Le rêve solitaire. 4

 その夜、恵の家に一本の電話がかかってきた。

 こんな遅くに誰からだろうと思いながら、恐る恐る手にした。


「……はい、もしもし……」

「もしもし、竹林さん?」

「……み、美浜君!」


 その電話の相手の声を聞いて思わず声が出なくなった。 

 どうして彼が自分に電話をかけてくるのか? そんなことよりどうして電話番号を知っているのか分からなかった。


「風邪ひいてたんだって? 聖美さんと知見さんから聞いたんだけど、もう大丈夫?」

「……うん」


 左手に持ち替えて、近くの椅子にかけてあった上着を羽織った。


 ……何故か嬉しかった。


 でもどうして彼が心配してくれるのか、出会って間もないのに、どうして気にかけてくれるんだろうか、分からなかった。


「あ、……あの、……美浜君、……ありがとう……」

「こんな事しか出来なくて、ごめんね」


 ……何で謝るんだろう。


 本当は謝らなくてはいけないのは自分の方じゃないかという事に気付いた。


「声を聞くと元気そうでよかったよ。余り無理しちゃだめだよ。……それじゃ、おやすみ」

「待って。……あの、……この前のこと。私、怒ったと思ってた。……本当は美浜君が優しすぎて、どうしたらいいのか……分からなかった。……勝手だと思っているけど、またお店に来てくれませんか? 話したいこともある……かもしれないから。我が儘な頼みですけど……」


 両手でしっかり持ち、言葉を詰まらせながらもはっきりとした口調で頼んだ。急に鼓動が早くなっているのを感じる。

 祐介はしばらく黙っていた。

 彼の返事を待っている時間が異様に長く感じられた。


「……いいよ。別に怒ってないし。取り合えず明日、用があるから店の方に行くよ。後、時々電話かけるね。それじゃおやすみ」

「おやすみなさい……」


 恵はしばらくその場から離れられなかった。

 何気なく鏡に映った自分を見たとき、少しだけ笑みが見て取れた。

 その夜、恵は不思議とグッスリと眠る事が出来た。『おやすみ』を言われたこと、誰かに『おやすみ』を言えたこと、ただそれだけのことが嬉しかった。



                     *



 翌日、聖美と知見が店に来た時には恵が既に働いていた。


「すみません、部活が長引いちゃて……」

「遅いぞ、二人とも」


 鈴は強い口調で二人を注意した。

 それに驚き、慌てて着替えて仕事に就いた。


「もう風邪はいいのね」


 笑って尋ねる聖美に恵は黙って頷くだけだった。

 けど、その顔には今までとは違って、温もりみたいものを感じ取れた。


「あ、あの……」


 今まで自分から話そうとせず口を閉ざしていた恵が話しかけてきた。

 その場にいた聖美はもちろん、知見や鈴は驚いて彼女を見た。


「な、なに?」


 三人に注目されたせいなのか、口をパクパク動かすだけで声にならない。


「まだ自分から喋ろうとすることは出来ないみたいね」


 奧からその様子を見ながら呟く唯。

 手に持っているサンドイッチにパクついた。


「どうかしましたか、恵さん」


 知見は優しく語りかけてみた。

 彼女の頬が赤く染まっていくのがわかる。


「な、何でもないです……」


 顔を伏せ、洗い物を始める恵。そんな様子に溜め息が出てしまう鈴は、後ろの二人に仕事をするよう目で促した。


「内向的ね。引っ込み思案で心の内に関心を持ち主観的で他人との関係を避けたがる……か。ハグハグ……ングング」

「こんなところで何してるの? みっともない」

「ん? フグフグ……、ひょおひぃ!」


 頬張っていたサンドイッチをアイスティーで押し込み、慌てて振り向く唯。そこには呆れ顔をして立っている人がいた。


「全く、母さんは……恥ずかしい! バイトの女の子達にそんな格好見られてもしょうがないよ。これから塾に行って来るから、先に夕食食べてね」

「分かってるわよ、陽一。あの子達にはこんな格好見せないようにするから。そうそう、あの子によろしくね!」


 少し冷やかしげに笑って言う唯。

 陽一の顔が赤くなっていく。


「べ、別に弥生とはそんなんじゃないよ……」

「照れちゃって。そう言いながら呼び捨てじゃないの」

「い、行ってきます!」


 真っ赤な顔ををして陽一は出かけていった。

 そんな後ろ姿に軽く手を振ってアイスティーを飲み干す唯の顔は嬉しそうだった。


「あの子も内向的か……まあ一人じゃないだけましね。……問題はもう一人のうちの子よね」


 溜め息と一緒に吐き捨てたものの、本当は自分が一番内向的なのかもしれない、と思う唯だった。

 今日も店内は女の子達で混んでいて忙しい。

 そこに祐介達三人が、昨日に引き続いてやってきていた。


「いやー、昨日は急に帰えっちぃまったが、今日はおごってもらえるわけだ」

「んー、女の子に囲まれて食べるケーキは美味しいですね」


 明と航治は陽気になってケーキを食べまくっていた。二人に見つからないように財布の中を覗く祐介は、これ以上二人が注文をしないことを祈るしかなかった。今月の小遣いは今日でなくなりそうだ。


「祐介、食べないのか? うまいぞ。食べないなら俺が食べてやろうか」

「い、いいよ。食べるから」


 慌てて食べるが、お札が一枚、また一枚と羽が生えて飛んでいく様子が目に浮かんできて泣けてしまう。

 それにしても気になるのが……。

 恵は休んだ分を取り戻すかのようにオーダーを運んだり、片付けたりと、忙しく働いていた。相変わらず、その顔には笑みは見られなかった。


「今度はこれを二階の四番テーブルに持っていって。追加よ」


 聖美に渡されたそのケーキは、昨日のケーキと同じだった。

 トレーを受け取る前に恵は軽く頭を下げて小声で言った。


「はい。……あ、あの聖美さん。昨日は、あの、……ありがとうございました」

「……礼なんていいのよ。そんなに言いたいならよっちーに言ってあげて。恵の所に行くって言い出したのはあの子なんだから。それにいつもすましてるあの子にも辛いことがあったなんてね……。友達として情けないわよ」


 苦笑して恵にそう告げた。

 そんな彼女の言葉に今まで感じたことのなかった暖かいものが恵の胸の奥で大きくなっていくような気がした。

 階段をゆっくりと登り、四番テーブルに来た時、恵は思わず立ち止まってしまった。そこに彼、祐介の姿があったからだ。


「ん? やぁ、竹林さん。……もう風邪はいいんだね」


 彼女からトレーを受け取り、祐介は自分でテーブルに並べ、食べ終わった皿を乗せた。

 明と航治は一瞬手が止まってしまった。


「これ、下げてね」

「……あ、はい! あ、あのそのケーキ……」


 思わず返事と共に言葉が出てしまった。

 少し頬が赤くなる。

 祐介は今並べたケーキを見て、言った。


「ヴィントボイテル、またはフランス語でシュー・ア・ラ・クレームって言うんだ。キャベツに例えられたりしてるけど、ドイツ語では『風の袋』って名が付いてる。美味しいんだよ、これ」

「風の袋ですか。……風邪と引っかけたのかな……」


 恵はそう呟いた時だった。

 一階から、ヴァイオリンの音色が聞こえて来たのだ。


「……吉田さん?」

「いい音色だね。……三年ぶりかな」


 祐介はアイスティーと一緒に、呟いた言葉を消すように飲み込んだ。

 その時、恵は彼の哀しそうな目を見てしまった。

 皿を下げに帰っていく恵の後ろ姿を、明と航治はポカーンと口を開けて見送った。


「あの子が昨日言ってた竹林さんだよ。それでね……」

「可愛いじゃんか」

「いい子みたいですね」


 二人はぼんやりと階段の向こうに消えていく彼女を見つめていた。祐介の言葉は届きそうになかった。

 

 三年ぶり。

 埃のかぶったヴァイオリンは再び奏でている。

 友達の私が……。孤独を紡ぎ取るように彼女は弦に振れ音を醸し出す。

 知見は唯にヴァイオリンを弾くことを許してもらい、久しぶりに弾いていた。

 人の心は欠けている

 ポッカリ穴が開いている

 不安はそこから常にやってくる

 けど、その空いた部分があるから、素敵な曲を奏でる事が出来るのだ

 お互い、共感できる  


 ……このヴァイオリンと同じように……。


 今、私は自分の想いで弾いている。

 ……私の意志で。私を縛るマリオネットの糸はもうない。


「うまいもんね」

「誰かと話をしてる見たい」


 カウンター内で聖美と恵は知見の醸し出すその音色に聞きいっていた。

 思わず仕事の手も止まる。

 客もそのムードに酔いしれていたが、唯は気持ちよさそうに奥の部屋で眠っていた。


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