第16話 「元気でね。」

「元気でね。」


 前田さんが、優しい目で言ってくれた。


「うん。前田さんも。」


 あたしは、笑顔を返す。



 今日、前田さんは晴れて退院。

 照れくさい!なんて言いながら家族と連絡をとった前田さん。

 今日は、お母さんとお兄さんが迎えに来られた。



「大丈夫だからね。」


「?」


 ふいに、前田さんがあたしの手を取る。


「絶対、あんた歩けるから。」


「……」


 まっすぐな、目。

 誰もが、きっとあたしは歩けないって思ってるのに。

 前田さんは、こんなにもまっすぐに歩けるって言ってくれる。


「…うん。」


 小さく頷く。

 本当は、ここのところ…少し、挫折しかけてた。

 でも…大丈夫。



「彼氏によろしくね。夕べの、ありがとって言っといて。あ、それと、あんたの父さん母さんにも。」


「うん。」


 夕べは、前田さんの退院祝いを秘かに行った。

 そこで詩生は、前田さんに一曲披露したのよ。

 あたしも、詩生の生歌は初めてで、ちょっと感動してしまった。



「前田さん、電話していい?」


「もちろんよ。あたしもするから。」


「絶対?」


「絶対…」


「…前田さん…」



 絶対、こんなことで泣く人だとは思わなかった。

 前田さんは、うつむいたまま、涙をポロポロこぼし始めて。

 それを、お母さんとお兄さんが驚いたような顔で見てる。



「や…やだなあ…あんたと出会ってから…あたし、どうも…」


 前田さんの涙につられて、あたしまで…涙が止まらなくなった。

 あたしだって、こんなことで泣くような人間じゃなかったのに。



「あたし、前田さんと一緒の部屋になれてよかった。すごく…楽しかった…」


「…うん…」


 前田さんは涙を拭うと。


「今度会う時までに、とびきりの男ひっかけてくるから。」


 笑顔で、そう言った。

 そんな前田さんの隣で。


「懲りてないね、この子は。」


 お母さんが、首をすくめられた。


「じゃ…」


 前田さんが、歩き始める。


「またね。」


 あたしは、手を振る。



 友達って…こんなに素敵なんだ。

 母さんが、作れ作れってうるさかったわけだな。

 そんなことを思いながら。

 あたしは、前田さんの後ろ姿が見えなくなるまで見送ったのよ…。




 * * *



「なあ…華月。」


「ん?」


 さぼってた肌の手入れをしてるとこにやって来た詩生が、真顔で言った。


「…結婚しないか?」


「……」


 思いがけない言葉に、あたしはしばらく動きを止めた。


「…結婚?」


「ああ。」


「…どうしたの?何かあったの?」


「どうして。」


「だって、急にそんなこと言うから…」


「急かな…俺、ここんとこ、ずっとそればっか考えてる。」


「…詩生…」


「独り占めしたいんだ。華月の事。」


「……」


 詩生は、あたしの鼻をギュッとして、そう言った。


「イヤか?」


「そうじゃないけど…」


 あたしは、足を触る。


「あたし、こんな体なのに…お嫁になんて行けないよ。」


「なんで。」


「…歩けるようになってからじゃ、だめなの?」


「……」


 まるで、結婚したくない…って言ってるようにとれたのか。

 詩生は、少しだけため息をついた。


「イヤなら、ハッキリ言えよ。俺は、今すぐにでも結婚したいって思ってるんだから。」


「イヤだなんて…そうじゃなくて、あたしは今こんな体でじゃいけないって…」


「じゃ、いつならいいんだ?」


 言ってしまってから、ハッとしたんだと思う。

 でも、その時…あたしの唇はかみしめられていた。

 まるで、詩生は…


「…あたしは、歩けないって思う?」


「そんなつもりじゃ…ただ、俺はいつでもおまえと一緒にいたくて…」


 詩生の気持ちは嬉しい。

 でも、何だか…


「あたし、詩生のお荷物になりたくない。」


 ベッドに横になって、詩生の背中を向ける。

 …こんな事でケンカなんかしたくないのに。

 ましてや…詩生は『結婚したい』って言ってくれたのに。

 それは…すごく嬉しい事のはずなのに。


 …こんな状況じゃないなら、手放しで喜んだと思う。

 だけど今は…まだ何も始まってない。

 仕事も、歩く事も。



「…言い方が悪かったよな…ごめん。」


 詩生がそう言って、あたしの頭を撫でた。


 詩生のことは大好き。

 誰よりも…想ってる。

 だけど…。



 * * *



「退院おめでとう。」


 大好きな家族に囲まれて、あたしは笑顔。

 父さんは、あたしが車椅子でも大丈夫なように、家のあちこちを改築してくれた。

 そのうえ…リハビリ用の部屋まで…


 リハビリを始めて三ヶ月。

 まだ、あたしの足は一歩も前へ出ない。

 だけど…それが何。



「ありがとう。」


 目の前のごちそう。

 久しぶりの、おばあちゃまと母さんの手料理。



「華月、またモデルの仕事やるんでしょ?この前いいパックがあったから買って帰ったの。使ってみる?」


 お姉ちゃんがツンツンとあたしの頬をついた。


「どんなの?」


「敏感肌にも優しいって。無香料の緑色のやつ。」


「お姉ちゃん、使ってみた?」


「うん。すごくいい感じだったよ?今夜一緒に使ってみない?」


「じゃ、あたしの部屋で寝てくれる?」


「甘えっ子だなあ。」


 あたしとお姉ちゃんがそんな会話をしてると。


「やっぱり、家族全員そろうって、いいねえ。」


 大おばあちゃまが、言った。

 なんだか、感激してしまう。

 こんなあたしを、こんなに愛してくれて。



「華月、これやる。おまえ、好きだろ?」


 お兄ちゃんが、あたしのお皿にミニトマトを入れた。


「こら、華音。自分が嫌いだからって。」


 母さんが、お兄ちゃんを叱る。


「華月が好きだからだってば。」


 …笑顔。

 なんだか、前と同じなんだけど…

 だけど…



「…華月?」


 父さんが、あたしの顔をのぞきこむ。


「どうした?」


 涙が、止まらない。

 前と同じだから…余計、辛くなってしまう。

 あたしは、まだまだ弱い。

 こんなことで泣いちゃ、父さんにも母さんにも…みんなに心配かけちゃう。



「あたし…」


「……」


 涙を拭いて、みんなを見る。


「あたし、頑張るから。本当に、頑張るから。」


 キッパリ、そう言うと。


「…ほどほどにな。」


 父さんは、あたしの頭を抱きしめたのよ…。




 * * *



「はじめまして。」


 なんと。

 あたしに、マネージャーがつくことになった。

 その人の名前は、笹井ささい絵美えみさんといった。

 あたしより、二つ歳上。



「はじめまして、桐生院華月です。」


 軽く、お辞儀。

 車椅子で訪れた撮影所で、初の顔合せ。

 笹井さんの後ろで、烈が優しい目をして待ってる。



「さ、ということで。華月、着替えてこいよ。」


 烈が、あたしに近寄って言った。


「うん。」


「あ、じゃあ、控え室に…」


 笹井さん、笑顔であたしの車椅子を押した。


「大丈夫ですよ、押さなくても。」


 あたしも、笑顔を返す。


「え?」


「なるべく自分で頑張りたいんです。でも、坂道とか、辛い時にはお願いしますね?」


 あたしの言葉に、笹井さんはしばらく黙ってしまったけど。


「はい。」


 強い瞳で、答えてくれた。


 控え室に入ると、懐かしい顔ぶれ。


「おはようございまーす。」


 メイクさんや、衣装さん。


「また、お願いします。」


 深く頭をさげると。


「バンバン頑張って、いい画を撮ろうね。」


 メイクさんが、手を握ってくれた。


「はい。」



 …嬉しいな。

 こうして迎え入れてくれて…



「じゃ、着替えよう。この衣装、着やすいと思うんだけど。」


 真っ赤なドレス。


「そ…そんな胸も背中も開いたの、着るんですか?」


 笹井さんが、目を丸くした。

 その言葉に、衣装さんは少しだけ笑って。


「ああ、マネージャーさんだってね?」


 笹井さんに、言った。


「…はい。」


「華月ちゃんは、デコルテラインが最高なの。隠すのはもったいないでしょ?」


「はあ…」


 笹井さん、あたしの首筋に目を落とした。

 へえ…そうなんだ。

 あたしも、初耳。

 意識したことないけど。



「はい、じゃ、手を上げて。」


 衣装さんに言われて、あたしはドレスを頭から被る。

 久しぶりの華やかさに、目まいがしそうになってしまったけど。

 この緊張感の中に戻ってこれたことが、このうえなく幸せに感じられた…。




 * * *




「仕事、入れすぎじゃねえか?」


 少しだけウトウトしてると、父さんが不機嫌そうな声で言った。


「…えっ?」


 慌てて背筋を伸ばす。


「仕事が楽しいのはいいことだけどな。おまえ、前とは同じようにはいかないの分かってんだろうな。」


「千里、そんな言い方って…」


「本当だろ?」


「……」


 母さんが唇を尖らせて、あたしの隣に座る。


 …父さんの言い方はキツイけど、当たってる。

 前とは同じようにはいかない。

 歩けないんだもの。

 スタッフの手も、借りなきゃならないし。


 …父さんは、あたしの自殺未遂があってからというもの。

 優しいけど…それ以上に、あたしを甘やかさなくなった。



「最近、仕事仕事でリハビリもしてねえんだろ?」


「…うん…」


「絶対歩けるようになるって豪語してたのは、誰だ。」


「……」



 最近…

 歩けないことに慣れてしまった。

 でも、あまり不自由してなくて。

 だから…つい…



「そんな言い方しないで。華月だって仕事で疲れてるんだから。」


 母さんが反論に出たけど。


「仕事で疲れてるから、は理由になんねぇぞ。」


「千里。」


「母さん、いいよ…」


「華月…」


 あたしは、母さんを止める。

 あたしのことで、二人にケンカなんてしてほしくない。


「ごめん…父さん。」


 あたしは頭を下げる。


「別に謝ってほしいわけじゃない。」


「……」


「もっと自分のことを考えろって言ってるんだ。」


「…わかった…」


「なら、いい。」


 父さんはそれだけ言うと、立ち上がって部屋に行ってしまった。


 自分のことを考えろ。

 あたしは、どうしたいの?

 このまま…車椅子のまま、モデルを続けるつもり?


 …確かに。

 今は、あたしに優しい環境が出来上がってしまってるから…

 不自由なく仕事もできる。

 歩けなくても自分の夢を叶える人だって、たくさんいる。

 あたしがこの状況を受け入れて、このまま続ける決断をすれば…それはそれで、新たな夢になると思う。


 でも…これが、あたしの望んでた夢?

 詩生のお荷物になりたくないって、そう思ったのはあたしでしょ?

 詩生がそうじゃないって言った所で…きっと詩生は罪悪感を持ってるから。

 あたしは、それを克服したい。



「華月。」


 母さんがあたしの髪の毛を触りながら言った。


「難しいことだとは思うけど…華月にしか、できないことなんだからね。」


 あたしは、母さんを見つめる。


「いくら母さんたちが手を貸してあげたくても…できるのは、本当にわずかなの。結局は、華月の強い気持ちが一番大事なの。」


「母さん…」


「辛い時には、泣いたって怒鳴ったっていいわ。助けてあげる事は出来ないとしても…華月が倒れてしまわないよう、ずっとそばにいるから。」


 母さんの目は、ちょっぴり涙目。

 あたし、最近仕事が楽しくて…自分のことしか考えてなかった。



「母さん。」


「ん?」


「あたしね…」


「うん。」


「詩生に、プロポーズされちゃった。」


「え。」


 あたしの告白に、母さんは、ポカンとしてる。


「父さんには秘密ね?」


「も…もちろんよ。早乙女家に殴り込みに行っちゃうわ。」


「あたし、詩生と結婚する時は、父さんとバージンロード歩きたいから…」


「…そうね。母さんも、その姿が見たい。」


「だから…頑張る。」


「…うん。」


「…時間…かかっちゃうかもしれないけど…」


 少しだけ声が小さくなってしまったけど。


「どんなに時間がかかっても、詩生ちゃん、きっと待っててくれるわよ。」


 母さんは、あたしの額に触りながら…優しい声で言ったのよ…。

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