第6話 帯同
「さてと、先ずは連絡かねぇ」
白い霧を抜けて、信川村に戻ったさくらは、独りごちる。そして青年に肩を貸している反対側の手で、器用にリュックの脇からスマートフォンを取り出す。
ゴブリン達は、さくらに心を許している節がある。しかし見た事の無い物には、恐れを感じるのだろう。
スマートフォンを目にし、ゴブリン達の体が少し強張る。
ゴブリン達の機微を感じ取ったさくらは、落ち着かせるようにゴブリン達の頭を撫でる。そして、スマートフォンを操作して、電話をかけた。
「さくらさん? どうしたんです?」
「貞江さん、今は何処だい?」
「診療所ですよ。これから、往診に出ようと思っていた所です」
「そっか、往診に出る前で良かった。怪我人がいるんだよ、直ぐに来ておくれ!」
「え? 怪我? 誰がです?」
「村のもんじゃないよ。場所は、山道の入り口辺り」
「何? なんで、そんな所で?」
「事情は後にしておくれ。それと、絶対に驚かない事! 何を見ても、騒がない事! 約束出来るね!」
「は? 何を言ってるんです? さくらさん? さくらさん?」
要件を伝えると、さくらは電話を切る。ただ、連絡を受けた貞江は、混乱をしていた。
山道からの道は、市街地にある診療所の前に続いている。また、村に出入りしている者は、限られている。
つまり貞江は、定期的に村へ訪れる者を、把握しているのだ。
貞江の記憶では、誰かが緊急で呼ばない限り、外の者が村へ訪れる予定は暫く無かった。更には、山道口付近は視界が開けており、車両事故が起きた事はない。
無論、住民達が村の外に向かう予定もない。
そんな場所で、事故はおろか怪我人が発生するはずがない。ましてや、さくらが念押しする様に伝えて来た、絶対に驚くなという言葉。それは、何を意味しているのか。
貞江は混乱しながらも、診療所を飛び出し往診用のワゴン車に乗り込む。やがて貞江は、信じられないものを目にする事になる。
さくらの指定した場所は、車で数分もかからない。
運転しながら、貞江は遠目でさくらを視認した。そしてさくらの傍らに、明らかに日本人ではない青年がいるのも確認が出来た。
怪我人とは、彼の事か?
夥しい血が流れたのだろう、服は真っ赤に染まっている。肩口を縛っているタオルは、さくらの処置であろう。しかしあんな処置で、止血出来るとは思えない。その証拠に、タオルは赤く染まっている。
腕の付近は、服が破れて地肌が見えている。そこからは、無数の傷が見える。
こちら側からは見えないが、背中にも大きな傷が有るのではないだろうか。
何故かはわからないが、恐らく血は止まっている。だが、命の危機にあったのだろう事は、よくわかる。
青年の血だろう、さくらの手が真っ赤になっている。恐らく、さくらが心臓マッサージをしたのだろう。心臓付近の服には、さくらの手形らしき跡が残っている。
それにしても、よく歩けるものだ。さくらは、八十八の老婆である。肩を貸したとて、大した支えになれないだろう。
当然の事だろうが、彼は青ざめた表情をしており、ゆっくり歩くのでさえ、辛そうにしている。
あの青年がどの国から来たのかは知らないが、急いだ方が良いだろう。
目まぐるしく頭を働かせながら、貞江は車で近づいていく。しかし、貞江を驚かせたのは、青年だけではなかった。
さくらの背に隠れる、小さな影。それは、よく見れば二本足で歩く何か。そう、何かとしか言えない。
背格好は猿に近い、だが猿ではない。背を曲げずに真っすぐ立っているし、全身に毛が無い。それに、猿より遥かにやせ細っている。
何と例えればいい、飢餓に苦しむ子供とでも言えばいいのか。だが、人間でない事は確かだ。人間に近い、何かなのだ。
生物学には、明るくない。だが、自分でなくともわかるはず。あれは、地球上には存在しない生物だ。
村周辺の森に、あんな生物がいるなど、聞いたことがない。仮に、存在したとしても、猟師の幸三が知らない筈がない。
幸三ならば、皆に周知している。
「何あれ……」
それを目にした時、貞江は急ブレーキをかけて車を停めた。ここに来た理由を忘れて、大きく口を開け、呆然とするしかなかった。
「夢……よね……」
思考を停止させた貞江は、無意識に頬をつねっていた事や、ブレーキを強く踏んでいた事を、覚えてはいないだろう。
そして、ゆっくりと近づいて来るさくらから、大声で声をかけるまで、呆然と視界に映る何かを見つめていた。
一方さくらは、貞江の車が近づいて来た時、ゴブリン達が怯えて自分の背に隠れたのがわかった。
「大丈夫。あれは車だよ、安心おし。乗ってる人が見えるかい? あれは医者なんだ。あんたらを治療してくれる、立派な人だよ」
優しく声をかけて宥めても、怖い物は怖いのだろう。ゴブリン達は、しがみ付く様にしてさくらの後ろに隠れ、離れようとしない。
ゴブリン達にしがみ付かれたままでは、歩き辛い。だが貞江が来ている、待っていても構わないだろう。
ただ、さくらの考えは甘かった。
貞江の車は、停まったまま動かない。目を細めてよく見ると、貞江はポカンと口を開けて呆けている。
仕方ない事かもしれない、こんな血だらけで、どこから来たかもわからない男を連れていては。
だが、貞江が驚いていたのは、青年の事だけではないのだ。貞江の視線は、さくらの後ろに隠れているゴブリンに向けられている。
それに、さくらが気が付く事はなかった。
いつまで待っても、貞江の車は近づいて来る気配がない。
さくらは仕方なく、ゴブリン達を宥めながら、貞江の車にゆっくりと近づく。そして、車の運転席側で止まると、大声で貞江の名を呼び、ドアを叩いた。
「貞江さん、貞江さん! 聞こえてるのかい? 貞江さん! しっかりしなよ、貞江さん! 呆けてる場合じゃないんだよ、あんたはそれでも医者かい、貞江!」
貞江の視線は、無意識にゴブリン達を追っていた。即ち、ドアを叩いているさくらも、視界には入ってるはずなのだ。しかし、ドアを叩く音や、さくらの声に反応を示さない。
何度もさくらが呼びかけ、ようやく反応を示した貞江は、うっかりブレーキから足を離す。そのまま、アクセルを踏まなかった事は、幸いであった。
ギアがドライブに入ったまま、車はゆっくりと動き出す。ハッとした貞江は、慌ててブレーキをかける。ギアをパーキングに入れ、エンジンも停止させる。
さくらから、少し離れた場所に車を停めた貞江は、勢いよく車から飛び出した。
「さ、さ、さ、さくらさん、さ」
「うるさいね! 騒ぐなって、言ったじゃないか! 取り敢えず、この子を運んでおくれ! あんたは、医者なんだろ? こんな時にしっかりして貰わないと、困るんだよ!」
「は、はい! わ、わか、わかりました」
動揺しているのは、誰が見ても明白であろう。さくらは、貞江を落ち着かせる為、敢えて声を荒げた。
貞江は直ぐに車へと戻ると、後部のハッチを開ける。そしてリフトを操作し、車載用のストレッチャーを運び出す。
これらの作業は、一人で行うものではないだろう。しかも六十五歳の女性には、大変なはずだ。しかし、流石に慣れた感じで、貞江は迅速にストレッチャーを、さくらの下まで運んでくる。
「あ、あの。そっちの」
「この子らは、あたしが連れてくよ。車が怖いらしいからね」
「わかりました。では、この若者だけ搬送します」
「頼むね、貞江さん。あんた、この上に載れるかい?」
貞江が、ゴブリン達に視線を向けているのを理解したさくらは、青年だけを運ぶ様に頼む。そして、青年に声をかけた。
八十八歳の老婆、六十五歳の女性の力を借りて、やや朦朧としている青年がストレッチャーに載る。
リフトを操作しストレッチャーを車に積み込むと、貞江は車を走らせた。
「大丈夫だよ、安心しな。あんたらに、何かしようなんて、誰も思わないよ。あんたらが、びっくりする様に、向こうもびっくりするんだ。わかるね」
車を見送った後、さくらは膝をついて、ゴブリン達との目線を合わせる。そして、笑みを浮かべて、優しくゴブリン達を撫でながら、語りかけた。
「ギ、ギャ、ギャ」
「ガ、ガァ」
ゴブリン達は、小さな頭を上下に振る。
理解してくれた、漠然とそう感じたさくらは、再びスマートフォンを操作した。
「あぁ? さくらかぁ? 何の用だ?」
「孝則。みのりを連れて、診療所に来てくれないかい?」
「はぁ? 何があった? うちの奴も必要なのか?」
「事情は、診療所で話す。あんたにも言っておくけど、何を見ても決して騒ぐんじゃないよ! まぁ、あんたは兎も角、みのりは大丈夫か」
「何がどうしたってんだよ、さくら」
「男らしく、どんと構えてろって事だよ。出来んだろ?」
「あたりめぇだ!」
電話を切ると、さくらはゴブリン達の手を引いて歩き出した。
連れて来てしまったのだ。
例え人間とは違っても、意志の有る子供なのだ。青年に何かが有った様に、彼らにも何かがあったはずだ。
最後まで、面倒を見るんだ。最後まで、守るんだ。
さくらの強い意志が、手を通して伝わったのか、ゴブリン達はさくらの手を強く握る。
ゴブリン達にとって、さくらは救いの神であっただろう。
里を襲われた際に、兄妹だけが逃がされた。
両親や里の仲間達が、謎の化け物に食われるのを横目に、兄妹はただ逃げるしかなかった。
いつ後ろから襲われるかわからない。勝手知ったる森の中でも、逃げるのが怖かった。
何よりも、仲間達が目の前で食われていく。その光景が、脳裏から消えてくれなかった。
兄妹は、その恐ろしい光景から逃げる様に、ひたすらに走った。同時に兄妹は、彼の化け物を見た時に、理解してしまった。
あれは、どす黒い何かに支配されている。意志を捻じ曲げられ、命令に従うだけの悲しい生き物だ。
それを理解してしまったら最後、あの化け物を恨む事は出来なくなった。
怒りよりも、悲しみが深まる中で、逃げる兄妹を支えたのは、母の言葉であった。
生きろ。逃げろ。生き抜け。
そして森を出た所で、どちらに逃げればいいのか、わからなくなった。
森の中で生きて来た、森から出るなと言われて来た。人間は恐ろしい生き物だから、近付くなと言われて来た。
森の外は、人間の世界なのを知っている。そんな所をうろついては、命が幾らあっても足りない。
立ち止まり、行く先を見失っていた時に、森の中から気配がした。あの化け物の気配と、もう一つ。
兄は転がっていた棒きれを拾い、妹を背に隠す。そして兄は、震えながら棒切れを握りしめる。
抗う事など出来るはずがない。だが必ず、妹を守る。その強い意志は、恐怖を凌駕する。
ただ森の外には、あの化け物は出てこなかった。
両親から姿を聞いていたので、直ぐに気が付いた。森から出て来たのは、人間だった。
化け物じゃない、それだけで安堵する事が出来た。だが安堵するには、早いのもわかっている、目の前には人間がいるのだ。
だが人間は、こちらをちらりと見るや否や、倒れてしまう。
あの人間は、死んじゃうの?
なんだか、かわいそうね。
妹はそう尋ねた。兄は答える事が出来なかった。何故なら、奇跡でも起こらない限り、助からないと思ったからだ。
しかし、奇跡は起きた。
優しい光をまとった人間が現れ、倒れている人間を助けた。しかも、光をまとった人間は、食べ物をくれた。
生き残るには、この光をまとった人間に、縋るしかない。
幼い兄妹がそう考えるのも、仕方のない事だろう。
兄弟からすれば、さくらは奇跡を起こした、神にも等しい存在に見えていたのかもしれない。
「ギイ、ギ、ギ」
「ガア、ガア、ガ」
「ん? どうしたんだい?」
「ギイ、ギギ、ギイギ」
「ガア、ガガガ、ガアガ」
「そうかい。頑張るのかい。偉い子だね」
ゴブリン達とさくらの会話は、恐らく噛み合っていないのだろう。
だが、繋いだ手の温もりだけは、変わる事はない。そこには、育まれ始めた信頼が有る。会話をしながら、さくら達は診療所に到着する。
診療所の前には、往診用の車以外に、軽トラックが停まっている。孝則が先に到着したのだろう。
ゴブリン達は、さくらの手をぎゅっと握りしめる。見た事が無い物は、建物でさえも怖いのだ。
さくらは、ゴブリン達を落ち着かせる為に、手を握り返す。さくらは笑顔を見せ、ゴブリン達はさくらに笑顔を返す。
そして、一歩を踏み出した。
診療所の中は、いつになく騒がしかった。奥から、貞江とみのりの声が聞こえる。そして待合室には、青年の代わりに、老人の姿があった。
「ほぉ。そいつらが、例のガキか。随分と大人しいじゃねぇか。こんなのを連れて来るなんて、お前らしいな、さくら」
老人の頬は痩け、生え際は随分と後退している。しかし、ギョロリとした目は、他者を容易に威圧する。
身に纏った風格は、どこぞの組の親分と言っても、決して過言ではない。
そんな老人を前に、勇気を持って診療所に足を踏み入れたゴブリン達は、思わずさくらの後ろに隠れた。
「孝則! あんた、馬鹿なのかい? 小さい子を脅かすんじゃないよ! だからあんたは、ひ孫から怖がられるんだろ?」
「うるせぇよ、さくらぁ! うちのに用が有るのは、あのわけぇ奴にだろ? 貞江を手伝わせてるから、安心しろ。……って、待てよさくら。そのガキ共も怪我してんじゃねぇか」
「そうだよ。だから、連れて来たんだ。話は後だよ」
「仕方ねぇ、早く奥に連れてってやれ。貞江の事は、心配すんな。うちのがついてやがる。あいつは村の中で、一番肝が据わってるからな」
さくらは治療室へと、ゴブリン達を連れて行く。孝則の妻、みのりに二匹を預けると、さくらは再び待合室へと戻る。
さくらが戻るのを待っていた孝則は、ドスの利いた声で言い放った。
「さて、聞かせてもらおうか。お前が、どこで何して来やがったのかをな」
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