73 わたしは〝わたしのおとしまえ〟をつけに、ベイアトリスへ参ります
7月5日 1400時
【H.M.S.カシハラ/ 左舷格納庫】
エリン・ソフィア・ルイゼ・エストリスセンは、自らの旗──第4皇女旗──を掲げる座乗艦、H.M.S.〈カシハラ〉の左舷格納庫をゆっくりとした足取りで進んだ。
──つい一ヶ月ほど前、ガブリロ・ブラムに連れられた彼女はユウ・ミシマら星系同盟航宙軍の士官候補生を頼り、〝航宙軍艦〟だった〈カシハラ〉のこの場所でタカユキ・ツナミ艦長代理に迎えられた。
いまその場所でエリンは、今度は候補生らに送られる。
離艦に用いる接舷航宙機動艇に架かる
艦の航行のために各部署に残した最低限の人員を除く全員──士官12名、技官2名、そして
ほぼ同時に候補生全員が一斉に姿勢を正す敬礼をする。全員が通常礼装を着用し、凛々しくも若々しい顔を並べていた。
エリンは例によって微笑して〝ただ頷く〟ことで答礼とし、挙手を降ろした艦長へとゆっくりと進んだ。敢えて
見れなかった。そのミシマも、初めて会ったとき同様のあの柔らかな表情を浮かべているものの、その目線は向けては来なかった。
懐に抱いた〝懐中時計〟が強く意識される。
──大丈夫…… わたしは、上手くやれる……。
エリンは自分を励まして艦長の方を向いた。
そのときの彼女の
「皆さんの献身を感謝します ──艦長……」
皇女殿下のその言葉に、今回こそはミュローンのプロトコルを正確になぞってツナミは応えてみせた。
「過分な御言葉、恐縮であります ──
そんな
「艦長はこの後、〝おとしまえ〟をつけねばなりませんね」
先の艦内放送の事を言っておられることはすぐにわかった。
「は……」 ただただ恐縮するばかりとなるツナミ。
エリンは柔らかく笑って──それはとても魅力的な笑みだった──、艦長と、その隣に立つ副長に言う。
「わたしは〝わたしの
迷いも不安も微塵も感じさせない言い様だった。「…艦長と〈カシハラ〉も
〝ミュローンの乙女〟は戦の女神というが〈カシハラ〉の二人はこのとき確かにそれを感じた。
ツナミは美しく見えるよう意識して敬礼をし、近い将来にミュローンの〝
「
最後にもう一度、自ら任じた艦長に頷き返すと、エリンは
静かだが堂々とした足取りで
彼女からはもう見ない位置からそれを吹いているのはユウ・ミシマだった。
──下士官の全てが離艦して不在の〈カシハラ〉で、副長のミシマが敢えて買って出たことだった。〝自分が一番うまく吹けるだろう〟と──。
事実、彼が一番美しくサイドパイプの音を響かせることができ、皇女が短い
その
──おそらく、もう二度とエリン・エストリスセンとユウ・ミシマは会うことは出来ないだろう……。
少なくとも私人として会うことを許されない世界に、彼女は戻る──いや、〝足を踏み入れる〟ことになる。
〝エリン殿下は好き?〟〝決して報われない想いだとしても?〟
そう訊いたとき、ミシマは応えた。
〝…ええ……〟 ──と……
そうなるだろうことを理解した上で受入れ、それでも悔いはないという言い様だった。
──十八歳の少女にとってそれは……真剣な初恋だったかも知れない。
器用であることに慣れた、ほんとは不器用で在りたかった若い魂……。
それがアマハの感じていたエリンという少女であり、そしてそれはユウ・ミシマにも感じたことだった。
アマハは二人に、いつしか
だからだろう……。アマハには、このよく似た二人を放って置くことが出来なった。
姉のように振舞える距離を取り続けた。──それも、もう終わる……。
やり切れないな……。
そう視線を逸らせた。
すると、そこにシオリ・イセの揺れる瞳があった──。
蒼ざめた
三名を営倉から出した時に、思い詰めた顔で残して欲しいと直訴してきたシオリを、アマハが他の二人ともども
もっとも、
──今回の〝反乱騒動〟の首謀者であるフレデリック・クレーク邦議会議員その人がお咎めなし──その議員は、いまエリン殿下と共に
そもそも自分自身に〝おとしまえ〟を付けたいという者を、タカユキ・ツナミとユウ・ミシマには拒む理由はなかったのだ。
だから三人は、それぞれに仲間の赦しを得て〝
シオリはかつての仲間の何人かから無視をされることで──、
ユウキはヨウ・ミナミハラに一発を喰らう前にアヤ・イチノセから平手打ちを受けることで──、
ソウダはオダ機関長から無言で二人分の機関設備に関するチェックリストを手渡されることで──、
再び仲間として受け入れてもらうべく努力することになった。
アマハはもう自分はここに戻って来れないだろうと、そんな物寂しい予感を胸に
ヨウ・ミナミハラは、エリン殿下とアマハ姐さんの後に続くメイリー・ジェンキンスの豊かな黒髪の横顔へと視線を遣る。
その彼女の顔がこちらを向いて目線が合ったとき、最後のメールの素気のない文面が気になっていたミナミハラは、彼女の表情が怒っていないことに心底安堵している自分が可笑しくもあり、幸せであった。
再び会えるだろうか……。
…………。
──〝会える〟と信じることにする。
少なくとも、もう一回の奇蹟は起きている。一回でも起きるものならそれは何回でも起きる。そう信じられないハズはないだろう……。
ミナミハラはそう想い、彼女を笑顔で見送った──。
情報支援室の自席のディスプレイ越しに
だからマシバは格納庫から見送れなかった。
別に思うところがあったわけではない。ただ、この支援室への配置を副長から告げられたのが、舷門送迎の直前であっただけだ。
──また怒らせたかな……。
そう思いながら、マシバはキーボードを叩き始める……。
──キムがそのメッセージの着信を知るのは、エリンらの乗った接舷艇が
そうして最後にガブリロ・ブラムが接舷艇の気密外扉の中に姿を消すと、
出艇のため、これから格納庫全体の空気が抜かれるのだ。
ガブリロは接舷艇の気密内扉を潜って
思えば、彼もまた〝ミュローン〟であったと思う。
このような事態でなければ、
鼻持ちならない、というのではない。むしろ市井の人々の感じ方を理解している、と振舞う傲慢さの方が、正直好きになれなかった。
だが〝善い人〟たろうとする意志は黙っていても伝わってくる、そんな人物ではあった。そしてそれは、
気付いたときには、
──オトシマエと言ったか? 私もまた、そのオトシマエとやらを付けなければならないな……。
舷窓の先の小さな人影が、最後にもう一度敬礼をして踵を返した。
ガブリロもまた、心の中で敬礼をして、勝手ながら約束している。
エリン皇女殿下を、私は私のできることで支え、お護りする、と──。
* * *
エリン・ソフィア・ルイゼ・エストリスセンは、
皇女の随員はフレデリック・クレーク、シホ・アマハ、ガブリロ・ブラム、
そしてメイリー・ジェンキンスの4人であり、一緒に5人の民間人──
マシュー・バートレット、キンバリー・コーウェル、ビルギット夫妻、
ベッテ・ウルリーカ・セーデルブラード──が
同時に、装甲艦〈アスグラム〉から移乗してきた宙兵隊12名も、皇女の警護のため〈カシハラ〉を離れている。
彼らはこの後、巡航戦艦〈トリスタ〉の5パーセクの跳躍性能を活かし、一路、
そこには、一足先にベイアトリスに入ったキールストラの〝盟友〟カール=ヨーアン・イェールオース代将が待っているはずである。
一方〈カシハラ〉は、『
様々な傍証から、もはや〝皇女殿下の座乗艦〟という盾の効用は失われていると考えられた。カルノー少佐指揮下の〈アスグラム〉宙兵隊もいなくなった。接舷されれば一溜りもなく制圧されてしまうだろう。
状況は不利である。
それでもタカユキ・ツナミは
〝表向き〟の理由は、皇女殿下が
──それにもう少し政治向きの理由付けを加えるなら、この後の星系同盟の発言力を少しでも強化するための〝
でも〝本当〟の理由は、自分自身が〝納得したかった〟からだ。
──〝落し前〟を付けたいのだ。
航宙軍人として──
何かをやったのだという証が欲しかった。
つまらない意地なのかも知れない。ここまでの旅路で失ってしまった、〝失われなくてもよかった命〟に対して、果たして申し訳が立つことだろうかと、そう思わないでもない。
それでも、ここで
──ミュローンが割れる中、王党派の影に埋没し、この
それじゃコトミは浮かばれない。可哀想だ……。あの
皇女殿下の顔から本当の表情が失われれば、ミシマはこの先の人生を生きる意味がないだろう……。
それじゃ負け犬だ。そんなものは願い下げだ。
だから〝
──囮となることは、この
青臭い感傷だ……。
〝若さ故の一時の熱情だ〟──と、
自分の若さを信じることも必要だと学んだ
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