのよ」

「そうなんだ──」

 カレイの煮付けに目をやっているうちに、コップから水が溢れ、せっかくこたつで温めていた手がまた冷たく冷えていった。だけど、今はそれでいい気がして──、しばらくの間、下流に吸い込まれていく冷たい水を見つめながら、上流から溢れる水でただただ右手を濡らしていた。


   *


 結局、ヒジキの一周忌らしいことは何もできないままにお開きになった。キーちゃんは、帰り際に、

「お正月、また一緒に飲みたいね。めっちゃ語ろうね」

と言いながら、旦那が運転する黒のハイエースに乗り込んで帰って行った。フロントガラスの部分に、UFOキャッチャーの景品だろう、たくさんのぬいぐるみが飾られている。旦那の顔は見えなかった。一度だけ会ったことがあるけれど、いわゆるヤカラ系というやつだった。いかにも下品で、パチスロで平気で数万円擦ってきそうな、頭の悪そうな人だなと思うような、そんな男──。

 アスミは「うん、お正月ね!」と返事したけれど、正月にはもう“パパ一号”とゴルフに行く予定があるから、キーちゃんと会うなんて無理だった。

 アスミはもう、ブログの収入だけでは暮らしていくことはできなかった。だからといって、会社で働く気にもなれなかった。

 ベッドに入る前、窓の外の桜を見た。冬なんだから当たり前だけど、葉も花も生っていなかった。月の灯りが茫々と、何もない空を浮かび上がらせていた。それをじっと見ていたら、中学高校時代のいろんな記憶が蘇りそうで、なんだか恐ろしくなった。アスミはそっと、カーテンを閉め、それから布団の中に潜り込んで目を閉じた。

 明日はサンシャインホテルか──。

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