23. ニュース、封印しなければならない傷
トキトオさんの寝息が聞こえてくると、僕はiPhoneで検索した。巨大掲示板のスレッドがヒットして、その中にデジカメで直接撮影された雑誌の記事が貼られていた。僕の記憶にはなかったが、トキトオさんが経験した事件はそれなりのニュースになっていたようだった。僕は画像を拡大して記事を読んだ。
【 京都で人知れず支払われた無責任警察の“血生臭い代償” 】
20××年3月号雑誌「週刊サタデー」
×月×日の真昼間、銃声が響き渡った。狂った弾丸が閑静な療養所に収容されていた患者と、従事していたベテラン看護師を貫きこの世から葬った。一体その裏で何があったのか。記者が追った。
京都駅から電車で一時間半、さらにバスで三十分の緑深い辺鄙な場所に、かつての療養所はその廃墟を不気味に晒し続けている。
射殺された患者はK【写真参照】。当局に保護された重要参考人だ。
「Kは某国から流入する麻薬取引およびその資金洗浄を一手に引き受け、突然新興勢力の最右翼として名乗りを上げたのです。群雄割拠の東京で成り上がったと言っても良い」関係者は語る。
先に報じられた、全国のコンビニATMからコピーされたキャッシュカードで同時多発的に金が引き出された事件は記憶に新しい。その犯罪に関わった人間の数は200を超えるが、欲をかいた数名の〝足〟の検挙を除けば、そのほとんどが闇に消えたままだ。
「意思統一された行動と周到にして狡猾、大胆な手口はKによるものです。逮捕された足から辿った上層部の連中は当然キレイに飛んだ後でした」
連絡先の番号は格安プリペイド式携帯で、その契約時の身元は違法売買された第三国籍の者であった。
「ポッと出にしては組織として巨大すぎる、というのが当局の判断でした。Kの背後に何らかの国家的支援があってもおかしくないのではないか。刑事局
事情通は語る。だが、マークしていたのは当局らだけではない。
「他の〝
〝
「身の危険を感じたK自らが警察に保護を求めてきたのです。思わぬ事態の進展に暴対と公安は混乱しました。どちらの管轄としてKを扱うのかさえあやふやなまま、Kは一度都内某所に拘留されたのです」
Kの情報の出し方は狡猾だった。
「某国とKの密接な繋がりの裏が取れた事で、上の方で政治的判断が下されました。これはもう刑事事件ではない。それを受けて、間隙を突いて公安が有無を言わさずKを連れ出したのです。書類上、Kは死んだ事になりました。そうしなければ反社会勢力の追撃が収まらない。口を割る前にKの存在を消そうとする某国からの
〝●●医療法人〟は見た事も聞いた事もないような事業を展開し、一定の赤字を垂れ流し続ける〝やんごとなき方々〟の税金対策として知られている民間法人だ。数少ない実在する事業として存在していたのが、冒頭に記した廃墟と化したかつての療養所であった。収容人数九十名、従業員三十名。地元では広々とした敷地に快適な居住施設、患者の自主性を重んじた手厚い看護で知られる施設だ。
「Kがそこに収容される事になった経緯は定かではありません。恐らく〝やんごとなき方々〟の弱みを握っている公安から何らかの働きかけがあったのでしょう」
関係者は語る。
「公安からすると、京都は東京から離れている分、安全にも思えたのでしょう。Kが新たな身分を獲得するまで匿っておけば良い。そういう安易な考えがあったのは明らかです。そうすれば国の管理する塀の内側でKを保護する事が可能になるし、そこではお茶でも飲みながら安全に、じっくりと穏便に話が聞ける」
関係者が続ける。
「Kが死亡したという虚偽の情報を流した事で、反社会勢力、某国の
公安と地元警察の連携は不充分だった。公安はトップダウンを特徴とした組織であり、それを他にも求めた。ほのぼのとぬるま湯に浸かってきた地元警察にとって、辺鄙な療養所に入所した醜い人物の命を死守せよ、情報漏洩は罰する、などと言う意味や目的が分からない強制に、内部の反発が高まるのは当然の事だった。
「少なくとも『誰が』『何の為に』『あの男の保護』を必要としているのかを明確にすべきでした。何もかもボンヤリしたままの指示では指揮系統の強度すら担保できない。公安の手落ちとしか言いようがない」府警と関わりの深い関係者が語る。
「Kは一、二ヶ月は大人しくしていたようです。だがそれ以降は案の定警官の保護も疎らになり、徐々にKは娑婆での生活をエンジョイするようになってきた。当然の事です。酒、女、ギャンブル、好き放題やってきた男が耄碌老人達や精神に異常をきたした者達と一緒にパーティーは楽しめない。公安はKの新たな身分をすぐに獲得できると考えていましたが、時間が掛かった。目測の誤りでした」
事情通は言う。
「やがてKは退屈凌ぎに酒と女を手に入れ、抱き込んだ婦長をメッセンジャーに据えて〝仕事〟すら再開した。隔離された事で、完璧に逃げおおせたと勘違いしたんです」
Kの特別扱いは異例だった。
「食事は特別。三つ星レストランのシェフがあの緑深い療養所まで毎晩調理しに来るんです。酒も地元の銘酒はもちろん、日本全国の酒蔵から取り寄せていました。風呂は毎日、療養所の一角を改造した浴室に給湯車がやってきて、K専用の風呂を沸かした。超VIP待遇です。その金は全て、多くのペーパーカンパニーを経て〝●●医療法人〟が支払った。赤字になればなるほど役に立つ会社ですからね。ジャブジャブ金が使われた」
「だが、Kはやり過ぎた」
と事情通は語る。
「Kの夕食を当番制で調理している数名のシェフの内の一人が、懇意にしている客に喋ってしまったんです。週に数回、京都の辺鄙な療養所で奇妙な男にディナーを振舞っていると。口煩い妙な姿形をした男で、いささか参ってはいると。軽い談笑です。話した相手の客は神戸に靴屋を構える若手の社長で、その下請けの釘会社が反社との繋がりがあった。そういえば奇妙な噂を聞いた、と社長が耳打ちした。下請けの釘会社の者から人探しをしている、と聞いていたからです。その人物はもちろん聞き間違いようのない奇妙な容姿が特徴です」
そこからは単なる時間の問題だった。
「いわゆる、チェックメイトです」
婦長はKに抱き込まれ、自らも裏社会の中へとそのメッセージを運んでいた。「彼女が運んでいた指示書は某国ならではの符丁で書かれた手紙のようなもので、人目のつかない場所でKの子分達に手渡されました。そこをキャッチされたのが決め手となったのでしょう。手を染めた者は必ず消す、というのが〝
果たして〝
「この件については我々も心を痛めています。ある意味では、我々もその被害者とも言えるのです」
××部長は鎮痛な面持ちで語った。
以下、一問一答。
Q「Kの身元や身分を××部長は知らなかった?」
A「関知していない。入所の際に提出された書類に不備は見当たらなかった」
Q「偽造されていたのでは」
A「その可能性は議論に値しない。当所は特殊な紹介制であり、正当な手続きを経ているのであれば、それは正規の書類と決まっている。記入漏れ等の簡単なミスの指摘はするが、偽造云々は別の次元での議論だ」
Q「カルテはなかったと言う証言もあるが」
A「あった。正当な手続きに基づいたもので、警察にも提出してある」
Q「射殺されたベテラン看護師Iが事件に絡んでいたとの憶測もあるが」
A「Iは長年療養所に勤めていたが、偏執的に物事にこだわる性格で、周囲との軋轢も多く報告されていた。そうした環境の中で、犯罪者の甘言によって心を開き、協力してしまう可能性も無くはないものと認識している」
Q「事件のおよそ一ヶ月前に自殺した看護師についてお聞かせ願いたい」
A「Rは入社二年目の大変優秀な看護師で、周囲からの人望もあった。患者らからの信頼も大変厚かったと聞いている。自殺については、詳しい事情は把握していない」
Q「激しい暴行を加えられた跡があったという証言もある」
A「自殺の原因にKの関与も色濃く疑われるが、確証を得るには遺体が既に火葬された後の為、原因の究明が困難であると聞いている」
Q「証拠の隠滅では」
A「我々は正当な手続きに則っており、瑕疵はない。ご遺族への説明を果たす為にも、断固として警察に抗議の声を上げていく所存である」
射殺されたKの血液から睡眠薬の成分が検出された事で、施設の内通者の存在が疑われた。押収された電子機器にはKとIの親密な〝男女の関係〟を伺わせる動画が多数保存されていたとの情報もあり、また、その〝営み〟行為の動画はその他多くの看護師達との〝親密な関係〟が露見したという未確認情報もある。それ故か、今回の件について元従業員達の口はおしなべて重い。
Kの情報を失った事で、我が国の安全保障並びに多くの事件が闇に葬られたと関係者は語る。犯罪者を野放しにした〝血生臭い代償〟はあまりにも大きい。
◾︎▪︎◾︎▪︎◾︎
僕はiPhoneの画面を切った。
トキトオさんの右手は脱力したまま僕の手の中で息づいていた。
気が付くと、僕はトキトオさんの右手の甲にキスをしていた。
トキトオさんが低い声で唸って「なに」と目を覚ました。
「どうしたの」
どこか深いところから、眠りの浅瀬に引き返したばかりの声だった。
「起こしてすみません」
僕は謝った。それから、思い掛けず
「トキトオさんのお腹の傷を見せてくれませんか」
と口にした。理由は自分でもわからなかった。
トキトオさんは長く沈黙した。でも、僕にはトキトオさんが完全に覚醒した事が分かっていた。暗闇で手を繋いでいるだけで、人は本当に多くの事柄を共有する事ができるのだ。海底で音波を交わす生物たちのように。
「先にする事があるでしょ」
トキトオさんが手を離してまた僕の頭をクシャリと撫でた。
「そうしたら見せてあげる」
僕は膝立ちしてもう一度手を繋ぐと、最初にトキトオさんの額にキスをした。次に唇。最初は短くゆっくりと二回、それからずっと長く。
唇を離すと、トキトオさんはタオルケットをめくり、柔らかそうな綿のパジャマの裾をゆっくりと上にたくし上げた。腹の傷はいつからか闇の隙間から抜け出した深い群青色の薄い光を受け、横に一文字のケロイドのようなその引き攣った姿を現した。トキトオさんの呼吸に合わせて腹がゆっくりと上下し、傷もまたそれに呼応してゆっくりと蠢いた。僕は思わず、そこにそっと唇をつけた。僕の皮膚がトキトオさんの夏の海の浅瀬のように暖かい肉の感触を捉え、それからトキトオさんが「うっ」と低い声で腹を硬ばらせると、その下から固い地盤のような筋肉が僕を押し返した。
雑木林の一角で俯き風に揺れる女性の前で誰かが子供のように大声で泣きじゃくっていた。僕にはそれが誰かが分かった。泣いているのはトキトオさんだ。何かがその時、トキトオさんの中で芽生え、やがてゆっくりと身体を支配していったのだ。どうやって
「どうしたの?」
「わかりません」
僕は傷に唇を付けたまま言った。
「変わった子ね」
クスクスと笑うと、また柔らかな脂肪の下で腹筋が同じように強張った。
僕はこの傷を封印しなければならないと思った。彼女は自力でこの傷から回復した。二度と彼らの目に触れないように、僕はこの傷を封印しなければならない。ゆっくりと傷の上で左から右へと唇を滑らせた。
「ちょっと、くすぐったい」
トキトオさんはクックックと笑いながら僕の頭をクシャクシャにした。僕は構わずに封印を続行した。トキトオさんの押し殺した笑い声が静かに部屋に響いて、僕は端から端まで傷への封印を無事終わらせると、また長いキスをトキトオさんと交わした。
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