第19話 新たな生活
あくる日、さくらが目を覚ました頃には、既に日が高く昇っていた。
窓辺には、夏の強い日が差し込む。部屋の中央部は対照的に、弱で設定した冷房の風が、頬を優しく撫でる。
そして、味噌の香ばしい香りが鼻をくすぐる。
目を覚ましたさくらは、昨日の記憶を呼び覚まそうと、ぼんやりした頭を働かせる。
車の中で、ウトウトした事は覚えている。そして、みのりが玄関の前で待っていた事も、何となく記憶に有る。
みのりの顔を見て、緊張が途切れたのだろう、それからの記憶は判然としない。
途中で目が覚めて、ギイとガアの姿を見た気がした。だが、夢では無かった。ギイとガアは、隣で寝息を立てている。
自分の恰好は、昨日のまま。多分、玄関から運んで、そのまま布団の上で寝かせてくれたのだ。
ただ、よく見ると変わっている点が有る。
ギイとガアを、原始的な生物であると、印象付けていたのは容姿だけではない。一切の衣服を、身に纏っていなかった。
これが、要因の一つであろう。
しかし、未だ寝息を立てるギイとガアは、甚平を着ている。何よりも、山の中を歩き回ったにしては、小綺麗である。
恐らく、みのりと孝則が、ギイとガアを風呂に入れて、着替えさせたのだろう。
しかしギイとガアは、みのり達の言う事を、大人しく聞いたのだろうか?
そんな事を考えていると、襖が静かに開き、みのりが顔を覗かせる。
「姉さん、目が覚めたんですか?」
「あぁ。ありがとう、みのり」
「感謝される事はしてませんよ。私が感謝しないと」
「ふふっ、そうかい。それがあんたの長所だよ」
確かに、患者達の監視を任されたにも関わらず、疲れて居眠りをした。
それが無ければ、昨晩の騒動は起こらなかっただろう。だが結果的に、患者達は無事だった。
ミスなら誰でもする。ましてや、八十五歳の女性が、夕方まで家事を行い、休む事なく治療のサポートを行ったのだ。
誰も責められはしない。
だが、自分自身が招いた事を悔やむ気持ちは、みのりの中に残る。
それを察した三笠が、提案をした。そして孝則でさえ、みのりの行動を止めなかった。また息子の孝道やヘンゲル夫妻は、みのりをサポートする様に動いた。
悔やむ位なら動け! 失敗したと思うなら、それを補う位の結果を出せ!
失敗が駄目なのではない、失敗を悔いて動けなくなるのが、駄目なんだ。
償うんじゃない、失敗を糧にして成長しろ!
汚名はずっと付いて回る物で、返上なんて出来はしない。それに元々、挽回する程の名誉なんて持ってないだろ?
もし、それを悔しいと思うなら。失敗を忘れさせる位の、結果を残せばいい。
これは、みのりが若い頃に、さくらから言われた言葉である。その言葉を志に、みのりは人生を歩んで来た。
そして、昨日みのりは、気が済むまで頑張った。みのりが行動を起こさなければ、三笠やヘンゲル夫妻は動かなかった。
だから、伝えるのは感謝である。孝道に、ヘンゲル夫妻に、三笠に、信川村の住人達に。
「それより、あんた。これ」
さくらは、ギイとガアに視線を落とす。それを端緒に、みのりから言葉が溢れ出る。
「そうなんですよ、似合うでしょ? ひ孫の為に買っておいたのが、役に立ちました。この子達は、姉さんの隣で寝ちゃってましたから。お風呂に入れるのは、楽でしたよ。ヘンゲルさん達が手伝ってくれたんです。姉さんを運んだのは、孝道とライカさんですよ。食事も作っておいたんですけど、姉さん達は寝ちゃってたので。それと、昨日は泊まらせてもらいました。ヘンゲル夫妻と孝道は、畑に行きましたけど、私は少し休ませて貰ってます」
さくらの家に、泊まると言い出したのは、孝道であった。
ギイとガアが、聞き分けがいいのは、昨日の件で理解した。それにさくらからは、色眼鏡で見るなとは言われた。
しかし、慎重を期す事は、悪い事だろうか。
得体が知れない、動物か何かもわからない、それに変わりはない。
さくらが寝ている間に、同じ様な騒ぎを起こさないとも限らない。仮にギイとガアが人間だったとしても、危惧するのは何ら不思議な事ではない。
彼らは、騒ぎを起こしたばかりの、見知らぬ子供なのだ。
ただし孝道とて、七十歳である。無理が利く歳ではない。その為、孝道とライカが交代で、さくらの寝る部屋を見張った。
さくらと一緒なので、安心しきっているのだろう。
何も起きなかった。その為、両名とも明け方にかけて、熟睡してしまった。
昨晩作った食事を平らげて、孝道とヘンゲル夫妻は仕事に向かう。やる事は、幾らでも有る。孝道達からすれば、ギイとガアよりも大切な作物を放置する方が怖い。
みのりの説明は止まらない。
さくらは、質問を交えながらも、相槌を打つ。そんな中、くぅ~と可愛い音が、寝ているギイとガアの方から聞こえる。
その音に、みのりとさくらは、顔を見合わせた。
思わず、笑いがこみ上げた。
みのり自身、さくらの体が心配であった。ギイとガアが心配であった。
目覚めたさくらを見て、安堵した。そして、ギイとガアがお腹を鳴らした事で、元気であるのがわかった。
笑い声は、可愛い音を立てた張本人を、眠りから覚めさせる。目を覚ましたギイとガアは、キョトンとして、さくらとみのりの顔を覗き込む。
今の状況がわからなくてもいい。自分達の知る優しい人間が、笑っている。それだけで、ほっと出来る。
ギイとガアは、さくら達に合わせて笑顔を見せた。
「さて、食事にしようか。せっかくみのりとマーサが、作ってくれたんだからね」
「私は、準備してきますね」
言葉の意味がわからないギイとガアは、まだ首を傾げている。
そんなギイ達に、柔らかな笑顔を見せると、みのりはさくらの寝室から出ていく。
ギイとガアは、現状を確認する様に、周囲を見渡す。そして互いの姿を見て、自分が人間と同じ様に、衣類を身に纏っている事に気が付く。
ギイ達にとって、衣類を身に付けるのは、違和感が有るのだろうか。
向かい合う様にして座り、感触を確かめる様に、互いの衣類を触る。また、バタバタと腕や足を動かして、自由に体が動かせる事を確かめる。
「嫌だったら、別のを用意するよ。でも、今はそれを着てておくれ」
もしかすると、森の中で目立つ様な、派手な色であったら、嫌がっていたかもしれない。
みのりが着せた甚平は、子供用に装飾を施された物ではなく、オーソドックスな紺色である。
それが功を奏したのかもしれない。さくらの言葉に、ギイとガアは顔を見合わせた後、首を横に振った。
「そうかい。じゃあ、あたしらも行くとしようかね」
さくらが立ち上がると、ギイとガアも立ち上がる。さくらが腰を屈めて、布団を畳もうとすると、ギイとガアは手伝おうと動く。
洗面所に行き、さくらが顔を洗う。それをじっと見ていたギイとガアは、自分達もやりたそうに、ぴょんぴょんと洗面台に向かって飛び跳ねる。
見かねたさくらが、順番にギイとガアを持ち上げる。すると、器用にさくらを真似て、顔を洗った。
居間の戸を引いた瞬間、香ばしい香りが立ち込める。それに釣られて、ギイとガアが走り出そうとする。
そんなギイとガアの手を、さくらは慌てて引っ張った。
「逃げやしないだから、落ち着きな」
「ギャ! ギギ、ギイ!」
「ガア? ガア、ガア、ガア!」
不思議そうな表情でさくらを見つめた後、ギイとガアはお腹が空いている事を、アピールし始める。
しかしさくらは、苦笑いを浮かべるだけ。そして、ギイとガアをちゃぶ台の前に座らせた。
ちゃぶ台に並んでる食べ物を、ギイとガアは見た事が有る。
おにぎりと玉子焼き、それにサラダ。全て、さくらから貰った弁当箱に入っていた。初めて見るのは、お味噌汁だけだ。
一度食べた事があるなら、手を付け易いだろう。みのりは子供らの事を考慮して、食事を用意していた。
「まだだよ、みのりが来てから。みんなで一緒に食べたほうが、美味しいんだよ」
勢いよく伸ばす手を軽く叩いて、さくらはギイとガアを諫める。
食事は四膳、用意されている。残りの一つは、未だ食卓に着いていない、みのりの分だ。
食事は、みんなで一緒にした方が美味しい。ギイとガアは、言われた事を理解しているのだろう。
しかし、それはそれだ。子供がいつまでも、我慢できる訳がない。そんなに聞き分けの良い子供など、人間の中にもそうは居ない。
ウズウズと体を揺らしながら、ギイとガアはちゃぶ台に並んだ料理を凝視する。
間も無くして、片付けを終えたみのりが居間に現れる。すると、ギイとガアの表情が、ぱあっと明るくなる。そして急かす様に、みのりに訴えかける。
「ギギギイ!」
「ガアアガア!」
そんなギイとガアを見て、みのりは思わず噴き出した。
「ふふっ。待たせちゃったわね、ごめんね。さぁ、食べましょう」
みのりが食卓に着くと、賑やかな食事が始まる。
ギイとガアは、箸の使い方など知る由もない。おにぎりと玉子焼きを手づかみで口に運び、頬をパンパンに膨らませる。
ガツガツと頬張るのは、相当に腹が減っていた証拠だろう。時折、喉を使えさせて、さくらに背中を擦られる。
これを、野蛮と揶揄するだろうか? 作法なら、ゆっくりと覚えればいい。
今は食べる事が出来る、食べる元気が有る、それが重要なのだ。それは、生きている証なのだから。
ただし、流石に味噌汁だけは、別であった。
汁物だから手で掴めない、その位はギイ達にもわかる。しかし、お椀に顔を付ける様にしても、上手く口に運べない。
それを見たさくらが、お椀を手に取り、少しずつ啜る方法を示す。ギイとガアは、仕草をじっと見て真似る。
ギイとガアは、賢いのだ。また、周りを良く見ている。
さくらの食べ方を見て、箸を手に取る。しかし、上手く使えない。
「いいんだよ。ゆっくり覚えなさい」
「そうよ。それより、おかわりは要らないの? もっと食べていいんだよ」
さくらとみのりは、言葉の問題など、どうでも良くなっていた。子供達が、満面の笑みを見せてくれる。それが嬉しかった。
食事を終えると、ギイ達は寝てしまう。
みのりが食器を片付け、さくらがギイ達にタオルケットをかける。
そして、さくらとみのりが食後のお茶を啜っていると、玄関から大きな声が聞こえた。
「おい! 邪魔するぞ! もう、起きてんだろ?」
「お父さま。まだお休みになってたら、どうするんです?」
「昼まで、ぐうたら寝てるのが悪いんだ」
「お母さまが、着いてらっしゃるから、心配は要りませんよ」
「おっ! 旨そうな匂いがするな。飯でも食ってたのか?」
声の主は、玄関を開けて大声で話しながら、ずかずかと廊下を歩く。
そして、勢いよく襖が開くと、孝則が姿を現す。その後ろには、申し訳なさそうにしている、貞江の姿もあった。
「何だい、うるさいねぇ。子供達が起きちまうじゃないか?」
「その件で、話しが有る。心配するな、別に悪い話じゃねぇ。今後の事を打ち合わせするだけだ。それより、腹減った。みのり、まだ何か残ってんだろ? 貞江、お前も食っとけ! お前の場合は、食える時に食わねえと駄目だ!」
どかっと腰を下ろすと、孝則はちゃぶ台の前に陣取る。
そして自分の食事と、村唯一の医者故に、食事の時間が不定期になりがちな貞江の分を、みのりに要求した。
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