こちらは、西尾魔法探偵事務所です。

夷也荊

第1話 最初の依頼

 つい最近この探偵事務所にアルバイトとして雇われた北原は、応接室の掃除を任された。応接室と言っても、パーテーションで区切られた空間でしかない。時計の針は午前十時を過ぎている。今日は珍しく依頼が入っているのに、ここの主は早朝に出かけたまま帰ってこない。依頼人との約束の時間まで、あと三十分を切っている。事務的な家具でそろえられたこの応接室は、まるで時代に取り残されたように感じる。ドアを開ければ、山手線の駅が近くにあることなど、忘れてしまいそうだ。駅に近い立地のためか、少々窮屈だが、家具はここの主のこだわりのため、変えられない。北原が掃除を終えて、コーヒーの準備をしていると、柱時計が一回鳴った。もうすぐ依頼人が来てしまう。北原が雇われてから受けた依頼は、この依頼が初めてだと言うのに、ここの主は一体どういうつもりなのだろう。

 コーヒーの匂いが応接室に漂い始める頃、ドアのベルが鳴った。そして入ってきたのは、気の弱そうな一人の女性だった。セミロングの黒髪に、リクルートスーツのようないでたちだ。玄関に行儀よく並べられたのは、やはり就活生のはくようなパンプスだった。ペットの捜索願だろうか。それとも旦那や彼氏の浮気調査だろうか。とにかくやっと探偵らしい仕事ができる事に、北原は浮足立っていた。


「あの、こちらが西尾魔法探偵事務所様で、間違いないでしょうか?」


女性は美しい声で、ドアを開けたままそう言った。


「あ、はい。こちらでかけてお待ちください。今、コーヒーをお出ししますから」


女性は安心したように、わずかに溜息をもらした。それもそのはずだ。ここの探偵事務所の正式名称は女性が言った通り「西尾魔法探偵事務所」なのだ。「魔法」だなんて、聞いただけでもいかがわしい。しかし、どうしてそんないかがわしい探偵事務所に、この女性はわざわざやってきたのだろう。ここは特別に目立つ外観はしていないし、ホームページも載せていない。探偵事務所という名前を掲げておきながら、電話が鳴るたびにここの主は逃げるように外出する。北原は探偵事務所という名前に騙されて、アルバイトの面接を受け、受かってしまった。大学の友人たちには、いまだここの正式名称を教えていない。だって、現代日本で「魔法」ですよ? 本当に魔法が存在したなら、探偵の出る幕なんてないはずだ。すべて魔法で解決してしまえばいいのだから。

 北原はブラックコーヒーを女性に出して、「お砂糖はご自由に」と、砂糖の入った陶器の器を示した。


「ありがとうございます」


そう言った女性はすっと立ち上がり、銀色の名刺入れから一枚取り出して、北原に渡した。


「私はこういうものです」


そこには東雲優希という名前と、彼女の職業が印字されていた。弁護士、と。


「え? 弁護士さん?」

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