きょうだい児 レイ(3)無修正ver.

 ナツコさんは「私物だけれど」と言いながら、“特に多い日の昼用”と書かれたナプキンを三枚、茶の間のこたつの上に置き、次の訪問先に向かっていった。姉の生理の量が多かったらしく、レイが持ってきた十八センチのナプキンでは、とても足りないということだった。

 そういえば、レイの生理もいつから来ていないのかわからなかった──。

 夕方、レイは姉のために子供用番組にチャンネルを合わせた。姉は一人がけの肘掛ソファーに座り、楽しげにそれを観ていた。頭に鈴がついたパペットのキャラクターが好きなようだった。それが出てくると、高い奇声を発しながら、わずかにしか動かない首を小さく横に揺らしていた。

 しばらくして、レイは台所の流しの前に立った。隣人が玄関前に置いていった大根の土を、水道の水で流していた。こうやって、近所の人に食べ物をもらうことはよくあった。レイが何をお返しできるわけでもないのに、善意か同情か、あるいは父と母の仏様への御供えのつもりか──、とにかくしょっちゅう食べ物を置いていく人がいた。野菜や果物のときもあれば、調理されたおかずのときもあった。菓子パンやカップ麺が置かれているときもあった。それを置いていくのは一人ではなく、三人か四人いる気配だった。だけどレイはその人物が、隣人以外、誰なのかは把握はしてはいなかった。隣のおばさんは大きな声で「置いていくよ!」と叫びながら玄関を叩いていくからわかっていた。子供の頃から、ずっと声に特徴のあるおばさんだと思っていた。今もその声は変わってはいなかった。この大根も、そのおばさんが置いていったものだった。

 二人か三人か、隣のおばさん以外の何者かの影が玄関の磨り硝子に映るのを、レイは何度か見たことがあった。それは隣のおばさんと一緒に来ているわけではなく、みんな単独で来て、こそこそと置いていくのだった。

「レイちゃん! レイちゃん!」

 茶の間から姉の声がした。レイは大根を洗い終えて、姉の元へ向かった。

「レイちゃん。おと、あげてください!」

 そう言って紫の歯茎を剥き出しにする姉は、ソファーから身体を半分ずり落としていた。

 レイは言われた通りにテレビの音量をあげた。それから姉の横に立ち、引きずりあげるようにして元の位置に直した。

 姉はテレビから流れる童謡に合わせて、首を横に揺らして笑っていた。微かに腕も動かしながらに歌い、満面の笑みを浮かべていた。

 レイは台所に戻り、大根の身と葉を切って、花柄模様の古びた炊飯器に入れた。それから無洗米二合と、四合目盛までの水を入れた。レイの料理の仕方はいつもこうだった。もらったものを炊飯器に入れ、水を多めに入れて炊く。咀嚼力の弱まった姉が喉に詰まらせてはいけないから、食べ物は柔らかくしなければならなかった。また、レイには料理を覚える気力もなければ、他に何か食べたいという欲求もなかった。野菜だろうがおかずだろうが、カップ麺でさえ構わず、米と一緒に炊飯器に突っ込んでいた。さすがに甘いお菓子や果物などは例外だったが──。

 ご飯が炊けるのを待ちながら、姉が観ている子供向け番組を一緒に眺めた。それ以外に何かすべきことはなかったし、したいことも一切なかった。

 画面には、小学生がクリスマスディナー用のパエリアを作っているのが流れていた。これは先週か先々週か、それともずっと前なのか──、いつかは思い出せないけれど、観たことがある内容だった。姉はその映像を、しかめっ面で睨んでいた。

 ふと、石油ストーブの火が消えていることに気がついた。いつからストーブが止まっていたのか、レイにはわからなかった。

 温度計はあったけれど、電池はずっと切れっぱなしだった。部屋の気温が何度であるかもわからない。レイは姉に「寒い?」と聞いた。しかし姉はテレビを睨みつけたままで何も返事はしなかった。

 レイはストーブからタンクを引き上げ、玄関に出た。固い鍵を開けて扉を開き、空を見上げた。月も星も雲も太陽も、何も見えないただ黒いだけの空だった。灯油を汲みながら、その黒を見つめている間、一機の飛行機が轟音を立て、低空飛行をしていくのが見えた。その飛行機がどこから来てどこに向かっていくのか、レイにはわからなかった。ただ飛行機が飛んでいるという現象のみがそこに存在していて、それが存在する理由なんてどうでもよかった。

 タンクを右手に、茶の間に戻った。テレビからは相変わらず子供向けの歌が流れていた。ソファーを見ると、姉がそこから消えていた。自力で歩行移動が難しい姉は、探すまでもなく、下にうつ伏せになって落ちていた。

 レイはストーブにタンクを戻し、姉の体勢を戻そうとすぐ横まで近づいた。

 姉は、小さな声で喘ぎながら、クネクネと蠢いていた。レイはその姿を立ったままに見下ろし、観察するような目でじっと見た。

 姉は衰えた筋力で一生懸命に腰を動かしながら、畳に股間を擦りつけていた。この光景は、珍しいことではなかった。レイが子供の頃から、何度も見たことがある光景だった。知能指数は三歳児以下とされていても、身体は大人だから、こうやって性を処理することも特段不思議ではないのだった。

「これは普通のことで、健常者でも障害者でも関係なく備わっている標準的な欲求なんです。なるべく、止めないであげてください──」

 こんなことを言っていたのは、ナツコさんだっただろうか。ナツコさんの前でもこうやって、姉が自慰したことがあったのだろうか。だからそんなことをわざわざ言ってきたのだろうか──。覚えていない──。

 レイは座布団を移動し、少し離れた場所に座った。興味もないテレビを、何を考えるでもなしに再び眺めた。

 電話がジリジリと鳴り響き、壁からピシ、ピシと音が鳴った。レイは受話器を取り「はい」と答えた。

 電話の相手は、いつからか連絡が途絶えていた、姉が入所すると決めていた療養施設の相談員だった。声が低めの女性だった。以前連絡を取っていた相手かどうかはわからなかった。

「長いことお待たせしていましたが、女子棟に空きが出ましたので、もう一度見学に来ていただき、入所の手続きを──」

 レイは「はい、はい」と返事をしながら、紙にメモを取った。日時、持ち物、受付の場所、最寄り駅からのバスの時刻と、マスクは必ず着用とのこと──。紙を文字で埋めている間、姉はひたすら腰を畳に擦り続けていた。そのせいで、姉は少しずつ左側にずれていき、ソファーからどんどん離れた場所まで移動していた。レイはそれを観察しながら受話器から聞こえる説明を聞き続けた。

「それでは年明けの一月七日の午前十時に、受付に来てください」

「はい」

「失礼いたします」

「はい」

 受話器を置くのとほぼ同時に、姉の腰の動きも止まった。

 姉は疲れ果てていた。乱れた呼吸が整うまでに少し時間がかかりそうだった。

 レイは十二月のカレンダーの横に貼った、来年のカレンダーの一月七日のスペースに、“施設十時”と鉛筆で記入した。それから今取ったメモを、その下に貼りつけた。

 振り返り、姉を見た。姉が横に移動してきたその軌道に、うっすらと血が伸びているのが見えた。レイはこたつの上のナプキンに視線を移した。しかし、姉の寝息が聞こえてきたから、トイレに連れて行くのは後回しにすることにした。

 レイはテレビを止めた。それから何をするでもなく、姉の寝息をしばらく聞いていた。ただそれしかすることがなかった。

 スー、スー、と小さな息が漏れている。ただそれを、聞く。聞く。聞く。聞く。しばらくの間、聞いていた──。そのうちに、その吐息が暗い泡の粒になり、身体の周りに大量にひっつき、天井までレイを持ち上げようとしているような、不可知な感覚に襲われた。

 身体がふわふわと宙に浮いた感覚になった。それからすぐ、頭の中で大きな銃声のような音が鳴ったのが聞こえた。バキューン! するとレイの周りに沸いた気泡の粒が、全てパチン! パチン! と音を立てて破裂していったのがわかった。

 身体は確かに、硬い畳の上にあった。ささくれた古い畳の感触を確認する。ボロボロと指先に刺さるような感触をしっかりと感じる。

 レイは辺りを見渡した。何かが変わったようだった。しかしどう変わったのかはわからなかった。少し電気が明るくなったのかと思ったけれど、天井の電気の輪は一つ切れた状態のままだった。

 耳を澄ますと、姉の寝息がさっきよりもはっきり鮮明に聞こえた。風で家が揺れているという感覚がしっかりとあった。それから部屋が寒いことに気づいた。ストーブは、長いこと止まったままだったのだろうとレイは思った。

 姉の顔を見た。うつ伏せのまま、口を半開きにして畳の上に右頬を押しつけていた。それを見て、この人は自分の姉なのだと、ごく当たり前のことを思った。自分とこの人は姉妹なのだと、血縁関係にあるのだと、その考えが、頭の中をぐるぐると巡った。


 世界が、始まった。

 誰だお前。

 世界はもう、とっくに始まっていたよ

 いいや、世界なんてないよ

 世界がなければ僕たちはなんだっていうんだ!

 笑った、死んだ、あはははは!

 嘘だ! 嘘つきだ!

 

 耳の奥を、どこかの誰か達の話し声が、這いずるように巡り始めたのがわかった。それらの声は、逆さまになって落っこちるように、すべての言葉が尻窄みで消えていった。レイはその声を聞いた。ただ何をするでもなく、黙って座ったままに聞いた。聞き続けることしか、今のレイにすることはなかった。

 

 レイちゃん。レイちゃん。レイちゃん。

 誰だお前、いきなり出てくるなよ。

 何怒っているんだよ、穏やかになれよ。

 ねえ、黙って?

 はーい! 聞こえていますよ!

 お姉さん、ようやく施設に入れるのね。

 いいなー、レイちゃん、羨ましいなあ。

 そうだね。もう楽になれるね! おめでとう!

 お姉ちゃんが家からいなくなったら、さてどうやって生きますか!

 夢を叶えることができるね!

 “人生の最大の幸福は、一家の和楽”って誰の言葉?

 お医者さんになりたかったんだよね?

 蟹じゃなかったの?

 あれは冗談でしょうが。

 あはははは! あはははは! 笑ってるんじゃねえよ!

 ねー、そうだよねー。チョキチョキ。

 お医者さんに、今からなれるの?

 かぷかぷかぷかぷ。

 なれるわけないだろ!

 なれるよ。なれるなれる。

 なりたくないよな?

 学費は?

 お金はお姉ちゃんのが貯まっているんじゃないの?

 宇宙にはブラックホールという大きな穴があります!

 それ引き出して使っちゃえば?

 レイちゃんは頭いいからすぐなれるよー。

 いけないだろ、そんなこと。

 あんた、いつもいつもどうしてこんなに帰りが遅いのよ!

 いけないよ、レイちゃん、捕まっちゃうよ。

 でもお父さんとお母さん、遣っていたじゃない。

 この役立たず。役立たず。役立たず。役立たず。役立たず。

 それはお父さんとお母さんだからよかったんじゃないの?

 残高ゼロから三年で百五十万円! さすがです!

 毎月全額引き落とします。

 お前のせいだ、お前のせいだ、お前のせいだ。

 いいんだよ、保護者なんだから。

 じゃあレイちゃんもいいんじゃない?

 ダメよ、レイちゃんは成年後見人だもの。

 こいつの世話は、将来的にレイが見るんだろうな。

 何それ、わけわからん。

 お姉ちゃんが家からいなくなったら、やることがなくなるんじゃない?

 そう──。だから、どうしていいかわからないんだね──。

 こわい?

 わからない──。

 こわくないよ。こわくない、こわくない──。

 こわいよ──。

 ビーフオアチキン。

 不安?

 安心でしょう。もう安心できるでしょう?

 今のレイの世界に、不安も安心もないだろうが。

 あるよ! 生きていれば、安心も不安もあるでしょ! 普通そうだよ!

 うるさい、うるさい、うるさい。

 あはははは! あはははは! あはははは!

 生きる、世界、地上、宇宙、蟹、ポーク。


 いろんな声が混じっていた。小さな声、大きな声、子供の声、意地悪な声、優しい声、甲高い声、野太い声、ダミ声、歌声──。全部どこかで聞いたことがあるような声だった。だけど、それが誰かはわからなかった。


 時計を見る。午後の六時半だった。

 レイは姉を起こさないように、寝床から毛布をもってきて背中にかけた。それから寝床に行き、タンスからジャンバーを取り出した。袖に腕を通す。かつて自分が着ていたものとは思えないぐらいに大きくてブカブカだった。

 外に、出る──。

 決心のような、欲求のような、小さなそれが、レイの心の底に芽生えた。いつぶりかはわからなかった。自主的に、自分の意志で外に出ようだなんて。

 玄関先に出て靴を履いた。この靴もまた、自分の靴じゃないような、変な感覚だった。靴紐をきつく結ぶ。これで少しはマシな気がした。

 ドアを開けて外に出た。さっきと同じはずの空が、レイには少し明るく見えた。

 二歩、三歩、四歩、五歩。砂利を踏んで歩く。

 冬だ。

 六歩、七歩、八歩、九歩、十歩。

 外は、痛かった。

 冬だ。冬だ。冬だ。

 いつからか感じなくなっていた季節が、確かにここにあるのを感じた。

 身体が微かに震え、耳と指先が少しずつ痛み始めるのがわかった。息は真っ白でもくもくと空に昇っていった。立ち止まってしばらく自分の息を眺めた。夜と呼吸のコントラストが、すごく新鮮で嬉しかった。自分の息が白いということが、こんなに嬉しいなんて、意味がわからなくて少し笑えた。それからだんだん楽しくなってきて、レイは思わず駆け足になった。すぐに脚が縺れて転びそうになったけれど、体制を立て直し、また走った。すぐに息が切れ、鎖骨の辺りに鋭い痛みが走った。だけどレイは、駆けることをやめなかった。笑いながら走るから、乾燥で前歯に上唇がひっついて、少し皮が剥けてしまった。

 家を出て、住宅街を不恰好に走り抜ける。ちょっと先を走る県道を目指した。真っ暗の奥に見える車のライトの連なりが、きらびやかで華々しかった。埃をかぶった蛍光灯の光の中でばかり生活していたせいで、外の光がとにかく強くて痛かった。

 レイは、駅の方向へと駆けていった。腕の動かし方も、脚の動かし方も、自分でおかしいとわかっていたけれど、止まることはできなかった。喉が痛い、肺が痛い、脇腹も頬も足も腕も目も鼻先も口の中も、心臓も痛い。とにかく痛い。痛すぎる。それなのに、楽しくて嬉しい。私、今痛がっている。走り方だって、何これ、わからない。わからなくて困っている。ああ、私、困っているんだ──。私、私、私、私、私! 私は走っている!

 どこへ向かおうとしているのかわからなかった。

 でも、それでよかった。ただとにかく、今は走りたくて仕方がなかった。

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