きょうだい児 レイ(2)無修正ver.

「戻りましたー。玄関、ずいぶん片づきましたね!」

「ええ、これでここから車椅子の出し入れができると思います」

「助かります! じゃあさっそく失礼しますね」

 車椅子の姉と、それを押すヘルパーのナツコさんが戻ってきた。

「おお、スッと通れますね。じゃあ、あとは──お風呂ですね!」

「はい。よろしくお願いします」

 ナツコさんは車椅子に乗った姉をヒョイと玄関に押し入れた。姉はナツコさんと同じ三十歳だが、身長の差は十五センチはあった。

「せえの。よいしょ!」

 ナツコさんはグルグルに巻いたマフラーを自分の首から巻き取り「今日もすごく寒いですねえ」と言って玄関脇のホコリまみれの下駄箱の上に置いた。レイはそのマフラーをみながら「そうですね」と言ってうっすらとした微笑みを返した。

「レイちゃん。ただいまあ」

「おかえり──」

 姉は歯石だらけの黒ずんだ歯をむき出しにし、レイに向かってニカッと笑った。そのチンパンジーみたいな笑顔に対し、レイはさっきと同じ薄い笑みを返した。ナツコさんはそんな二人を交互に見ながら、

「さっきお姉さん、すずめが膨らんで並んでいるのを見て、とても喜んでいましたよ。すずめ、すずめって言いながら」

と言葉を挟んだ。

「すずめ、かわいかったです!」

 姉は二重に着た上着を脱がしてもらいながら、無駄に大きな声で言って笑った。それから、

「ナツコさん! オシッコ! オシッコ!」

と言って、トイレに行きたいとせがみだした。レイはゆっくりと玄関の扉を閉めた。

「あらま。寒かったからオシッコ我慢していたのかもしれませんね! 急いでトイレに行きましょう!」

 ナツコさんは姉の膝からサッと膝掛けを引っ張った。車椅子から姉を降ろし、姉の手を取りトイレに急いだ。

 六つ上の姉は、IQ二十以下で知能レベル三歳以下程度とされている“最重度知的障害”だった。レイが物心ついた頃から、ずっと姉は変わらなかった。あいうえおは半分ぐらい読めるけれど、書くというのは一切できない。もちろん簡単な計算もできなければ、まともな会話も難しい。気に入らないことがあれば暴力を奮って力で解決しようとする。本当に三歳以下の子供のような状態のまま生きて三十路になった。

 ただ、この一年で少しずつ変わってきたことがあった。それは人を叩く、蹴るということがなくなったということ、文字が書けなくなったということ、それから移動が車椅子になったということだった。レイはこれについて日誌をつけていた。これは姉の担当医からの指示だった。

 ちょうど一年前、姉が布団から立ち上がることが困難になってきたのをみて、レイは姉を病院に連れて行った。そこで診断されたのは筋強直性ジストロフィーという遺伝性の病気だということだった。

 レイの母親は、レイが高校二年のときに、突然の心肺停止で亡くなった。そのときの診断は心不全ということだったが、本質的な原因についてはわかっていなかった。姉の病気が表面化したことで、母の突然死もおそらく筋ジストロフィーの症状がいきなり心臓に現れたのではないだろうかということだった。レイにもその病気が遺伝しているかもしれなかったが、発症前にその因子を持っているかを調べることは、医師としてはしたくないということだったので、レイはそれに従って診断は受けてはいなかった。


「お姉ちゃんのおかげ」

 

 母のあの、蟹の日に言ったセリフが、頭の中で小さく響いた。

 レイはトイレにゆっくりと向かう姉とナツコさん二人の背中を、ただ呆然と見つめ続けた。トイレに入ったところを確認してからも、ただ立ったまま、古く汚い廊下を眺め続けた──。

「レイさーん、ちょっとすみません。お姉さん、生理が来てるのでショーツとナプキンの用意お願いできますかー。このままお風呂に入れるので、お風呂場に持ってきてもらえると助かりますー!」

「はい──」 


 レイはいつにも増して冷えた廊下を、薄汚れた靴下で踏みしめ歩いた。茶の間の隣にある畳の寝床の木製箪笥から、姉の生理用ショーツとナプキンを掘り起こして取り出した。探すのに少し時間がかかった。

 それから茶の間に戻り、畳の上に一枚の紙が落ちていることに気づいた。それは姉が筋ジストロフィーであると診断されたときの診断書だった。レイはそれを元々貼っていたテレビの横の壁に画鋲で貼り直した。この場所には他にも、姉の養護学校の卒業証書や、訪問介護と訪問看護の日程表、一ヶ月先に控えた姉の緑内障手術の入院計画書、何年前から貼っているのかわからない、空きが出次第入所予定の施設の資料などが貼られていた。

 廊下に戻り、浴室に向かった。ミシ、ミシと床から音が鳴る。その奥に、林檎を齧るようなシャリシャリとした音が連続して響くのが聞こえた。それはナツコさんが、風呂場で姉の身体をナイロンタオルで手際よく洗っている音だった。

 レイは浴室を覗いた。身体を洗われている裸の姉と、それを洗っているナツコさんの背が見えた。タイルや壁、床、天井のあちこちがカビだらけであるのが見えた。黒だけではなく、桃色や緑色、黄色や橙色、様々な色のカビがあった。シャンプーや石鹸置きも、カビと湯垢に塗れていた。かつてあったシャワーを引っ掛けるためのフックが、使われないまま、もう出番もないままに、ただ壁に貼りつけられていた。曇った磨り硝子の窓の向こうで、葉のない木が大きく揺れ、時々窓を叩いているのが見えた。

 そういった──、これまで何度も見たことのある風呂場の光景が、このときレイにはまるで画面越しの映像のように感じられた。すぐ目の前にあるはずなのに、遥か遠くのもののように見え出していた。遠近感、現実感はまるでなかった。今までもこんな光景は幾度となくあったはずだよな、というプカプカとした記憶だけが、クラゲのように宙に浮いた。だけど、それが本当にあったかと聞かれたら、そうだろうかはわからなかった。こんな風に見えるのは、浴槽から立ち昇る湯気が、脱衣所まで伸びて視界を曇らせているからかもしれなかった。いや──、そんなことを考えたかどうかはわからない。きっと考えてなんていないのだろう。

 レイはすぐに気づいた。この現象は風呂場に限って現れることではなく、これまでも度々起こっていたことだった。自分が世界から切り離されているような、この感覚。それは、なにも今に始まったことではなかった。

 レイは何も言わず、ただ二人を眺めていた。ナツコさんは、まだレイが後ろにいることに気がついていなかった。

 姉は身体を洗われながら、

「ナツコさんもおふろ、おふろ」

と、湯垢まみれの鏡に映るナツコさんに向かって話しかけていた。

 ナツコさんは洗い場と脱衣所をまたぐ形で、姉の身体に桶の湯をかけていた。風呂場の扉を閉め切ると姉の身体を洗うスペースを確保できない。だからいつもナツコさんはそうやって洗っていた。それでも脱衣所にお湯を飛ばして濡らしてしまうということは、今の今までまったくなかった。記憶によればそのはずだった。

 いつからナツコさんにお世話になっているかわからない。数年のような気もすれば、まだ数ヶ月も経っていないような気もする。

 ──靄がかかった感じがするのは、空間だけではなく、時間の感覚も同じだった。いつかは忘れたけれど、ナツコさんが姉と同い年であると教えてくれたから、なんとか自分の年齢も計算できている。もしもそれがなかったら、自分の年齢だってレイはわからなくなっていたかもしれない。

「私もここでお風呂に入るの? いやいや、入りませんよ! 仕事が終わったらゆっくりおうちで入りますからねー!」

 姉の誘いに、ナツコさんは息を切らしながらに断りを入れた。

「おうちで? おうちはどこですか?」

「ここから一キロぐらいのところですかねー」

「イチキロ? イチキロ! アハハハハ!」

 脱衣所の足元に置いている温度感知式のミニファンヒーターは、ずっと稼働したままだった。レイが購入したものなのは確かだけれど、これも不思議に実感がない。しかし、実感がなくともレイが買ったことは紛れもない事実だった。レイは姉の成年後見人になって帳簿をつけているから間違いなかった。

 ナツコさんが、レイの気配に気づいて振り返った。

「ああ、レイさん。ありがとうございます。じゃあ着替えの上に置いておいてください!」

 レイは「はい」と返事をして、右手に持っていた姉の生理用ショーツとナプキンを、洗濯機の上に置いていた着替えに重ねて置いた。

 ナツコさんは姉の身体を湯船の湯を汲み流しながら、

「お姉さん、生理久々ですか? 筋ジスの方って不順になるって聞きますけど」

と言っていた。

「そうですね──」

「はい! そうですね! アハハハハハハ!」

 高らかに笑う姉に「じゃあ温まりましょう」と言って笑顔で立たせ、ナツコさんは「せえの」の声でゆっくり慎重に、姉を湯船に浸からせた。姉は浴槽の手すりに捕まりながら、大きく息を吐き、浴槽の底に尻をつけた。それからじっとレイを見ていた。レイはその顔をじっと見続けた。まるで映像を観ているみたいに、現実感のないままに、姉の顔をただ見続けた。姉の顔はすぐに赤く火照り出しだ。それからすぐ、湯船の湯に経血が浮き滲み、花が咲くようにして水面に散った。

「レイちゃんは! レイちゃんもおふろ! おふろ!」

 レイは何も答えないまま、ただ姉の姿をじっと観察するようにして見続けていた。

 

 お姉ちゃんはお姉ちゃんで、私は私──。

 私がここにいるのは、お姉ちゃんのおかげ──。

 わからない──。

 自分が自分であることと、姉が姉であることは、本当のことで嘘ではない。

 だけど時々わからなくなる。時々こうやって実感を失う。

 時々? 常々? それさえ、わからない──。

 あの頃、野口英世のようになりたいと憧れていた六歳の少女は、本当に自分だったのだろうか──。

 あの頃、やけに母に反抗的な目を向けていた六歳の少女が、本当に自分だったのだろうか──。

 この家で、本当にずっと暮らしてきたのだろうか──。

 

 ただ確かにある記憶、そう思っていた蟹の日の記憶さえ、今の自分と繋がっているのか、レイにはわからなくなり出していた。

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