34. スギモト

「急にどうしたの」

 スギモトが息を切らして追って来た。酔っているのに走ったからか、少しフラついていた。大きな車道が走っていて、歩道は広かった。街路樹が規則正しい間隔で立ち並び、大きなマンションが暗くそびえ立っていた。スギモトの後ろにはオレンジ色の街灯がずっと先にまで等間隔に並んでいるのが見えた。僕は自分がどこを歩いているのか分からなかった。

「どうしてついて来るんだ」

 と僕は振り返って言った。

 ハァハァと俯いて息を整えているスギモトを少し気の毒に思った。どうしてお前は経済学部何かに入学してしまったんだ。僕はまたスギモトに背を向けて歩いた。

「何か怒ってるでしょ」

 後ろからスギモトが言った。

「怒ってない」

「怒ってる」

「怒ってない」

「怒ってる!」

 スギモトが大きな声を出して僕の腕を思い切り掴んだ。そうして我々は向かい合った。夜中の車道を通る車は疎らだったが、時折通り過ぎる度にヘッドライトが眩しくスギモトを後ろから照らした。乱れた髪と細い肩が淡く光った。

「ハギノと何の話をしていたの?」

「あいつは糞野郎だ」

 僕は正直に言った。

「最初から気が合わなかった」

「何を聞いたの?」

 結い上げられた髪が乱れ、汗に濡れて真剣な目をして僕を見上げるスギモトは一瞬息を飲む程の艶かさがあった。


「何も聞いてない」


 僕は咄嗟に嘘をついた。昔のインテリだってバレバレの嘘を世界に向けて吐いてきた。僕がついたささやかな嘘を責められる道義はない。なぜ嘘をついたか、自分でだって分かっている。スギモトを傷付けたくないというただそれだけの事だ。スギモトの小説を読んで、その批評や感想を書いたのがハギノだったと伝える事が正しい事なのだろうか。そしてハギノが読むに値しないと評した事について本人に伝える事が正しいとするのなら、正しさとは一体誰を、何を守る為に存在しているのか?


 そうだ、僕は天真爛漫に、意味のわからない基準で文学性の有無を判定するスギモトが好きだったのだ。僕にはどうしても見えない何かを発見するスギモトが羨ましかったのだ。可能であればずっとその有り無しを聞きながら、僕はその隣で時折ブツブツと「意味がわからない」だの、「何を言ってるのか説明して欲しい」だの、スギモトの適当な判定に茶々を入れていたかったのだ。スギモトの文学が好きだという曇りのない気持ちを踏み躙り、あまつさえ利用すらしてスギモトと寝たハギノを心底軽蔑した。やはり二発くらい殴っておくべきだった、と後悔した。だが今更引き返して殴る訳にもいかない。


「嘘」

 高い声でスギモトが僕の嘘を見破った。

「ハギノと寝たのか」

 スギモトが顔を真っ赤にして僕の胸元のシャツを掴み

「 ──最ッ低!」

 と大声を上げた。僕は少し苛立って、迂闊に口を滑らせてしまったのだ。だが教授もハギノも、スギモトに対して文学的資質を感じていない件に比べれば、セックスの有無などは些細な事のようにも思えた。もし本当だとしても、それは単なる粘膜の接触でしかない。

「あんた達、ほかに話す事ないの? 本当にくだらない……!」

 スギモトが僕のシャツを両手で掴んで揺さぶって言った。僕の身体に比べるとスギモトは小さいので、ほとんどビクともしなかった。

「あいつが勝手に喋ったんだ」

「あんのクッソ野郎……ッ!」

 唇を噛んで涙を浮かべたスギモトが唸るように言った。

「別にいいじゃないか」

 と僕は言った。

「セックスはストレス解消に良いらしいぞ」

 言い終わる前に僕の横っ面にスギモトの平手が飛んできた。

「い、一回だけだ!」

 顔を真っ赤にしたスギモトが叫んだ。

「別に僕は」

 もし仮に君がハギノと寝た所で気にしない、と言いかけた所で、僕の胸あたりのシャツを乱暴に掴んだまま、スギモトが大粒の涙を流している事に気が付いた。隣をサラリーマンが数人連れだって「いよ、若いねぇ」「これからオマンコかい」「僕もフェラチオしたいよ」などと下品な事を言いながら通り過ぎて行った。通過する自動車のヘッドライトが街灯や電話ボックスの亡霊みたいな影を大きく動かして、壁や少し先のビルに左から右へと次々に焼き付けた。


「何にも意味が感じられないの」

 スギモトが僕の顎の下で言った。

「生活にも大学にも経済学にも未来の私自身にも何もかも、がらんどうに思えて仕方がない。誰もいない明け方の道路を眺めているみたいな気分。みんなが思い描く未来って何。明るい将来って何。その為に必死で努力を重ねる人達が怖い。いつか仕事をして、結婚して、子供を作って、成長を見守って、老後を過ごして死ぬんでしょう。だっていつかは人は死ぬんだよ。この時間もすぐに過ぎて、私はどうせ、何もできないまま生きていくの」

「みんなそうやって不安なんだ」

 僕は言った。

「適当に何とかやってんだ」

「みんなの話なんかしてない!」

 スギモトがもっとシャツをギュウギュウと掴みながら言った。

「私はちゃんとそれが出来る子だった! みんなと同じ、敷かれたレールの上でやるべき事をやって、何の疑問もなく、全部上手にやっていけるはずの子だったのよ。なのに何で急に、こんなに何もかもを無為に思えてしまうようになってしまったの。反抗期にしては遅すぎるわ。このままじゃ手遅れよ、人生の落伍者よ」

「まだ間に合うだろう。経済学部が合わなかったんだ、誰にだって間違いはある。それに気が付いたなら、別の所へ入り直せば良い。文学なり何なり、数学や数式のないところで好きにすればいいんだ。誰もそれを咎めない」

「駄目よそんなの。結局落伍者じゃない。何年か遅れで卒業して、就職して結婚して、それでどうするの。幸せって、そういう風に手に入れるものなの?」

「そんな風に上手くいけたら大成功だ。立派だ」

「じゃああたしのこの気持ちは何なの? どうして文章を書きたいって思うと心が震えるの? 自分だけの物語を書きたいって思うだけで涙が出そうになるの? それが出来ないくらいなら人生に意味がないって感じているの?」

 僕は言葉に詰まった。突然、落ちてきた水滴が一粒だけ肩に触れた。それから我々を中心として、雨の音がさざなみのように広がっていった。濡れたアスファルトと排気ガスが混ざった匂いが我々を包んだ。

「教授は『書き続けなさい』って言ってくれた。どの話も心が篭っていて優しい気持ちになれるって。才能があるかどうかは分からないけど、やりたい事を今見つけられたのは幸せな事だって、さっき話をしてくれた」

「じゃあそれでいいじゃないか、小説を書くのに不幸にならなきゃいけないなんて決まりはない。そんなの前時代的過ぎる。しっかり生活をしながら書いている人だって大勢いるだろう。単に文学とかいう目に見えないものに縋って、現実逃避をしているだけなんじゃないか?」

 教授が話に出て来た事で一瞬ヒヤリとしたが、特に否定された訳でもなさそうだったので、僕は安心した。当たり障りのない事を言ったのだろう。

「全然分かってない」

「僕が?」

「そうよ、分かってない!」

 スギモトが僕を突き放して、ずぶ濡れのまま自分の胸に手を当てて大声で言った。

「あたしには文学性の有無が分かるの! 何もかも、全部よ! 最近じゃ、自分の中にある何かさえ見えてきた! あとはそいつを取り出せば良いだけなのよ! でもそれをするには一人じゃ寂しいの! 痛いの、すごく、心が!」

 スギモトは僕が見えないものについて、剥き出しで必死で伝えようとしていた。僕はそれを理解してやりたかったが、どうしても分からなかった。目に見えないものを信じるには、僕は現実的に過ぎるのだ。同時に、スギモトの叫びは僕がスギモトに対して抱いている憧憬のようなものを露わにさせた。それは理解や不理解を超え、願いや祈りにも似た愛おしいものだった。僕はスギモトに歩み寄って抱きしめた。

「心が血を流すのよ、すごく静かに。そこは危ないところなのよ」

 スギモトが僕の胸あたりに顔を埋めた。冷たいシャツの上からスギモトの涙の暖かさを感じた。車のヘッドライトが何度も眩しく通り過ぎて、雨の車道を滑るタイヤの音が遠くから幾重にも我々を包んだ。

「ずっと私の隣にいて、お願い」

「何故僕なんだろう」

「あなたが気付かせてくれたから!」

 スギモトが僕をまっすぐ見上げて言った。雨足が強まり、スギモトの乱れた髪から水滴がいく筋も滴り、顔をぐしゃぐしゃにした。

「一人でどこかへ行ってしまいそうな私をずっと捕まえていて。あなたじゃないと駄目なのよ。見えない世界へ行ってしまう私を連れ戻せるのはあなただけなのよ。そうしたら何もかも今まで通り、文章を書きながら、勉強もしっかり頑張ってやっていくから。約束する。これは本当よ」

 僕は黙ってスギモトの目を見た。大きな瞳が、雨だれを堪えてなお必死で僕を捉えていた。スギモトは驚く程多くのものを僕に明け渡しているように思えた。スギモトが自分なりに、今まで大切に溜め込んできたもの達を窓から放り出して、僕だけの場所を作っていてくれたように思えた。それは墜落寸前の飛行機が、重たい荷を格納庫から次々と放り出している様子を思い出させた。雨足は一層強まり、我々はずぶ濡れで不思議な体温と重みを分かち合っていた。


「少し時間が欲しい」

 僕はスギモトの体を抱き締めながら言った。

「どうして」

 と大きな目をたわませてスギモトが小さく言った。

「多分、僕には好きな人がいる」

「多分って何。自分の事でしょう」

「自分の事だけど、最近他人のように感じるんだ」

「何よそれ、貧血じゃないの?」

 僕の胸に顔を押し付けてスギモトがくぐもった声で言った。

「その人はもうすぐ東京から去るんだ。今、その人はとても不安定な状況にいるから、最後まで無事に見届けてからじゃないと、僕は何もできない」

「どうしてその人は不安定な状況にいるの? ヒガシダ君が関係しているの?」

「事情が入り組んでて、説明するのがとても難しい」

「その人にフラれたら私と付き合うって訳?」

 スギモトが低い声を出した。

「乳首噛み切るぞ!」

「違うよ、落ち着けよ」

 僕は荒ぶるスギモトの髪を撫でた。

「僕はその人と付き合う事はない。それは分かってるんだ。でも、僕がきちんとその人とさようならをしないと、僕も、その人も、どこへも行けないような気がする。その人にとっては大きなお世話かも知れないけど、僕はそう思うんだ」

「とても強く?」

「とても強く」

 雨が激しく我々に打ち付けてきた。

「じゃあ私の事を好きだって言って」

 僕は何も言わずにスギモトを強く抱きしめた。

「ちゃんと、さようならをしてからじゃないと言えない」

 スギモトが嗚咽を漏らした。

「ちゃんと戻ってくるんでしょうね」

「戻ってくる」

「絶対よ」

「うん」

「もっとギュッとして」

 目を閉じた僕の世界で、確かに感じられる温もりはスギモトにしかなかった。



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