きょうだい児 レイ(4)無修正ver.

 レイは息切れ切れで、ハンバーガーショップの前に立っていた。

 バーガー・ジャック所山パスカル通り店。赤と黄色に光輝く看板は、もうレイの目には染みなかった。目が外の光に慣れて、細めなくても風景をしっかり見ることができていた。“クリスマスセット予約開始”と書かれた白の旗が、風になびいていた。立て看板には“本日限定、フライドポテト半額”と大きく書かれていた。

 なぜ、ここにたどり着いたのだろう──。

 なぜ、ここで足が止まったのだろう──。

 上がった息は、なかなか整わなかった。膝も笑ってガクガクと震えていた。酸欠で、頭の中は空に立ち昇る息と同じに白かった。だけど、自動ドアが開いたり閉じたりするたび匂うジャンクな香りを嗅ぐうちに、いろんな色が絵の具のように頭の中に滲み出て、だんだん何かを思い出せそうな感覚になった。

 持ち帰り袋を持った太ったお母さんと、四、五歳の男の子が店内から出てきた。

「なんでここにはおもちゃがないの?」

「そういうお店だから仕方ないでしょう」

「ラッキーセットがないなんて聞いてない!」

「ラッキーセットは今度だね」

「いやだ! 今日がいい!」

「今日は無理だよ。ママのこと、困らせないでちょうだい」

「いやだ! 今日じゃなきゃいやだ!」

 店を出てすぐに駄々をこねるから、自動ドアが開きっぱなしだった。

 レイはそんな男の子を見ながら、幼稚園時代のことを思い出していた──。

 こうやって我儘を言う子はクラスに少なからずいた。お外遊びから戻りたくないと逃げ回る子や、カスタネットの時間なのにメロディオンを演奏し始める子。十六人クラスに五人もそういう子がいた。レイはその子たちをいつも軽蔑していた。なぜそうやって大人を困らせるのだろうか。レイにはそれがまったく理解できなかった。いい子にしていないと怒られるのに、怒られるとそうやって泣き叫ばなくちゃいけなくなるのに、我儘を言ってもどうせ聞いてもらえないのに、どうしてそんな風に全力で大人に抵抗しようとするのか、不思議で仕方がなかった。

 男の子は言葉にならない大声を上げ始めた。お母さんはその子の手を強く引っ張り、「いい加減にしなさい! 怒るよ!」と言って、怒った顔をしていた。

「いやだ、今日じゃなきゃいやだ!」

「ああもう、ママ知らないよ」

「どうしてそういうこと言うの!」

「アンタがそんな風だからだよ!」

 二人の親子は駅のほうへと向かって行った。声も背中もどんどん小さくなっていって、次第に人混みの中に溶けて見えなくなった。

 レイはふと、通りに並ぶビルの肩に掲げられる、色とりどりの看板を見た。赤や青や黄色や紫、ピンクや水色、いろんな色でキラキラしていて、いつか行った遊園地みたいだと思った──。


   *


 レイ、五歳──。雲ひとつない青く晴れた秋の空だった。あの日、レイは遊園地に行けると知ってとても嬉しかった。家族で出かけるなんて滅多にないのに、あの日はたまたま父と母の気まぐれで、市内の遊園地に連れて行ってもらえることになった。姉も一緒だった。家族全員で乗れるアトラクションが、ひとまず観覧車だということで、四人で一緒に観覧車に乗った。

 レイは市内の景色を高いところから観るのが初めてだった。普段無口なレイも、

「こっちが埼玉で、あっちが東京?」

「こっちが狭摩湖で、こっちが多山湖?」

「うちはどこ? 幼稚園は? あ! 駅があるよ」

と、はしゃぎながら観覧車に乗っていた。お父さんもお母さんもニコニコしながらレイの顔を見つめていて、レイはとても幸せだった。

 だけどちょうど天辺に来たところで、姉がお漏らしをしたことがわかった。観覧車内にアンモニア臭が充満して、姉の座る座席の面がぐっしょりと濡れていた。

 下に降りるまでの間、母は、

「どうしてオシッコ出る前に言わないの!」

「なんでそうやってお母さんを困らせるの!」

と、ひどく怒って半べその顔をしていた。

「せっかく来たのに、もう嫌。どうして私ばっかり!」

 さっきまでおかめの顔で笑っていたのに、福笑いみたいに顔を変えてしまったものだから、レイはもう、はしゃぐことができなかった。地面への到着を、どこの景色を観るでもなく、“ただ待つ”ということしかできなかった。はしゃぎ続けようと思えばはしゃぎ続けられたかもわからない。でももう──、そんな気にはなれなかった。

 姉は怒られているのに笑っていた。父は、

「あははじゃないだろう」

と言いながら、困った笑顔を浮かべていた。

 観覧車から降りて、階段を下った先のフードコート前で父が足を止めた。

「レイ、何か食べるか?」

 レイはそこで、店舗一覧にあったバーガージャックの看板を見ていた。

「ダメよ、こんなビショビショな状態で。帰りたいわ、私」

「でも、せっかく来たんだぞ。食事ぐらいしていかないか」

「着替えがないって言っているの! だいたい、座れないわよ、こんなオシッコじゃ。食事なんて家でもできるでしょう!」

「でもレイ、お腹空いているんじゃないのか?」

「うーん。ちょっと空いている」

「ちょっとなら我慢できるでしょう? だいたいね、こういうところの食べ物は体に悪いのよ。家で卵かけご飯でも食べていたほうがよっぽどマシよ」

「俺は食べたいぞ。アメリカンドッグがある」

「ダメよお父さん! 加工肉なんてどれだけ体に悪いと思っているの!」

「お前、こういうときぐらい、いいじゃないか」

「何がこういうときよ。オシッコなのよ? オシッコで食事はできないでしょう!」


 テラス席で食事している人がたくさんいる中、オシッコ、オシッコと言いまくる母を思い出して、レイは小さな笑みを漏らしていた。

 レイはこんな母を、いつからか馬鹿にするようになった。でも、心のどこかで、そんな母が羨ましかった。まるで子供みたいに喜怒哀楽を表現できる母が、憎くもあり、妬ましかった。

「お母さん、私本当はね、あのときバーガージャックが食べたかったんだよ」

 レイは目の前の赤と黄色の看板を見上げながら小声でそう言った。それから、

「ねえお母さん。私はあのとき、本当はもっと遊園地で遊びたかった。でも、お母さんが泣きそうだったから、私は興味のないフリをした」

と続けた。それから先、他にも色々喋り続けた。ずっと独り言が止まらなかった。周りの人がジロジロ見てくるのもわかった。あのオシッコオシッコ連呼していた母と、今の自分が何も変わらないのがすごくよくわかった。でも、口からどんどん言葉が溢れて止まらなかった。

「お母さん、私だって子供になりたかった。子供でいたかった──」

 レイの独り言が、どのぐらいの時間続いたかはわからない。

「でもね、お母さん。いいんだ。私はお母さんのこと、許せると思う」

「お母さん、ずっと恨んでてごめんね。どうしてお姉ちゃんを産んだのとか、どうして勝手に死んでしまったのとか、ずっと恨んでてごめん──」

「許せるのかな──。私はちゃんと、お母さんのこと、許せるのかな──」

「お父さんとは会えた? ちゃんと天国で、おかめみたいに笑ってる?」

 十九時を知らせる声と鐘の音が聞こえた。どこから聞こえているのかと思ったら、パスカル通りのあちこちの電柱に取り付けられた、スピーカーからの音だった。

「あとね、やっぱり思うのは、お姉ちゃんのおかげじゃないよ。口から出まかせだったんでしょ? 私はずっと、お姉ちゃんのせいで、お姉ちゃんのせいで──、こんな風になったんだから──」

 その言葉を声に出して言ったら、不思議に気持ちがスッとした。

「お母さん、私、バーガージャックが食べたい。ずっと、ずっと食べたかった。いいでしょ? だって私、お姉ちゃんのせいでずっと我慢させられていたんだから──」

 レイは吸い込まれるようにバーガージャックの中に入っていった。


 

   *


 レイはしどろもどろになりながらも、注文を終えて受取口前で商品を待った。こうやって自分の意志で外食の注文をするのが初めてだったから、ひどく緊張した。

 姉が目を覚ましていないか心配だったから、食べたら急いで帰ろうと思った。

 商品を待ちながら、奥の厨房を眺めた。スタッフみんなが、ドタバタとオーダーの品を仕上げていくのをじっと見た。赤文字で“六十秒以内に仕上げること”と書かれた紙が壁に貼られているのを見つけた。その紙と交互に、動くスタッフたちを見た。

 そうしているうちに、時間が、確かに前に向かって進んでいるんだということが身にしみた。と同時に、レイはこれまで、止まった時の中を生きていたような気がして不思議だった。でも、確かに時は進んでいて、レイはもう二十四歳だ。それは事実であり真実で、確かなことで現実だった。

「チーズバーガーセットでお待ちのお客様、お待たせいたしました」

 レイは商品を受け取って、自動ドアのすぐ脇の、カウンター席についた。それからガサゴソと音を立て、急いで包装を開けて思いっきりにバーガーにかぶりついた。二口! 三口! 四口! チーズの薫りが鼻から抜け、噛むほどに肉汁が溢れ、飲み込んだらすぐまた反芻して、もっともっと噛んでいたいぐらいに美味しかった。例えようのない旨さだった。ほっぺは地獄の底まで落ちそうなのに、気持ちには輪っかが生えて、天国に昇っていくレベルに旨かった。こんな旨いものを食べるのは初めてだった。味がする、味がする、味がする。なくならなければいいと思った。だけど五口目で、バーガーは消えてなくなった──。

 レイは、チーズバーガーに涙を流していた。ずっと、ずっと食べたかったチーズバーガー。消えちゃった。美味しかった。消えちゃった。もう一個買おうかな。駄目だ。帰らないと──。

 フライドポテトは詰め込むようにしてむしゃむしゃと食べた。途中喉に詰まらせ、むせてポテトを吐き出した。それでも食べる手を止めず、勢いよく口の中に詰め込んだ。ポテトの味はよくわからなかった。噛むと油が出てくるしょっぱい芋、としか思わなかったから、ただ無心になって食べていた。

「あの、もしもし──。ええと、大丈夫?」

 レイはふっと我に返った。誰かが肩を叩いて声をかけてきている。

「はい?」

「いや、ずっと泣いているから。ちょっと、心配で。おうちの人は?」

 そう言いながら隣の席の綺麗な女性が、優しくハンカチを差し出してくれた。おうちの、人? レイはキョトンとした子供の表情で、その女性の顔を見上げた。

「君、N中学の子でしょ? 私、そこ出身なんだ。ジャージ、一緒だからわかるよ」

 レイは指さされた太ももに視線を移した。

 ああ、そうか。これは中学の頃のジャージか──。

 レイはまた、時間が前に進んでいることを実感した。

 中学を卒業してからもうすぐ十年──。そっか、十年か──。

 その間、たしかに自分は生きていた。所山で生まれて、所山で生きていたんだ。時間に、社会に、世界に置いていかれていた気がしていたのに、ちゃんと、ちゃんと自分は生きている──。そう思ったら、不思議にますます嬉しくなって、また涙が溢れて止まらなかった。泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣きながら、口の中のポテトを一気にアイスティーで胃袋に押し込んだ。そしたらお腹がキュッと冷えて痛くなったから、卵のように身を縮めて、お腹の中を温めた。


   *


 “Live to the point of tears.”― Albert Camus

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