第74話 届けたいのは
さくらが入院したその日の内に、貞江は診療所への立ち入りを禁じた。
ワクチンを接種しているとはいえ、感染を防げるとは限らない。
市中感染を防ぐ為には、当然の措置と言えよう。
それと同時に、クミル用のワクチンを取り寄せた。ただ、貞江を悩ませたのは、ギイとガアの処置である。
ワクチンが、どの様に作用するか、わからないのだ。
ギイとガアが、村に住み始めて直ぐの頃、さくらが幾つかの検査をした。そして、外見上の特徴以外にも、幾つかの身体構造が人間と異なる事を発見した。
さくらの検査を継いだ貞江は、往診の際にギイとガアの検査を行っていた。
当然ながら、往診の際に出来る事は、問診や触診だろう。診療所に何かしらのサンプルを持ち帰った所で、それなりの設備がなければ、無駄になるだけだ。
たかが小さな村の診療所だ、専用の設備を有していない。だからといって、外部の研究機関にサンプルを渡すのは論外だ。
それでも、定期的に触診を行えば、体調の変化程度なら判別が可能になる。
そうやって、ギイとガアを守ってきた。
しかし、未だ彼らに関しては、わからない事だらけだ。
人と同じ物を食べ、同じ生活をしていても、対処方法が判然としない。
一番無難な対応は、さくらとの接触を避ける事だろう。
今の所ギイとガアは、桑山の家で生活をしている。暫くは、隆の補助も控えるべきかもしれない。
騒動の時と同じく、屋内で拘束する事になる。
しかし、声を掛ければ、クミルが駆けつける。それに、みのりや孝道も居る、寂しがる事は少ないだろう。
だが皮肉な事に、その判断こそが隠していたさくらの病を、彼らに教えるきっかけとなる。
それは、些細な事だった。
家の中でさくらの話をしない様に、気をつけていた。それが功を奏したのだろう、ギイとガアが桑山の家で過ごす様になってから、暫くは何事もなかった。
しかし、ギイとガアの身体能力は、人間のそれを凌ぐ。
ギイとガアは、貞江とみのりに付着した匂いを、嗅ぎ取っていた。そう、さくらと診療所の匂いだ。
診療所の匂いは覚えている。何せ、村に来たばかりの頃、そこから逃げ出したのだから。
そんな場所の匂いと同時に、さくらの匂いがした。
ギイとガアは、実に感が良い。
直ぐに、さくらに何か有ったのかも知れないと、疑念を持った。そして、家を出ない様にと言われた事が、疑念に拍車をかけた。
結果的にギイとガアは、さくらと病気を関連付けた。それは不安となり、彼らを襲う。
さくらが入院したその夜、皆が寝静まったのを待って、ギイとガアは家を飛び出した。
音立てずに歩くなど、彼らは造作もなく行う。誰も気が付かなくても、仕方がない。
例え気が付いたとしても、彼らを追う事は出来ない。それが若いクミルでさえも。
真夜中の村を、二つの影がひた走る。目的地は、一つしかない。
また、この時ギイとガアは、貞江の不在に気が付いていた。
貞江が居るのは診療所、緊急対応の必要性を考慮しての措置だった。
そして珍しく貞江は、入り口に鍵をかけていた。
全くの偶然で行った事が、ギイとガアの侵入を阻止する。
恐らく彼らは、貞江に頼めば、さくらに会えると考えていたのだろう。
しかし、入り口は閉ざされている。
その時、仮眠を取っていた貞江の目を覚ましたのは、入り口を激しく叩く音と、甲高い悲鳴の様な叫び声であった。
「ギイギ、ギイギ! ギイギギギ? ギイギイギ? ギイギ、ギイギギギ?」
「ガアガガ、ガアガガ! ガアガ! ガアガ! ガアガ! ガアガ!」
貞江が眠い目を擦り、入り口に向かうと、ギイとガアがバンバンと、ガラス戸を叩いていた。
そして、涙を流しながら叫んでいる。正確な意味がわからなくても、ニュアンスで何と言っているかがわかる。
さくらに会いたい。
悲痛な叫びを目の当たりにし、感情が溢れる。崩れる様に両膝を突くと、貞江の瞳からボロボロと涙が流れた。
意味もわからず、さくらと離された。そして、さくらが病気にかかっている事を知った。
それをギイとガアが、心配しないはずがない。優しく純真な彼らが、さくらを想わないはずがない。
普段のギイとガアなら、指示にちゃんと従う。それは、ギイとガアが単におとなしいからではない。指示の理由を、慮る事が出来るからだろう。
会わせてやりたい。だが、会わせる訳にはいかない。
感染の可能性は、捨てきれない。それが有る限り、ギイとガアを診療所に入れる訳にはいかない。
だが、ギイとガアは、泣きながらドアを叩き続けている。
どうして、このまま放置する事が出来ようか?
鍵を開けても、電源を入れなければ、自動ドアは開かない。しかしギイとガアは、こじ開けてでも中に入るだろう。
診療所の中に入ったら最後、貞江では彼らを止められない。しかし、貞江はゆっくり立ち上がると、鍵を開けた。
貞江は信じたのだ。
全力で走り抜ければ、貞江に危険が及ぶ可能性がある。ギイとガアなら、それを考える事が出来る。
電源を入れる間も無く、ギイとガアは手動でドアを開ける。そして彼らは、貞江の前で立ち止まると、深々と頭を下げる。
「ギイギ、ギイギギ! ギギギ、ギイギギ、ギイギギ!」
「ガアガ、ガアガガ! ガガガ、ガアガガ、ガアガガ!」
三笠、みのり、さくら、それぞれの教えが、ギイとガアの中で息づいているのだ。
これを、我儘と言えるだろうか。これを、子供の癇癪と呼べるだろうか。
否。言いつけに背いている自覚が有るからこそ、貞江に頭を下げて願い出たのだ。
この時、貞江は理解した。
ギイとガアの体を優先したつもりだった。しかし、その心を蔑ろにしていた。
そして貞江は、ギイとガアをきつく抱きしめた。
「駄目、今は駄目なの。お願い、わかって。あなた達に何か有ったら、さくらさんが悲しむの。お願い、さくらさんに心配かけないで。さくらさんが、良くなる様に、頑張るから。お願い。さくらさんを、絶対に助けるから。お願い、今日は帰って」
流れる涙と掠れる声、それでも貞江は、声を振り絞って語り掛けた。
納得して貰えなくていい。理解すら出来なくていい。今は、さくらさんの為に、自分達の為に帰って欲しい。
合わせる事は出来ないけれど、顔を見せる事くらいなら何とかする。
ただ、さくらさんに見せるなら、そんな悲しい表情じゃない。さくらさんが見たいと思うのは、涙で濡れた顔じゃない。
笑顔で会える様にするから、今日は帰って欲しい。
不安にならない様に、心配をしない様に、頑張るから。さくらさんの事は、任せて欲しい。
さくらさんは、必ず助けるから。また一緒に暮らせる様になるから、大丈夫だから。
「ギギギ、ギイギギ」
「ガガガ、ガアガガ」
「わかってくれたの?」
「ギイ」
「ガア」
「ごめんね。ギイちゃん、ガアちゃん。ごめんね」
涙を流し、説得を続ける貞江の目元を、ギイとガアが優しく拭う。
それは、貞江の心を激しく揺さぶった。
その夜、孝道が迎えに来ると、ギイとガアは大人しく帰った。
そして翌日、孝道と共に再び診療所を訪れる。その手には、抱えきれない程の野菜を持って。
ギイとガアが訪れた事を知ると、貞江はさくらを窓際に連れて行く。そして孝道が、病室に野菜を運ぶ。
こうして、窓ガラス越しの面会が行われた。
「来てくれたのかい?」
「ギイ! ギイ!」
「ガアガ、ガガガ?」
「おや、野菜かい? ありがとう」
咳を堪えながら、ギイとガアに優しく語り掛け、さくらはありったけの笑顔を作る。
その笑顔には、病気に負けないという、覚悟が秘められている様に見えた。
さくらの笑顔で見て安心したのか、ギイとガアも笑顔を浮かべる。
もっと、さくらと一緒にいたい。だけど、長くいれば、さくらに負担をかける。
見慣れたさくらの顔が、やつれている事に、すぐ気がついたのだろう。
早々に、面会を終わらせ、ギイとガアは帰っていく。
「これを食べて、元気にならなきゃね」
「そうして下さい。あの子達には、まだあなたが必要なんです」
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