第73話 守るべきもの

 さくらの様子は、クミルから報告を受けていた。そして貞江は実際に家を訪れ、さくらの容体を確認し、肺炎だけでなく複数の合併症を起こしていると判断した。

 それは貞江の経験によるものだろう。そして、その判断は正しい。


「さくらさん、入院しましょう。ここでは、適切な処置が出来ない」


 その言葉に、さくらは動じる事は無かった。


「そうかい」


 ただ一言、呟く様に吐くと、クミルに視線を向ける。そしてクミルは、さくらの感情を読み取って、全てを察した。

 しかし、さくらの感情を読み取ったが故に、耐えがたい恐怖がクミルを襲った。


 クミルにとって、さくらはどの様な存在なのか。赤の他人ではない。家族であり、年老いた母の様な存在でもあろう。

 自分の一番大きな心の拠り所を失おうとしている、それがどれだけ恐ろしい事なのか。


 大切な人を失う恐怖、それは何度体験しても、慣れる事はない。今クミルが感じているのは、これまでに味わった事の無い程の、恐怖なのだろう。


 日を追う毎に、クミルの不安は大きくなる一方だった。それは、看病をしてきたからこそ、実感した事なのだろう。

 病気に打ち勝つ抵抗力が、凡そ皆無だと思える程に、さくらの体は急激に衰えている。これ以上、病気が進んだら命の危険が有ると、素人でさえも容易に想像がつく。

 クミルは身震いが止まらなかった。


「さだえさん……」


 クミルは縋る様な瞳で、貞江を見つめる。そんなクミルに、貞江は軽く首を振った後、真剣な眼差しで答えた。


「あなたが悪いんじゃない。気持ちはわかるけど、今は従って」

「わたしに、できること、ない?」


 何もない、そう答えるのは簡単だ。寧ろ、クミルは良くやった。

 彼の献身的な看病が無ければ、さくらの容体は今頃もっと重症化していたかもしれない。

 

「あなたは、さくらさんが留守にしている間、この家を守って下さい」

「それだけ? ほかに、できること、ない? なんでもする。なんでも。さだえさん!」


 貞江は少し言い淀んだ。

 当然だ、ここから先は医者の領分だ。一般人に出来る事なんて、何もない。

 有るとすれば、いざという時に備えて、準備を行う事。しかし口が裂けても、そんな事は言いたくない。

 そんな時だった。さくらは、クミルの手を握ると、笑顔を見せた。

 

「いいんだよ。クミル、留守は任せるよ」

 

 酷く冷たい手からは、以前の温もりが感じられない。力が入らないのだろう、手を握られた感触が、ほとんど感じられない。

 それでも、さくらは笑顔を見せた。クミルを心配させない様に。


 さくらの感情と共に、貞江の想いも伝わってくる。

 後悔、失意、嘆き、怒り等、複雑に入り混じった感情が、貞江の中に入り混じり、己を責め続けている。それでも、さくらを助ける事を諦めていない。

 それは、医師としての責任だけでは無かろう。さくらを大切に思っているからこそ、己を恥じて尚、抗おうとしているのだ。


 両者の想いを読み取り、クミルは今にも零れ落ちそうな涙を、懸命に堪えた。

 自分なりに、努力したつもりだった。しかし、これ以上は専門家に任せるしかない。当然だ、病気の知識は無いのだから。

 さくらを治療する事は、貞江にしか出来ないのだ。


「あぁ、そうだ。あなたに重要なお願いがあります」

「なんですか? なんでもする!」

「さくらさんを運ぶのを、手伝って下さい。後、入院の準備も」


 クミルの行動は、迅速そのものであった。念のためにと、貞江が呼び寄せていた孝道の出番が、ほとんどない位に。

 

 クミルは、貞江の口から一挙に放たれる情報を、全て頭の中に叩き込み、必要な品を家の中からかき集める。

 そして、遅れて到着した孝道と共に、ゆっくりとさくらをタンカに乗せて、往診用の軽ワゴンへと移動させた。


「さだえさん。さくらさんを、どうかお願いします」

「わかってます。私の命を賭けてでも、必ず救ってみせます!」

「大袈裟だ、貞江。さくらさんは、病気にやられる程、軟じゃねぇ! そうだろ?」


 深く頭を下げるクミルに対し、貞江は声を張り上げる。そんな貞江を諭す様に、孝道が低い声で言い放つ。

 孝道に答える様に、さくらは優し気な表情で、ゆっくりと首を縦に振る。


 それは、クミルの心を深く抉る。

 必要とされない事が、悲しかったのではない。さくらの為に何もできないのが、不甲斐ないのだ。

 助けようとした。でも、助けられなかった。寧ろ、救われていたのは自分だ。この村を訪れてから、ずっとさくらに守られていた。


 病に倒れてからも、それは変わらなかった。

 衰弱していく、咳が酷くなる。それでもさくらは、自分の事よりクミルに気を配った。


 大丈夫だ、心配ない。

 あんたにはやる事があるだろ、それを優先しな。

 あたしの事はほっといていい。

 いつまでもこの部屋にいたら、あんたにも移っちまう。

 ギイとガアが、心配しないように、あんたからよく言っておくれ。

 ありがとう。

 助かるよ。

 悪いね。

 美味しいよ。

 色々と工夫してくれたね、凄いよ。

 頑張ってるね、偉いよ。


 そのどれもが、クミルには嬉しかった。同時に、切なくもあった。

 さくらへの想いが、クミルの中で溢れ出す。気が付くと、クミルはさくらの手を握りしめていた。


 そしてさくらは、寝かされた車のシートの上で自力で体を起こし、クミルの頭を優しく撫でた。


「馬鹿だね、あんたは。ごほっ、ごほっ。何度も言ってるだろ、心配するなって。ごほっ、ごほごほっがはっ。でも、ありがとう。あんたは、優しい子だよ。ごほっ、ごほごほっ。ほんとに優しい子だ、ありがとう」


 やがて、さくらを乗せた車は、走り去る。

 車を見送るクミルは、光を失ったネックレスの欠片を握りしめて、強く祈っていた。

 

 どうか、どうか。もし奇跡があるなら、どうかもう一度、もう一度だけ。

 さくらさんの命をお救い下さい。


 これが、永遠の別れになる。そんな予感を振り払う様に、クミルはいつまでも祈り続けていた。


 ☆ ☆ ☆


 診療所に到着した時には、既にみのりが点滴の準備を進めていた。

 さくらをベッドに移すと、直ぐに点滴が行われる。それと同時に、バイタルを計る機械をさくらに繋げる。

 やらなくてはならない事など、山ほどある。その全てを頭の中でプランニングし、みのりに指示を出しながら、貞江は休む事なく手を動かし続けた。


 そんな中さくらは、朦朧とする意識の中で、一通のメールを送る。そして、静かに目を閉じた。

 

「お母さま?」

「あぁ、ごめんなさい。手が止まってたわね」

「いえ。それより、何か気になる事でも?」

「姉さ、いえ。さくらさんが、ようやくお休みになったの」

「そうですか。余り眠れていないご様子でしたから、少しは休まると良いんですけど」

「でも、スマホを触ってたのよね」

「メールですか?」

「多分ね」

「安心して下さい、お母さま。幾らさくらさんでも、こんな状態で無理をしたら、私が叱ります!」

「あなたに任せるわ。私より安心だもの」


 みのりの補助を受け、貞江がさくらの治療を進めている間、メールを受け取った江藤は、電話をかけていた。

 相手は、さくらの息子であり、宮川グループの現社長の宮川敏久である。

 

 江藤は、定期的に村の状況を敏久に報告していた。

 報告の方法は、記録が残るメールで行い、電話等で口頭の報告はしなかった。

 その江藤が、メール以外に電話をかけてきた。それが、どれだけ重要であるか、敏久は直ぐに理解した。


「社長、お久しぶりです。メールはご覧になられましたか?」

「いま見てます。母の具合が、予想以上に思わしくないんですね。それで、母は何と?」

「はい。さくらさんが御昵懇になさっている方々に、通知する様にと」

「理解しました。江藤さん、引き続き母の事を頼みます」


 通知という単語一つで、理解出来るのであろうか。江藤は首を傾げながら、敏久に報告をした。

 しかし、淡々とした敏久の反応で、江藤はさくらの意図に気が付いた。


 さくらと付き合いの有る者達は、敏久とも交流が有る。しかし中には、さくらという存在が有るから、敏久と交流を図っている者も少なくはない。

 そんな者達を、どれだけ己の人脈として取り込めるかが、今後の行方を左右すると言っても過言では無かろう。

  

 恐らく、さくらは試しているのだ。間違いなくやり遂げる事を見越して。

 さくらという存在が無くなっても、経済界の中枢に鎮座する者達が、離れていかない様に。

 それは己の病気すら利用し、息子の力にならんとする、さくらなりの愛情なのだろう。


 そして江藤は、さくらから依頼された、もう一つの仕事を遂行する。それは、阿沼に時間を作らせる事である。

 さくらが望めば、阿沼は時間を作るだろう。しかし会話では、さくらに負担をかける。そこで江藤が提案したのは、チャット形式での対談であった。

 そして入院した翌日、さくらと阿沼の対談が行われた。


 ギイとガアの処遇、クミルの国籍取得、信川村へのバックアップ等と内容のほとんどが、さくらからの依頼であった。

 中には、既に根回し済みであり、ただの意思確認に過ぎない事案も含まれる。

 そして阿沼は、その全てを承諾した。


「信太。後は、頼むね」

「わかってます。敏則さんとあなたに受けた恩を、忘れた日は一度も有りません。あの子達の事は、お任せください」

「酷いだろ? あんたが、そういう性格だってわかっていてさ」

「そんな事はありませんよ。あなたにとってあの子達は、孫も同然でしょう。いいんです、お気になさらず」

「信太。あんたがいるから、安心して逝ける」

「敏則さんと一緒に、向こうでお待ちください。私も使命を終えたら、そちらに向かいます」

「あぁ。でも、ゆっくり来な」

「はい。では、あちらで一杯やりましょう。あの頃みたいに」

「そうだね。楽しみにしてるよ」

「では、また」

「あぁ。またね」

 

 諦めている訳ではない。だがさくらは、阿沼に後を託した。

 内閣官房長官ではなく、旧友である阿沼信太に。


 また、さくらと阿沼が交わした言葉は、ありがとうでも、お疲れ様でもない。その言葉が意味する事は、言うまでもない。


 宮川さくらという物語の結末が、既に見えていたのだろう。

 故にさくらは、守るべきものを守る為に動いた。

 

 今はまだ、意識を保っていられる時間が有るから。 

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