Heart Evolution. 4
店内は賑やかだった。
その中から晶が話していたお客を捜し見つける事は容易だった。
奥の八番テーブルに一人座っている少女の前まで来ると、恵は彼女に声をかける。
「ここ、いいですか?」
「……ほっといて下さい」
「そういうわけにもいかなそうな顔をされてるので。ここに座ってもいいですか?」
そう言った恵の顔を見た時、何故か頷いてしまった。
この人を自分は待っていたのかもしれないという予感と期待があったのかもしれない、と少女は後になって思った。
「私はここでブラウニーとして働いてる竹林 恵です。貴女は?」
「私は、……小川紅美です。美浜中の三年生です」
ココアの入っているカップを両手で包み込むような感じで持ちながら答えた。
うつむきつつ、恵の顔ばかり見ている。
「紅美さんは受験生なのね。ココアはおいしかった? 確かココアは体にいいよね」
「はい。ココアは
「へえ、そうなんだ」
「ココアは材料を全部飲んでしまえるのが特徴で、食物繊維がココアパウダー、ピュアタイプの中にも含まれていて、ゴボウの約十倍、サツマイモの約十五倍という量なんです」
「便秘予防に最適なんですね」
「それに、ココアの苦味成分である『テオブロミン』はカフェインと似た成分で、刺激は弱く、興奮作用は穏やかで体に優しいそうです。この成分は筋肉の緊張を和らげて、毛細血管を広げる働きがあるので、血液の流れもよくします。朝の目覚めの一杯や夜のくつろぐ時間なんかには、ぴったりな飲み物なんです」
早口に話すことに、恵はうなずきつつ、合いの手をいれる。
「気持ちが落ち着く飲み物ですね」
「それだけでなく、ココアには『ポリフェノール』という老化予防の働きを持つ成分が含まれているんです。ビタミンEやβカロチンと同じ効果があるみたいだし、コレステロール値を下げるという働きもあって、それはカカオバターの主成分である飽和脂肪酸の一つ、『ステアリン酸』のおかげなんです。飽和脂肪酸はコレステロール値を高めるものとされていますが、このステアリン酸は異色で、正反対のいい効果がバッチリ出るんです」
「飽和脂肪酸がね、すごいね」
「すごいです。とにかくココアは材料を全部飲んでしまえるから、これらの効果を体に取り込むことが出来るんです。だから私、ココアが好きなんです」
お経にも似た長い説明が終わったあと、紅美はココアで喉を潤した。
「凄いね、紅美さん。よく勉強してるんだ。バイトするようになってからお茶の事を勉強はじめたけれど、人に説明なんかできないから」
「自分の好きなことは自分で勉強するものだと思います。……けど、今の私はどうしていいのかわからない。先生は私のこと……見捨てちゃった。成績が落ちたら『ダメなヤツ』ってレッテル張られて、母も怒ってばっかり。私、一生懸命母のために先生のために頑張って勉強してきたのに、個性がどうのとか価値観がなんだとか、もうわかんないですよ」
握りしめた両手が震えている。
恵は紅美に声をかけたかった。
だが、何を言ったらいいのか思いつかない。
「わかってるんです。人の言いなりに生きちゃいけないって。でも今までそうして生きてきた私が、『今さらそうですか』ってコロッと変われないよ。いまの私みたいに、先生の一言で良くも悪くもなることをピグマリオン効果っていうらしいですよ。そんなにコロコロ変われないよ」
ため息をこぼす紅美を見ながら恵は、祐介に初めて店に連れられた時のことを思い出していた。
あの時、自分は泣き崩れていた。
けど、今の自分と当時の自分は明らかに違う。
「人は、変わっていくよ。今の紅美さんと幼い頃の紅美さん。同じ紅美さんだけど違うでしょ? それはどうして?」
「当たり前です。何も知らない無知な子供から、いろんな知識や経験を積み重ねて大きくなっているのだから。その場の雰囲気や取り巻く環境に適応する能力によっても変わっていきます。だけど、私の心は変わらない。性格も努力すれば変えられると言うけど、変わらないよ」
目を擦りながら紅美は言い返す。
恵は軽く頷きもう一つ聞いてみる。
「あなたはそれを知っていて、どうして人の言う通り生きてるの? 私なんかよりも頭がいい紅美さんがそれに気付いていながらどうして今まで人の言いなりになってたの?」
紅美は奥歯に力を入れて食いしばった。
何が言いたいのか、何を言わせたいのか、彼女自身気付いたからだ。
誰かの思う通り生きるのは楽だ。
何も考えなくてもいい。
誰かが敷いてくれたレールに乗って進めばいいのだから。
そうすれば苦労もなく、彼らの思うとおりの私になる。
それはただの人形だ。
薄々は感じていたが、考えるのも口に出すのも怖かった。
今の生活が失いたくないから。
「紅美さん、人って思い出すことで生きていけるんだと思う。自慢できる生き方をしてこなかったから何も言えないけど、自分の好きだった事や頑張っていた自分、みんなと笑ったときの想い出を思い出して生きていくんだと思う。今まで生きてきた時間の中で感じてきた想いは絶対に変わらないから……。それは小川紅美という、世界でたった一人しかいない、あなた貴だけしか感じ得ない想いだと思う。私は今まで悲しいことしか思い出せなかった。けど、ここで働きながら素敵な想い出を一日一日作ってる。……紅美さんも、素敵な想い出を作っていこ」
はにかみながら、少し照れて紅美に自分の中で形になっていく気持ちを語った。
自分にはそれぐらいしかできないと思ったから。
「竹林さん。ありがとう。……なんか、頑張っていけそうです!」
「頑張ろうね」
「竹林さんは、どこの学校いってるんですか? バイトしてるって事は……中学生じゃないですよね?」
紅美は不思議そうに恵を見る。
背は低く、童顔。
どう見ても年上とは思えない。
恵は小さくため息をつきながら、質問に答えてあげた。
「私は天ノ宮女子高等学校、一年四組の竹林 恵です」
「天ノ宮? あの私立でレベルもお金も高いあの学校!」
紅美は驚きの余り声が裏返ってしまった。
恵は不思議そうに首を傾げた。
普通、高校生に見えないから驚くのに、学校の名前に驚くなんて……。
「そんなに凄い所なの?」
「凄いってもんじゃないです! だいたい私はそこを目指して頑張ってるんですから。でもここの街で知らないってのも変な話ですね」
「私、この春こっちに来たから。中学の成績と面接で受かったから」
「えーっ! ……そうなんだ。でも中学の成績ってどの位だったんです?」
紅美は興味津々と、耳を近づける。
恵は渋々三年間の成績をそっと教えた。
*
空は一面雲に覆われ、今にも雨が降りそうな夕刻。
紅美は恵に礼を言って慌てて店を出ていった。
出ていくとき、恵の耳元で『天ノ宮に絶対合格します、先輩!』と言った。
妙な自信をもって出ていく彼女の後ろ姿に、何かいけない事をしたのではないかなっと思う恵だった。
「チクリン、お金はいいの? あれじゃただ飲みで、こっちは働き損ってヤツじゃないの。唯さん怒るよ」
晶は不満そうに恵に詰め寄る。
あんなに苦労して作ったのに割に合わない!
恵はしばらく沈黙を守りながら何か考えていた、がそれからこう答えた。
「……メニューにないから。商品にないものからはお金は取れないよ」
「けど!」
「それに私達はココアを売ってるんじゃないもの。素敵な想い出を作って売ってるんだから。お金がいるのなら、唯さんに頼んで私の給料から引いてもらいます」
その一言に晶は何も言い返せなかった。
もし、ここに恍がいたら……。
恵と同じ事をして、同じ事を言ったかもしれないと思ったから。
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