第87話 夢の中で

 ギイとガアが診療所に運ばれた時に、計った熱は三十八度だった。

 人間であっても、それほど珍しい高温ではない。


 敏和が訪れた後に計った熱は、四十二度だった。もう人間ならば、立って歩く事が困難になる。


 冷却材だけでは、熱を下げる事が出来ない。しかし解熱剤は、怖くて使えない。

 この時点で貞江は、敏久にもう一度連絡をして、救急車両を呼ぶ様に手配をした。


 敏和が診療所を出た頃に計ると、ギイとガアの熱は四十五度を超えていた。

 敏和が訪れていた時には、起きて走る事が出来た。そのギイ達でも、流石に呼吸を荒く辛そうにしている。

 そして連絡を受けた敏久は、直ぐにギイとガアの受け入れ準備を、病院側に整えさせる。


 ギイとガアの急変は、村中に知れ渡る。皆が診療所に集まり、心配そうにギイ達の顔を覗き込む。

 そして日が暮れる頃に、緊急車両が到着した。


 緊急車両に同乗したのは、主治医の貞江とクミルであった。敏和は孝則と共に、別の車両に乗り込み、緊急車両を追走する。

 緊急車両の中でギイとガアは、ハアハアと荒い呼吸をしながらも、何かを呟いていた。


「ばあちゃ、ばあちゃ、ばあちゃ」

「ばあちゃ、ばあちゃ」


 ギイとガアは、うわ言の様にさくらの名を呼ぶ。そして貞江とクミルは、その小さな手を握りしめた。


「駄目よ。そっちには、行っちゃ駄目! 戻って来て、ギイちゃん、ガアちゃん!」

「ぎい、があ、しっかりする。さくらさん、しんぱいかけない、やくそく」


 貞江とクミルが、幾ら声をかけようとも、ギイとガアは反応を示さない。

 時間を追う毎に、呼吸が荒くなる。


 人間の患者なら、救急隊員も処置が出来ただろう。

 隊員が出来るのは、貞江からギイとガアの情報を聞く事と、いち早く病院へ届ける事だろう。


 励ます事しか出来ず、歯痒い思いを感じているのは、貞江だろう。それは、隊員のそれとは比較にはなるまい。

 それでも、声を掛けるしか無いなら、生きる気力を呼び覚ます為、声を枯らすしかない。

 

 また、貞江と同様に、声を掛けていたクミルは、ネックレスの欠片を握りしめていた。


 奇跡は、二度と訪れない。欠片には、母の力は残されていない。

 さくらの死を前にして、ギイとガアの声帯が変化したのは、集まった住人達の想いが、欠片を媒介にして解き放たれただけだろう。


 それでも、願わずにはいられない。

 クミルにとって、ギイとガアは、この世界における心の拠り所なのだ。


 そして、うなされる様に、さくらの名前を呼ぶギイとガアは、不思議な場所に居た。


 ☆ ☆ ☆

 

 そこは風が無く、匂いが無い。全てが真っ白で、一メートル先も見えない。唯一視認出来るのは、己の体と隣に存在する兄妹だけ。

 足下には、白い床の様な物が有る。柔らかいのか硬いのか、それすらもあやふやだ。

 立っている感覚さえ、よくわからない。足を踏みしめても跡が残らない。

 

 この場所がどこまで続いているのか、想像のしようも無い。しかし不思議な事に、進むべき方角だけはわかる。

 そんな場所を、ギイとガアは手を繋ぎながら歩いていた。

 

 何故か、繋いだ手の感触を感じない。息を吸っても、互いの頬をつねっても、何も感じない。

 そして、覚えているのは自分達の名前と、ほんの僅かな過去の記憶。後は、その名を付けてくれた大好きなあの人だけ。

 それ以外は何も思いだせない。


 向かう先に何が有るのか、見えもしないし、興味もわかない。わからない尽くしの中で、不安や恐怖すら感じる事が許されない。


 かつて、里を襲われた時の感覚。命からがら逃げた、言い表しようもない、不安と恐怖。それすらも、今は感じない。


 そんな奇妙さを覚えながらも、気が付くとギイ達は、大好きな人の名を呼んでいた。

 なぜ呼ぶのか、その理由が理解出来ない。それでも、呼び続ける事が止められなかった。


「ばあちゃ、ばあちゃ、ばあちゃ、ばあちゃ」

「ばあちゃ、どこ? ばあちゃ、どこ?」


 歩いても、歩いても、景色は変わらない。どれくらい歩いたのか、全くわからない。

 どれだけ時間が経過したのか、全くわからない。

 

 暫くすると、ぼんやりと頭の中に、何か音がする。それは、次第にはっきりとして来る。

 少しずつ明確になってくる音は、自分達の名を呼んでいる声だと思えた。 


 そこからは歩く毎に、朧気だった声が、明確になっていく。それは、自分達を呼ぶ声だった。それも、大好きなあの人の声だった。

 そして、ふっと遠くに現れる。


 大好きな、大好きな、あの人の姿が見える。


 ギイとガアは、走っていた。無我夢中で走っていた。

 そして、大好きな人にしがみつく。会いたかったあの人にしがみつく。


「ばあちゃ、ばあちゃ、ばあちゃ、ばあちゃ、ばあちゃ」

「ばあちゃ、ばあちゃ、ばあちゃ、ばあちゃ、ばあちゃ」


 どうしようもなく切なく、どうしようもなく愛おしい。そんな感情が溢れ出し、ギイとガアの瞳から涙が流れた。


 離れたくない。もう二度と離さない。ギイとガアの腕に、力が籠る。

 そしてあの人は、いつもの優しい笑顔を向け、ギイとガアの頭を撫でた。


「馬鹿だね、あんた達は。来ちゃ駄目だって言っただろ? いつからそんな、聞き分けの無い子になったんだい?」


 咎める様な言葉は、限りない愛に満ち、柔らかくギイとガアを包む。


「いいかい。振り向いたら、真っすぐ歩いていくんだよ。こっちを向いちゃいけないよ。真っすぐ、真っすぐ歩いていくんだ。出来るね?」

「いや! ばあちゃ、いっしょ!」

「ばあちゃ、ばあちゃ。いっしょ、いて」

「駄目だよ。あんた達は、まだ生きなきゃ駄目だ。もっと幸せにならなきゃ駄目だ」

「ばあちゃがいい。ばあちゃがいい」

「ガアもばあちゃ、いたい。ばあちゃ、いっしょだめ?」

「まだ駄目だよ。行きなさい。生きなさい。ほら、行くんだよ」


 強引に体から引きはがされ、ギイとガアは元来た方角へ向かされる。そして、強く背中を押される。


 嫌だった。一緒に居たかった。なぜ、一緒に居られないのか、わからなかった。

 元の場所には戻りたくなかった。もう二度と手を離したくなかった。でも、行けと言う。生きろと言う。


 何処に行けばいい? そんな事よりも、一緒に居たいのに。それだけで、充分に幸せなのに。


「さぁ、みんなが心配いているよ。帰ってあげな」


 その言葉を聞いた瞬間、優しい信川村の人々の声が、聞こえるような気がした。


「わかるだろ? 聞こえるだろ? 帰ってあげな。あたしになら、いつでも会える。だから今は、帰るんだよ」

「ほんと? またあえりゅ?」

「ばあちゃ。うそ、ない?」

「あたしが、嘘をつくはずがないだろ? さあ、おいき」


 そしてギイとガアが、元の場所へと一歩を踏み出した時、その空間は消える。

 気が付いた時、ギイとガアの視界に飛び込んで来たのは、貞江とクミルの顔であった。

 そして、近くで知らない誰かが、何かを言っている。


「脈拍、戻りました。呼吸も安定してます」

「確認しました。良く帰って来たね、ギイちゃん、ガアちゃん」

「よかった。ぎい、があ、しんぱいした」


 貞江は、ギイとガアから視線を外して、振り返りながら会話をし始めた。

 そしてクミルは、小さな板をギイとガアに見せる。その板には、信川村の人達が映って、自分達に呼びかけている。


「クミリュ、かなしい?」

「かなしい、なんで? ガア、ついてる」

「みんな、ちいさい? ここ、どこ?」

「ガア、としかじゅ、おてまかけすりゅ。としかじゅ、いない?」


 ギイとガアは小さな手を伸ばし、涙で濡れたクミルの頬を撫でる。そして、掠れた声で話し掛ける。

 その後、住人達が映る板に視線を向けた後、周囲を見渡す。


「としかずさん、いる。でも、からだ、やすめて」

「そうだよ、ギイちゃん、ガアちゃん。これから、あなた達を治療するからね。元気になったら村に帰って、お祝いしようね」

「ギイ、おいわい、すき」

「ガアもすき」

 

 ギイとガアが、うわごとの様に呟いていた声は、皆の耳に残っている。


 間違いない、ギイ達はさくらと会っていたんだ。そして、さくらが帰る様に言ってくれたんだ。


 モバイル越しに一部始終を見て、ギイ達に声をかけ続けた住人達は、涙が止まらずにいた。

 追走している孝則と敏和の瞳からも。

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