きょうだい児 レイ(1)無修正ver.
「お姉ちゃんのおかげで、レイも贅沢できるのよ」
レイは玄関の片づけをしながら、子供の頃のことを思い出していた──。
*
四歳からか、五歳からか、それとも、もっとずっと前からか──。気づいた頃には、レイの家では毎月“海の幸パーティー”が開催されていた。読んで字のごとく、それは、家族で海産物を囲んで食べる会だった。
春には北海道からカニを仕入れ、夏には三陸からウニやホタテを仕入れる。秋には千葉から伊勢海老を仕入れ、冬には広島から牡蠣を仕入れていた。能登半島から大量の鮮魚を仕入れたこともあれば、三崎港から食べきれないほどのマグロの切り身を仕入れたこともあった。それらはすべて、食品問屋の零細会社を経営している父が手配していたものだった。
レイ、六歳。幼稚園の卒園式を間近に控えた、三月の夕のことだった。
砂利の庭に軽トラが止まり、玄関が開く音がした。それからすぐ、ドスンと重い何かが置かれる音がして、家が微かに縦に揺れた。
「おーい。これ、台所に持って行ってくれ」
大きく嗄れた父の呼声が、レイの耳の奥を引っ掻いた。と同時に、こたつで寝ていたふとっちょの母が、ハッと目を開き飛び上がった。
「来たわ!」
母がドカドカと起き上がった拍子で、コタツの天板が数センチ浮いた。母の向かいに座り、野口英世を読んでいたレイは、その不可抗力で本の下っ角が頬にグスッと刺さった。
「ちょっと、痛いんだけど──」
レイは母を睨みつけた。しかし母が気づくことはなかった。というよりも、レイはわざと聞こえるか聞こえないかの小さな声で言っていた。
つけっぱなしのテレビでは、相撲が放送されていた。音声の乱れを謝罪する解説の人の声の向こうで、紫の座布団が何枚も空中を舞っていた。
トドみたいな身体を素早く起こした母は、小走りぎみに玄関に向かった。そんな母の、下着やゴムウエストのスウェットパンツ、色々食い込んだハムみたいな後ろ姿を、レイは冷ややかに、ただ冷ややかに、横目で追った。
レイは本を閉じて立ち上がり、角がぶつかった左頬を窓に映した。西日が落ち、外が暗くなりかけた窓は、レイの顔をはっきりと映した。痛みの部分を注意深く確かめる。しかし、ほんの一ミリさえ痣はできていなかった。赤くも青くもなっていない。白に近い普通の肌の色だった。指先で触れてみる。血も一滴だって出ていなかった。レイは「残念」と思いながら、頬を強く擦り舌打ちをした。
「何よ、まったく。今忙しいのよ」
母は溜息を吐きながら廊下を歩いていた。ドスン、ドスンという足音の奥に、ミシ、ギシ、と床の軋む音がした。起きて茶の間を出るまでは嬉々とした顔をしていたくせに、廊下に出た途端に気怠く忙しいフリをする母のそれが、レイにはまるで理解できなかった。
「ほらこれ、今夜のメシだ。六時半に風呂、七時には晩酌できるように準備しといてくれ。今日はパーティーだからな」
父の声は弾んでいた。もうすでに出来上がっているのかと思うほどだった。普段は低くて弾力のない声をしているのに、この日は玄関を開けるなり、やたらと陽気な様子だった。
「あっという間に三月十日。一ヶ月経つのが早いわねえ。さて、今日はいったい何かしら?」
「ジャジャーン」
「あら、開かない」
「待て──。ジャジャーン」
発泡スチロールがミシミシと擦れ、スポンと蓋が開く音が聞こえた。
「まあ。何よこんなに。ええ? すごい! ちょっと、レーイ! こっちに来て。見てみなさいよー!」
最初はかったるそうにしていた母だったが、だんだんに父と同じように声を弾ませていった。三DKのボロくて小さな平屋だから、玄関先での父と母とのやりとりは、嫌でも茶の間にすべて聞こえた。
母はさらに声を弾ませ、
「でもお父さん。これ、さすがに多すぎるんでない?」
と言った。
「そうか? 俺は食えるぞ」
「まあ、そうね。食べられるわね」
「じゃあ多すぎるなんて文句言うなよ、せっかく仕入れたんだから」
「文句じゃないのよ。こんな贅沢ができるなんて、お父さんと結婚して、お母さん本当に幸せだって言っているのよ」
「それは、よかったな」
「幸せすぎてこわいぐらいよ。助けてちょうだいな」
「ああ、知らねえよ」
ピンポンのラリーのように、父と母の弾む声が、ボロの家に響いていた。
「レーイ! 早く来て、見てよ。すごいわよー!」
母のキンキンとした呼声が響いたかと思うと、茶の間の壁がピシ、ピシと鳴るのが聞こえた。レイは小さく溜息を吐いたあと、
「待って。今、行く」
と答えた──。
母からの返事を待ってみたけれど、何も返ってはこなかった。
茶の間から一歩廊下に出ると、切れかけた棒状の蛍光灯が、チカチカと黄色く点滅しているのが気になった。といっても、この時初めて気になったというわけではなかった。本当は、もっとずっと前から気になっていた。こんな風に点滅するようになってから、随分月日が経過していた。
そのチカチカの周りを編むようにして、蜘蛛の巣なのかホコリなのかわからない、謎のふわふわした犬の抜け毛みたいなのも絡まっていた。天井からもいくつか、それと同じふわふわのものが、垂れてビロンと伸びていた。それは前に見たときよりも、二つか三つ増えている気がした。
玄関に向かってまっすぐに伸びる、三メートル弱の冷たい廊下──。砂の壁は真鱈に黒ずんで小汚ないし、床もあちらこちら木が剥がれていた。さらには、雨漏りしているわけでもないのに、黒カビが生えている箇所もあった。なぜそうなっているのかはわからなかった。犬も猫も飼っていないから、動物の糞尿というわけでは絶対になかった。鼠かもしれないけれど、鼠が家にいるのを見たことはなかった。
これじゃあ、お化け屋敷って言われるのも仕方ない──。
「レイ、何突っ立っているのよ。早くこっちに来なさい。もう、変な子なんだから」
「うん──」
*
「ねえねえ、レイちゃんのおうちって、なんでお化け屋敷みたいなの?」
幼稚園のクラスメイトに、いつか投げつけられた無邪気な質問──。中に入れたことなんて一度もないのに、外から見ただけで、お化け屋敷に見えるらしかった。
「わからないけど、古いからじゃないの」
「うちも古いけど、お化け屋敷みたいにはなっていないよ」
その言葉に、レイは何も言い返すことができなかった。
そのとき抱いた感情は、腹がたつとか悔しいとか、なんでそんなひどいことを言うんだとか、そういった怒りや悲しみの類ではなかった。
それは──、ただ一つの不安だった。もしその子にお化けの霊ちゃんなんて呼ばれたらどうしようか、という不安だった。その子はクラスの中で一番か二番に目立つ子で、影響力の強い子だった。その子が何を思ったか“ウン子”とあだ名をつけた泣き虫な女の子は、最初はおふざけで仲間はずれにされているだけだったが、だんだんとバイキン扱いされるようになって、最後には性格の悪い男子連中から髪の毛を毟られたり、お腹を蹴られたりするようになっていった。レイはその現場を見たことがあったけれど、何もすることができなかった。
年中組のクリスマスちょっと前から、その女の子は幼稚園に来なくなった。
「お化け屋敷」と言われてからずっと、自分もそうなってしまうのではないか、という不安が長らく続いていた。だけどもうすぐ卒園というところまで、変なあだ名をつけられることなく過ごすことができた。「お化け屋敷」と言ってきた子は、幼稚園は二年間同じだったけれど、通う小学校の学区は違った。しかもインフルエンザに感染してしまい、卒園式に出られるかどうか微妙なところらしかった。だからもう、その子が何を言いだすか不安に思い続ける必要は、この頃ようやくなくなっていた。
*
廊下を歩き、母のすぐ後ろに立った。母は発泡スチロール箱を覗きながら、キャッキャと嬉しそうにはしゃいでいた。
「あら、よく動く子たちですこと! まあ! この二匹ケンカをし始めたんじゃない?」
無邪気に揺れる母の肉厚な背を見つめ、レイはキュッと唇を噛んだ。
「ほら、レイも見てみなさい」
母はおかめのようにニコリと笑い、こちらを振り返った。レイは小さく頷き、一歩前に出て箱の中を覗いた。
「蟹だね」
母のテンションに逆行するように、わざと力なく答えてみる。
「なんだレイ、それだけか。もっとこう、感想はないのか? ほら見ろ、こいつは威勢がいい。こっちはレイに似てじっとして動かないな」
父は目を輝かせながら言っていた。それから風船が弾ける勢いで、大きな声でガハハと笑った。
「蟹だね」
レイはさっきと同じ抑揚で同じことを口にした。それを聞き、父と母は顔を見合わせ笑っていた。
「本当、レイって変な子ね」
毛ガニが十数匹とズワイガニ一匹が、発泡スチロールの中で蠢いていた。レイにとってはただそれだけのことだった。興味なんて、これっぽっちもなかった──。
いや、そうじゃない──。
父と母が喜ぶものに、絶対に興味を示したくないという意地があったといったほうが正解に近いのかもしれない。
依怙地だということは、六歳のレイでも認識できていた。しかし、そうしてしまう、そうしなくてはならないという自意識が、この頃のレイには強く芽生えていた。理由まではわからなかった。ただとにかく、この頃のレイは、こうすることでしか自分を表現できずにいた。
「レイにはまだ、蟹が贅沢品だってわからないんだな」
「虫の観察はよくしているのに、蟹には興味ないの? 変な子ねえ」
母はずっとニコニコと笑っていた。さっきまでずっと寝ていた母が、幼稚園バスから降りても玄関まで迎えに来ない母が、いつから寝ていたのかわからない母が、蟹に起こされて気分よく笑っていたのだ。
レイは腹が立って仕方がなかった。母の笑顔を見たくなかった。呆れているのかもしれなかった。悲しいのかもしれなかった。自分の感情の整理ができないまま、レイはもう、俯いて蟹を見ることしかできなかった。
手足を輪ゴムで括られ、十数匹で重なり合う蟹たちは、どこを目指すわけでもなしに蠢動していた。胴体から斜めに飛び出た目がみんな薄茶色にくすんでいた。みんなどこを見ているのかわからなかった。目が合うわけでもなかったし、瞳に何が映っているわけでもなかった。
蟹はこんなところに連れてこられて、今から熱湯にぶち込まれて茹でられて食べられる。こいつらは、それがわかっているのだろうか──。
レイは蟹をじっと見て考えた。
蟹──。なんて可哀想な生き物だろう。こんな生き物と比べたら、自分はよほど恵まれているのかもしれない──。だって、こんな風にごちゃごちゃにされて空輸されるわけでもないし、食われもしないし、第一、見た目が気持ち悪い。横にしか歩けないのも可哀想。ああ、可哀想、可哀想。人間に生まれて本当によかった。生まれ変わっても蟹だけは無理──。
レイは──、自分の神経がどんどん尖っていくのを感じていた。だんだんに、耳鳴りがし始めた。キーンという高い音の向こうに、廊下の電気のチカチカの音が低く聞こえた。
蟹は──、どこを見ているのだろうか。
何も見ていないのだろうか。
何も聞こえないのだろうか。
蟹に耳はあるのだろうか。
耳がないから横にしか歩けないのだろうか。
だってこないだ、幼稚園の平均台の授業で、耳を塞いで渡ってみようっていうやつで、耳栓して渡ってみたらグラグラした。横歩きなら少しはまともに歩けた。
ということは、蟹には耳がないのかもしれない。
ちょっと待って? それって逆に羨ましくないかな? こんなくすんだ目、きっとほとんど見えていないし、耳もないから音も声も何にも聞こえやしない──。
いいな。やっぱり蟹っていいな──。
もし自分が蟹になったら──。
人間に食われてしまわないように、人間が住む場所から遠い遠い海の辺りの蟹になろう! 将来の夢は蟹! なんてね──。
ズワイガニの胴体の下で、泡を吹いているケガニを見つけた。
変なの、と思った。そのときケガニがレイに向かって、
「変な子ねえ」
と言ったのが聞こえた気がした。
「どうして? なんで私が変な子なの?」
レイはムッとしながら蟹に向かって言った。言ったあとに、声が出ていることに気がついた。母は驚いたようにして、
「なに? さっきのことを気にしていたの!」
と言った。レイは一瞬、何のことかわからなかったが、たしかにそういえば「変な子ねえ」と母が自分に言っていたなと思い出した。それから、これまでに何度も「変な子」と呼ばれていたなと気がついた。
「ねえ、お母さん」
レイは尋ねた。
「なに?」
「どうして私は変な子で、お姉ちゃんは天使なの?」
何を考えるでもなく、口からその言葉が出てきていた。一瞬、自分でも思わぬ質問が出てきて驚いたけれど、だからと言って訂正するでも慌てるわけでもなかった。
母の顔は見なかったけれど、しばらくの間、沈黙があった──。
レイは、自分が変な子と呼ばれることはどうでもよかった。なんとなく、他の子と違う気がするというのは自覚していた。みんなと一緒に遊ぶのが苦手だし、一人で遊んでいるほうがよっぽど楽しかったからだ。レイの通う幼稚園にはそんな子ほとんどいなかった。だから変な子と呼ばれるのは仕方ないと思っていた。実際、他の子にも何度か言われたことがあった。
だけど、姉が天使である理由はずっとわからなかった。考えても考えてもわからなかった。
母はしょっちゅう「お姉ちゃんは天使なの」と言っていた。しかしレイにとって、天使というのは全裸で頭に輪っかがついた、羽根の生えた子供であり、姉にはその特徴が一つもなかった。だから、姉が天使という意味が、まったくもってわからなかった。
「──何よ急に、変な子。天使は、天使よ」
母は口ごもりながらにそう言った。
「ふうん」
レイはそれから何を言うでもなかった。それ以上聞きたいとも思わなかったし、聞いても意味がないと思った。
天使は天使というのなら、それはもう天使なのだろう。
蟹が蟹であるように、発泡スチロールが発泡スチロールであるように、姉は姉で、天使は天使なのだ。
なるほど、わからない。
だけど、わからないことなんてたくさんある。
わからないことがあるたびに、質問するのは面倒くさい。
質問したところで、天使は天使よと言われて結局わからない。
やっぱり、蟹になるのが私の夢だ──。
「変な子ねえ、まったく」
このとき、母がどんな顔をしていたのかはわからない。おかめの顔だったのか、眉をひそめていたのか、困った顔にすり替わったか、わからない。
「ええとねえ、レイ。お姉ちゃんのおかげでレイも贅沢できるのよ」
「なんだお前、急に。子供の前でそんなことを言うなよ」
「だって──」
焦っていたのかなんなのか、脈絡なしに母は「お姉ちゃんのおかげ」という言葉を口にした。
「へえ──」
レイは力なく相槌を打った。言っている意味は理解できなかった。理解しようとも思わなかったし、別にそんなことはもうどうでもよくなっていた。
泡吹く蟹が、他にも何か言っているような気がした。しかし何を言っているのかはわからなかった。助けを求めているのだろうか。また変だのなんだの言っているのだろうか。それとも──。
レイはその、死にかけの蟹をじっと見ていた。すると、突然に激しい吐き気に襲われた。いきなりだった。これまで胃も腸も何も感じなかったのに、本当に突然に内臓から熱くて黒い得体の知れない何かが込み上げてくるのを感じた。
一度目はえづいただけだった。
なんだろう──。
すぐに二度目のえづきが来た。
レイはたまらず嘔吐した。吐瀉物は黄土の色で黒の粒つぶが混ざっていた。発泡スチロールの中に放物線を描いて盛大に噴き出るそれを、レイは目視しながら吐いていた。三度目のえづき、四度目のえづきがレイを襲った。その度に、レイは吐き戻し、蟹にゲロを浴びせた。
「ちょっと、レイ! やめて! なに? どうしたの! ちょっと、離れて!」
すぐそばで怒鳴っている母の声が、不思議と遠くから聞こえた。自分の身体がどんどん小さくなっていくような気がした。それがなぜかはわからなかった。わかろうともしなかった。
嘔吐は、五回目のえづきを最後に止まった。
十数匹の蟹が、ゲロまみれになりながら蠢いているのがぼんやりとして見えた。身体の大きなズワイガニが発泡スチロールから飛び出し、床から土間に落ちたのが見えた。それから視界にどんどん靄がかかっていった。レイは膝から崩れ落ち、その場からしばらく動くことができなくなった。
「大丈夫か、レイ」
父の声が聞こえた。レイは何も答えなかった。答えることができなかった。ただ、吐瀉物に塗れたケガニらを、茫然として見つめているのが精一杯だった。
「お父さん、どうしようこれ。蟹が──」
「どうしようったって──。風邪か? インフルエンザじゃないだろうな」
慌てふためく母をよそに、父の声は冷静だった。
レイはその晩、蟹を食べずに布団に入った。父と母は蟹をよく洗って湯がいて食べていた。父も母も、茶の間の座布団に座って、何も喋らず啜る音を立てながらに食べていた。それを隣の部屋の寝床から、暗い天井を見つめながら、耳を澄ませて聴いていた。
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