33. 自由を夢見るヤマアラシ


「ヒガシダさん、おつかれっす、うっす」

 グラスを上げる久しぶりに見たハギノは精悍さを増して、まるで在学中にIT関連で起業した大学生みたいに見えた。浅黒く日焼けをした広い額をオールバックにして露わにし、細い眉毛の下につり上がったギラギラした目があった。鼻は高く、唇は横に広く薄かった。相変わらずジャケットとネクタイを着用していた。妙な柄のジャケットと、変な色のネクタイだ。柄に柄を合わせないだけまだ進歩したようにも思えるが、それが単なる偶然ではないとも言い切れなかった。

「おつかれ」

 僕は乾杯を求めるハギノに気付かないふりをして次はサラダに取り掛かった。レモンとオリーブオイルが掛かったあっさりしたサラダだ。パプリカの色味も良い。

「ヒガシダさんほら、グラス。ね、ビールもありますよ」

 ハギノは黒ラベルの瓶を掴んで僕のグラスに傾け、泡が立つのも気にせず満タンにし、それを僕に押し付けた。

「はい、乾杯」

 僕は突然食欲が減退して、仕方なくそれを受け取ってカチリと合わせた。パプリカの色味も突然白黒になったような気がした。ポルチーニのパスタも突然冷めたように思えた。僕はどうしてこの男の事を好きになれないのだろう、と改めて不思議に思った。身なりも良いし、笑顔はなかなかチャーミングだ。人当たりも悪くない。であるにも関わらず、僕とハギノの間には日付変更線以上の隔たりがあるように思えた。もっとも、それを感じているのは僕だけなのかも知れない。それをあからさまにするのは、大人に相応しくない。


「久しぶり」

 と僕は味がないパプリカを噛みながら言った。

「どうしてたんすか、ずっと姿が見えなくて心配しました」

「ちょっと家庭の事情で」

 と僕はあまり気乗りしない風に言った。

「家庭の事情って何すか」

 ハギノは食い下がった。そういう所だぞ、と僕は思った。

「ペットが死んだんだ。ヤマアラシを飼ってたんだけど、何故か急に団地の五階から飛び降りて」

 僕は頭の中で真っ青な空をバックに空中を舞うヤマアラシを想像しながら言った。ヤマアラシはベランダから自由を夢見て飛び降りたのだ。自分をムササビだと勘違いをして。

「とても可愛かった。僕が中学生の時から、ずっと一緒に暮らしてたんだ。だから今はとても寂しい」

「ヤマアラシっすか……」

 ハギノは呆気に取られたような顔をして繰り返した。まさか本当に信じてるんじゃないだろうな、と僕は少しだけ心配しながらビールを一口啜った。本当の馬鹿なのか。

「ジレンマっすね。さすがヒガシダ先輩っす。ヤマアラシとか普通飼わないんで。さすがっす」

 ハギノがまたグラスを上に上げて乾杯をしようとしたので、僕は慌てて冷めたピザを切り分けた。馬鹿と乾杯をすると馬鹿が移る。中々うまいピザだが、すこし冷めてしまってよく切れない。その間、ハギノはヤマアラシのジレンマについて語り始めた。僕は聴覚をハギノの声以外にチューニングしてやり過ごそうとしたが、ハギノは熱っぽさを更に増していく一方だった。

「いや、マジで人間、一人じゃ生きていけないっすよ。なのにお互い近づいて暖すら取れない。おかしくないっすか、寂しくないっすか。でもね、ユングはこうとも言ったんです」

「フロイト」

 思わず口を挟んでしまった。

「あ、フロイトか。さすがっすねヒガシダさん。先輩って呼んで良いっすか、マジ前から結構尊敬してたんで、マジリスペクトっす」

 僕は切り分けたピザの端から端まで、タバスコを満遍なく振りかける作業に没頭している風にしてやり過ごした

「でね、何だっけ、結局その、何だ。自分で自分をずっと暖めることができる熱量を自らの内に秘めている者は、その群れに加わる必要がないから、端っこの方で一人でいるだろうってね、そういう訳っすよ。マジカッコいいすよね。人との輪に加わらなければ、お互い生まれ持った背中のチクチクで刺し合うような危険な目に合わなくて済むんですから、これは羨ましい。マジでこういう人間に憧れるっすよ。どうやったらなれるんすかね、本当にね」

 赤ワインをグイと飲み干してハギノが興奮気味に言った。僕はさぁな、と言って自分で緩い瓶ビールをコップに注いで飲んだ。ピザにタバスコを掛け過ぎたのだ。

「例えばスギモトっすよ」

 ハギノが自分で赤ワインをお代わりしながら、赤ら顔で言った。ネクタイは緩めていない。さらに皿にオリーブオイルを垂らして、焼いたパンのようなものを浸してから口に放り込み、口を大きく動かして食べた。みんな見てくれ、俺は今、パンを食べているぜ、という顔をして。全くもって、いちいち身振りが気にくわない。これは一体何なのだろう。遠い先祖が土地の所有権で揉めたのだろうか。


「スギモト、可愛いっすよね」

 声を顰めてハギノが言った。

「何て言うか、華があるっていうか、身長も小さいし、ぱっと見地味かなぁって思うんすけど、実はほら、結構胸もあるし、話していて楽しいんですよね。頭の回転がいいんですよ。いちいち一言が面白い。人の気を惹く。何でかなって思ってて」

 みんな見てくれ、俺は今、パンを食べている。クールにパンを千切って、塩を振ったオリーブオイルに浸して食べているんだぜ。そういう顔をしてハギノが続けた。

「スギモト、小説書いてるんすよ。知ってました? 先輩、スギモトと仲良いじゃないっすか。なんか家の行き来とかしてるって聞きましたよ、先輩とスギモト」

 そうなんだ、知らなかったな、と僕はシラを切ってパスタを啜った。ポルチーニとチーズのパスタは好物だったが、今は冷めて味があまりしなかった。離れた席で、真剣な顔をして教授の話に頷いているスギモトが目に入った。時々口を抑えて笑い声を上げている。確かに化粧をしっかりしているスギモトは悪くない。愛嬌のある顔をしているが、心なしか知性も感じられる。胸元も綺麗に強調されている。高いブラジャーを買ったのかも知れない。


「いや実は、教授から聞いたんすけど、スギモトが小説を読んでほしいって、自作を持ってきたらしいんですよ。驚きじゃないっすか。ここ経済学部っすよ、文学部じゃないっすよ。教授も『ハギノくん、どうしよう』ってなもんですよ。ほら、俺は教授と仲が良いんで。ほとんどマブなんで」

 みんな見てくれ、俺は今、ポテトフライを噛んでるぜ、という顔をしてハギノが食べた。。僕はすこし嫌な予感がして、目線を食べ物のままハギノの声に耳を傾けた。

「教授は文学はよく分からないと。そういう者が批評なり感想なりを述べるのは失礼な気もするが、どうしたものかと。そりゃそうです。経済学者が文学って、ファゴット奏者がトライアスロンに出場するようなもんです。あるいはその逆です。トライアスロン選手がファゴットを演奏するようなもんす。じゃあ良いっすよっつって、俺がその小説を批評なり感想書いたりしますよつって、かって出たんですよ。だって教授は経済学専攻っすから。ゼミではほら、英語で書かれた日本文化についてやってますけど、教授は英語よりフランス語が得意なんすよ。ゼミでアレをやってるのは、教授自身の英語力の鍛錬が第一で、あとは日本の文化が海外にどのように波及していったかっつーのと、日本の実情を当時の日本人のインテリさんが海外へ発信する際に、どのような数字上の粉飾を行ったか、いわばその差異を研究することで、本当の日本とは何かって浮き彫りにしましょうって事でやってんすよ。ニッチっすよね。需要がない。だからつって、こういう妙なメンバーが集まったんすけど、スギモトはちょっとその中でも異質ですよね。可愛いし、頭も良いし、性格も良い。おっぱいも大きい。でもちょっと、間違えちゃったんだなぁ、スギモトは。文学は一切お呼びじゃない」


 僕は自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。酔って赤かったはずの顔は、今何色をしているのだろう。


「読みましたよ、スギモトの小説。いやぁ面白い。ビックリした。いや面白いって、読んで先が読みたいとかね、そういうんじゃなくて。どうしてあの子、こんなの書いちゃうんだろうなぁって、そっちの方の面白みですよ」

 声を顰めてハギノが続けた。

「女の子って、何だろうなぁ。自分が興味のあるものは、みんなが興味があると思っちゃうのかなぁ。それともあれかな、幸せと愛情いっぱいに育てられたから、みんなが自分に興味を持っているって、勘違いしちゃうのかなぁ。ものすごくね、どうでもいい事ばかり書いてるんですよ。例えば、人の深さとはなんぞや、とかね。業の深さとは、とかね。ちょっとアレですけど、性とは、とかね。実に全体的に浅いんす。僕はね、ちょっとあそこらへんの、昔の文学とか読み漁ってた時期があるんでわかるんすけど、全体的に薄ーく引き伸ばした文学ですよ、スギモトが書いた文章って。情に流されすぎてるか、こういうのを書いてる『あたし』が好き! みたいなね、正直に言って、読むに耐えられない。ビックリしました。何故これを教授に読ませようとしたのかと。そしてそれに対して感想や批評を求めたのかと」

 もぐもぐとハギノが口を動かして、ワインで口を湿らせた。

「何が足りないかは分かるんです。死ぬ気がないんです。全体重を乗せて、高い絶壁から一本だけぶら下がったロープに飛び移れないんです。何かが邪魔してるんでしょうね。否定された時に負う深い傷を一身に引き受ける覚悟がない。ボツボツと自分の為だけに書いた文章ならそれで良いでしょう。でも仮にも人に見せるっつって書くものだったら、死ぬ気じゃなきゃ迫力が出やしません。襲ってくる波がプールか海かってくらい、迫力が違ってきます。僕にはそれが分かるんです。スギモトにはそれがない。『書くあたし、かわいい』がどうしても抜けきれていない。でもね、スギモトには何かしら特別なものがある。それもまた事実です。文章を書くコツみたいなのを掴めたら、もしかしたら良いところまで行けるかも知れない。それにスギモト自身も薄々気が付いている。胸の奥に秘められたスギモトだけにしかない文章の源泉がある事にね。平たく言えば『あたしは特別なんだ』と思っているって事です」

 僕は嫌な予感がしてずっと黙っていた。遠くでスギモトの笑い声が聞こえる。

「僕はね、そういう女の子をどうやったら落とせるか知ってるんです。何食わぬ顔をして、『君、ちょっと他の人と違うね』ってこう、言ってやるんです。まるで初めて出会うタイプの人みたいにね。今まで君みたいな雰囲気の人とは会った事がない、素敵だ、素晴らしいね、徐々に才能あるよ、その才能に嫉妬する、何てね。自分を特別だと思ってる人の、その特別な部分を優しく刺激してあげるんです。そうしたら、この人はあたしを理解してくれるんだって勝手に勘違いしてくれる。楽勝です。スギモトも例外ではありませんでした。やはり、何かを創るという事は大変なんでしょうね。ストレス解消かなってくらい、ちょっとすごかった。今は良いパートナーです」

 ニッコリとハギノが笑顔を作って僕を見た。どうですかヒガシダさん、というような顔をして。あなたも、そうしたのでしょう、という風に。

「お前はくだらない奴だな」

 僕は思わず声に出して言った。

「お前は本当にくだらなくて、下衆で、蛆虫みたいに小汚い人間だ」

 ハギノが笑顔を消して真顔で僕の目を見た。その目は凶暴さを帯びて、自分以外の人間を心底下に見ている下劣な自己愛に酔っていた。

「本当に、お前はくだらない」

 僕は二、三発殴ってやろうかと思ったが、そこまでする価値もない男だと冷静さを取り戻した。ハギノが何かを言おうとした瞬間、僕は立ち上がって、背もたれに掛けていたジャケットを手にとってテーブルを後にした。スギモトの脇を通り過ぎる時、「え、もう帰るの? ちょっと待って」と言って僕の裾を引っ張って引き留めようとしたが、振り払って店から出た。どこにも行くあてはなかったが、苛立ちのあまり自分がどこへ向かっているのかも分からないまま、無闇に歩いた。

「ちょっと待ってよ」

後ろから息を切らしたスギモトが追いついて来た。






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