第4話 異なる世界

 視界を閉ざす白を抜けた後、さくらは、呆然として立ち止まる。それもそうだろう、霧を抜けたら見慣れぬ場所に辿り着くなど、小説や映画の中でしかあり得ない。

 ただ、さくらには現実を受けて止める時間は無かった。

 

 街道と共にさくらの目に飛び込んで来たのは、傷だらけになって多くの血を流し倒れている、明らかに日本人とは異なる青年の姿。

 そして、青年から少し離れた所に、飢餓でやつれた子供の様な姿ではあるが、明らかに人間とは違う二本足の生き物の姿であった。


 この瞬間さくらは、奇妙な生物に目もくれず、青年に向かって走り出していた。倒れた青年の周りには、流れた血が小さな池を作っている。

 既に手遅れ。さくらはそう思っていなかった。


 この青年を助ける事が出来るのは、ここには自分しかいない。背負っていたリュックを背から降ろすと、中に入っているタオルを無造作に取り出す。そして一番出血の酷い、肩口を縛り上げる。

 さくらは次に、青年の脈と呼吸を確認する。

 

 まだ、生きている!


 生存を確認して安堵するには、まだ早い。青年の呼吸は止まっている、このまま放置すれば、直ぐに心臓も停止するだろう。

 さくらは直ぐに頭を動かし、青年の気道を確保すると、人工呼吸を始めた。


 口を使い、青年の体に息を吹き込む。そして心臓を押す。何度も繰り返しながら、さくらは青年に問いかけた。


「死ぬな! 死ぬんじゃないよ! 戻っておいで! 戻って来るんだよ! さぁ! 戻っておいで! 戻っておいで!」


 さくらは汗を流しながら、必死になって緊急処置を行った。

 青年の処置に夢中になりながらも、段々と呆けていた頭がクリアになっていく。そして、現実を理解していく。

 

 ここは信川村じゃない。


 視界の脇に、否応なく飛び込んでくる風景は、信川村のものとは明らかに異なる。少なくとも、さくらは山道付近にいたはず。そこはアスファルトで舗装されている。

 青年が横になっているのは、耕作地付近の道と同じ、あぜ道である。


 もし、ここが信川村の山道付近であるならば、スマートフォンを使って医者を呼んだ方が、青年の命が救われる可能性が高い。

 何が起きてこんな場所にいるのか、さくらには理解は出来ない。ただここが、信川村じゃない事を理解した瞬間、通話の可能性も消え去った。


 映画じゃない、現実だ。日本じゃない、別の世界だ。

 連絡は不可能だ。


 もし村唯一の医師、桑山貞江が同行してくれていたら。いや、そんな事を考えても、事態は改善しない。

 少なくとも呼吸を確保し、貞江の所へ連れていけるだけの、時間を稼がねばならない。


 待っていても、誰も助けには来ない。自分がやらなければ、この青年は数分と持たずに命を落とす。それだけは、絶対に避けなきゃならない!


 絶対に死なせない!


 さくらにはとって、青年は見ず知らずの人間だ。それも、恐らく別の世界の。

 だが、目の前で人間が倒れ、死にかけている。それを放置出来るだろうか。

 周囲に人間の影は無く、助けを呼んでも誰も来ないのがわかっていても尚、見て見ぬふりが出来るのだろうか。

 少なくともさくらには、見て見ぬふりなど出来はしない。そして助ける事が出来るのが自分だけなら、動くしかない。

 

 しかし、応急処置など普通の人間でも、大変な作業だ。それが、八十八歳の老体に出来るのだろうか。

 否、時として人間は、自分の限界を超えた力を発揮する時が有る。俗に言うところの、火事場のくそ力というやつだ。


 息を体内に吹き入れ、心臓を何度も押す。そして、何度も問いかける。必死になって、それを繰り返す。

 老いた自分の腕力では、何度繰り返しても心臓を動かす事は出来ないだろう。息を吹き返させる事は、到底不可能だろう。

 さくらの頭に、そんな考えが過る。しかし、さくらは懸命に応急処置を続けた。


 ☆ ☆ ☆


 一方、青年は奇妙な光景を見ていた。

 俯瞰する様に上空から、自分の体を懸命に治療しようとしている、老婆の姿が見える。


 あの老婆は確か。

 そう、あの化け物から逃げ切る事が出来た、だが森の外にはゴブリンがいた。

 ゴブリンに害意はない。だが、流れ出した血により、自分の意識は朦朧としていた。

 そして、朦朧とした意識の中で、確かにあの老婆の姿を見た。そこまでは覚えている。それ以降の事は、記憶にない。


 何が起きている?

 青年には、その光景を理解出来なかった。

 夢か?

 確かに夢といった方が、現実的だろう。

 もしこれが現実ならば、青年を待ち受けるのは、残酷すぎる光景であった。


 ふと、青年は視線を森へと移す。すると森の深部に、黒い靄の様なものが見える。青年が眼を凝らすと、ズームしたかの様に、深部の様子を見る事が出来た。


 深部には鉄で出来た巨大な箱の様な物が有り、そこから黒い靄が噴き出している。巨大な箱が有る場所まで、木々をなぎ倒して出来た大きな道が出来ている。

 また、巨大な箱には、入り口の様な物も見える。


 ゴブリンの里近くの木々をなぎ倒したのは、恐らくこの箱だろう。青年は、そう確信した。

 ただ、青年を驚愕させたのは、その後であった。


 巨大な箱から目を移し、青年は周囲を見渡す。すると自分達を襲った狼型の化け物が、あちらこちらに見える。

 箱の近くには、腐乱した巨大な死骸が、幾つか転がっている。


 狼型の化け物が、深部に住むというヌシだろうか? いや違う、逆だ。

 あの腐乱した死骸が、ヌシなのだ。


 あれは、この森を住処にしている生き物ではない。どこか、外から来た化け物だ。

 何故なら、異質な感じがするのだ。どす黒く、気持ち悪い、そういった何かを、あの化け物から感じるのだ。

 あの箱から出ている、どす黒い霧のせいだろうか?


 もしかすると、あの箱には狼型の化け物が入っていて、それがこの森を破壊したのか?

 大型の死骸が深部のヌシなら、狼型の化け物は人間が太刀打ち出来る相手ではない。


 青年が考えを巡らせていると、遠くから遠吠えが聞こえる。遠吠えに引き寄せられる様に、狼型の化け物が移動を始めた。

 青年はその様子が気になり、遠吠えが聞こえた辺りに視線を移す。すると再びズームした様に、森の中をはっきり見る事が出来た。

 

 最初に青年が見たのは、自分達を襲った個体であった。

 大きな牙は、血で濡れている。そして鋭い爪の下には、あの時怯えていた二人の冒険者の姿があった。二人共に、血の気の失せた表情を浮かべている。もう、手遅れなのだろう。

 そして近くにはもう一体、意識を失いぐったりとしたリーダーを咥えた、個体が悠々と歩いていた。


 リーダーを咥えた個体は、大きな咢で軽々と体を嚙み砕く、そしてもう一つの個体は、二体の冒険者を踏み潰す。

 そして、集まって来る同胞達に視線を送ると、村の方面へと走っていった。


 それは、目を覆いたくなる様な、光景であった。しかしそこから先は、凄惨を極める。

 森の木々を巧みに躱しながら、狼型の化け物達は村へと到着する。そして殺戮の時間が始まった。

 逃げ惑う村の人々を、後ろから襲って噛み千切る。村の人々が死に絶えるまで、数分とかからなかった。

 それでも腹を満たせぬ狼型の化け物達は、村を離れて王都方面へと走り去った。


 青年はそれ以上、狼型の化け物達を、目で追う事が出来なかった。

 これまでの光景が、死に瀕した青年が見た予知夢なのか、それとも現実なのか。青年自身も判断は出来まい。

 だが、故郷の人々が化け物によって殺される所は、たとえ夢であっても見たくはなかった。


 万が一にも現実であったら、囮になろうとした自分の行動には、何の意味も無い。命を賭けて戦った冒険者のリーダーが、浮かばれる事はない。

 この時、青年を包んでいたのは、絶望という感覚であった。

 

 当初、上空から俯瞰していた感覚が、青年にはあった。しかし絶望に呑み込まれた時、自身の意識がズンっと重くなる感覚を覚える。

 そして、どんどんと降下していき、地面に到着する。


 青年を覆う絶望がそうさせているのか、地の底から何かに引っ張られる。その時、青年は自覚した。


 自分は、このまま死ぬんだろう。


 ただ同時に、青年の耳には声が聞こえていた。

 何を言っているのか、全く理解は出来ない。しかし、自分を呼んでいるのだろう事は、何となく感じた。


 その声は、段々と大きくなる。

 戻って来いと、必死になって自分へ問いかけている。青年には、そう思えて仕方がなかった。

 

 だが青年は覚えている。

 自分は血を流し過ぎて、気を失った。周囲には、ゴブリンが二匹いるだけ。狼型の化け物からは逃げ切れたが、自分はもう助かるまい。


 もし、これが夢ではなく現実なら。故郷を失った自分に居場所はない。ここで死んだ方が、楽だろう。

 しかし呼び続ける声は、青年の心を震わせる。


 死ぬな、負けるな、帰って来い、戻って来い、生きろ!


 その声は青年に、亡き母の事を思い出させる。


「これはお守りだから、いつも身に付けていなさい。それとね、クミル。あなたは、私の分まで幸せになってね」


 青年の母は最期の瞬間に、お守りだとネックレスを渡してくれた。最後の瞬間まで、子供を想う優しい母だった。

 その母から貰った最後の言葉。それは、自分を呼ぶ声とリンクする。そしてグラグラと青年の心を震わせて、包んでいた絶望を払い飛ばす。


 死にたくない! 助けて!


 その時、青年は心の中で叫んでいた。そして青年の叫びに、形見のネックレスが呼応した様な気がした。

 

 ☆ ☆ ☆


 それは、さくらにとっても、奇跡としか思えなかった。


 心臓を押した瞬間だったか、さくらは何かに触れた気がした。そして、青年の胸元で何かが光る。よく見れば光っているのは、青年が首から下げているネックレス、その中心にある宝石であった。


 お守りか? それを見たさくらは、漠然とそう思った。

 その時さくらは、青年から手を離し、唖然としながらその光景を見つめていた。


 宝石から放たれる光は、徐々に強くなる。光が青年の体全体を覆うと、宝石は砕け散る。

 そして奇跡は起きた。


 青年から流れ出す血が止まる。

 やがて、ゴホっという音と共に、青年は息を吹き返す。そしてゆっくりと、青年は目を開ける。

 その瞬間、さくらの中から力が一気に抜けた。

 

「※※※※※※※※※※※※」


 弱々しくも、青年が何かを話そうとしている。だが、さくらには何を言っているのかわからない。


「※※※※※※※※※※※※」

「しゃべるんじゃないよ。あんた、死ぬところだったんだ」

「※※※※※※※※※※※※」

「いい子だから、静かにしておくれ。何だかわからないけど、妙な事があるもんだね。あんたのネックレスが光ったら、血が止まったんだよ。それにあんたは、息を吹き返した」

「※※※※※※※※※※※※」

「すまないね。何を言っているか、全くわからないよ。助かった所で、あんたは血を流し過ぎだ。直ぐに病院へ連れてかなきゃならない。わかるかい?」

「※※※※※※※※※※※※」

「わからないかい? もう、黙ってておくれ。何か方法を考えなきゃね」


 さくらは、リュックから水筒を取り出す。そして、青年の体を少し起こすようにし、水筒の飲み口を青年の口に当てた。

 青年はそれが飲み物だと理解したのか、ゆっくりと口に含んでいく。


 少し青年は落ち着いた様子を見せる。

 さくらが体を見渡した限り、血が完全に止まっている様に見える。暫くすれば、立ち上がれるかもしれない。それから、帰り道を探せばいい。

 どちらにしても、貞江に見せないとならない。


 何処に向かえば帰れるのか、そう考えたさくらが周囲を見渡した時、視界の中に、二つの影が飛び込んで来た。

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