24. スギモトの随筆【鏡の無い世界について】


「どうしてるんだ」

 とハギノがぶっきら棒に言いました。

「金曜日も土曜日も講義休んだだろ。俺が貸したノートを返して欲しいんだけど、これから時間空いてるか?」

 時間は夜の十時という所でした。奴の自分勝手ぶりはいつもの事なのです。基本、アホなのです。そうでなければ直接電話なんか掛けて来ません。私は小説の事を人に話したくなかったし、億劫だったので、どうもしていない、時間は空いてない、と言いました。うっかり電話に出てしまった事を後悔しました。

「ふうん」

 ってハギノはちょっと考えるように言いました。私とハギノはゼミ以外でも講義が重なっている事が発覚し、最近はノートの見せ合いやら課題の何やらで、少しずつ関わりが増えていたのです。見た目は妙ですが(何故彼はいつもジャケットとピカピカな革靴を履いているのか)独特な雰囲気に興味も引かれました。顔や体は悪くないのに、本人が余計なカッコを付けてど滑りしていると言うのは、謎の安心感が得られるものなのです。


「じゃあ晩飯でも一緒に食おう」

 どうせ何も食ってないんだろ、とハギノが決めつけました。私の話を聞いているのか? と真顔で問い返しました。時間が空いてねぇっつったろ、嘘だけど。しかも夜十時を過ぎている。

「学食以外で飯食うのもたまには良いだろう」

 最初から奴は話を聞いていないのです。思わず笑ってしまいました。それから久し振りに人と話をした事で、ちょっと気分が楽になったような気がしました。でも、大分顔が浮腫んでいるし、外に出るのは億劫でした。と同時に、お腹がとても空いていました。まともな食事をとっていなかったからです。文学の事について考えても、腹は絶対膨れない。それが紛れも無い事実であると身をもって証明してしまった。

「じゃあ迎えに行く」

 とハギノが言いました。何と奴は実家住みで、車を持っていたのです。何度か断ったもののもう面倒になって、駅前で待ち合わせをしました。私はノロノロと起き出して、シャワーを浴びて身支度を整えました。鏡を見ると、懐かしいパッとしない顔をした、いつもの私がいました。


 ハギノが乗ってきた車は下品な赤で、エンジンの重低音が胸に響くような、ただ事では済まされないあまりにも有名な車でした。「別に俺のじゃないし」とハギノはハンドルを握りながらどうでも良さそうに言いました。私は何だか自分が特別な人になったような気がして、それに気分良く乗り込んだのです。今までにない乗り心地に感動しました。まさに飛ぶように走るのです。私はそれだけで、さっきまでの暗鬱とした気分が吹っ飛んでしまいました。信じられますか? 私の俗物ぶりときたら、昭和のトレンディードラマも裸足で逃げ出す程なのです。でも私はそんなアホな女と思われたくなくて、ムッツリと黙り込んで助手席に乗っていた。これは私なりの私に対するささやかな抵抗であったのです。


 そうして、私は夜のドライブに連れていかれました。八十年代のポップ・ミュージックが車内に流れていて、マドンナだとか、フィル・コリンズなどを聴きながらレインボーブリッジを通って行きました。都内に出るのなら私もそれなりの戦闘服(ヒガシダはその内の一着を見ています)を着用するというのに、私は必要最低限の普段着でした。古いジーンズにノーネームの白いスニーカー、着古したラルフローレンのカットソーです。ハギノはいつも通り意味不明のジャケットパンツにピカピカの靴でした。「近所のファミレスで良いんだけど」と私は不機嫌を装って言いました。「何あの馬鹿みたいな橋レインボーブリッジは」「ファミレスなんていつでも行けるだろ」ハギノは楽しそうに運転しながら言いました。「大学を二日間もサボった奴に選択権は認められない。それは国際協定で定められた大変重要な条約だ」「ずいぶん前に脱退した」「よろしい、ならば戦争だ」ハハハ。分かってます、ヒガシダ君が言いたい事は。ハギノはそういう、何もかもがワザとらしい奴なのです。


 ハギノが突然「飛行機見に行こうぜ」と言い出したので、高速道路のようなところをギュンギュン走りました。ハギノは晩御飯の事をすっかり忘れているのです。アホだから。私はしばらく我慢していたのだけど、途中でどうしても堪らなくお腹が空いてしまったので、「ちょっとサービスエリアで何か食べさせて」と言いました。本当にお腹が空いて、革のシートでもいいから切り取ってサッと炙って食べてしまいたい衝動に駆られてしまう程だったのです。


 寄った小さなサービスエリアの暗い食堂はこじんまりとしていて、ほとんどのメニューは無くなっていました。眠たそうないかにもなおばちゃんがダラリと働いていて、私はイライラしました。この偉大なる空腹をそのような趣味と片手間でやってるような、しかもよりにもよってサービスエリアのスナックで満たすという行為が不適切であると思ったからです。案の定、たこ焼き6個入りの見た目はシナシナでした。でも、嘘みたいに美味しかった。熱々のフワフワだったのです。「すごく美味しい」と私が素直に口にしながら食べていると、ハギノがラベンダーソフトクリーム(!)を舐めながらたこ焼きについての薀蓄を垂れ流し始めました。屋台のたこ焼きは絶対にやめておけ、とか、生物としてのタコはおよそ欠陥だらけで、なぜ今現在まで種として存在しているのかは謎である、というような事です。本当にどうでもいい。そもそもお前は何故私がこんな所でたこ焼きを食べなきゃいけなくなったのかを思い出す必要がある。まったく、奴は自分について語るのを恐れるかのように、常に余計な情報を発信してしまうのです。面白くはないけれど、そういうのは楽で良いです。仮にタコが地球を乗っ取ろうとしていようとして、だから何だって言うんだ。やれるもんならやってみなさいよ。私はホフホフと食べて、いつ「ラベンダーってトイレの芳香剤の匂いだよね」とツッコミを入れようかと考えていましたが、結局やめました。だから何だと言われてしまえば、それ以上でもそれ以下でもないからです。もしハギノが趣味として芳香剤を舐めていても、私は別に何とも思わない。


 到着した羽田空港の展望デッキからは、離着陸する飛行機や、誘導灯がとても綺麗に望めました。私はその頃にはまた自分の小説について考えていました。美味しいたこ焼きを食べて、コーヒーを飲みながら行き交う飛行機達を見ていると、気分はとても良くなるのです。もちろんハギノは隣で飛行機や羽田空港について語っていました。その顔は理想を語る歴史上の人物に似ていました。どこかの民族を虐殺した悪名高い誰かです。その人物はおよそハギノとは似ても似つかない太った禿げかけのおじさんです。であるにも関わらず、私はそう感じました。不思議なものですね。何かについて流暢に語るという人物に対して私は警戒心を持ちすぎているのかも知れない。私は時々適当に合いの手を入れて喋らせておきました。飛行機はとても好きです。特に、乗客が乗り込む時の飛行機の顔は、何となく子犬達に乳をやっているお母さん犬みたいに見えませんか?


 気が付いたらハギノが真剣な顔をして私を見ていました。それから、そっとハグされました。ご存知の通り、私はあまり身長が高くありません。ハギノの胸のあたりに顔がありました。ネクタイは変ちくりんな深い緑色の格子柄でした。

「スギモトは自分を持っててすごいな」

 とハギノは言いました。

「俺には何もないから、思わず喋りすぎてしまう」

 驚きでした。奴は自分に何もない事に自覚的であったのです。それはつまり、バッタが高く飛べる事を、蟹が前へ歩ける事を、鮭が泳ぐ事を、はたまた熊が自分が鋭い爪を備えている事を自覚するのと同等の事であるはずです。そうして私は、内心ハギノの事を馬鹿にしていた事を恥じました。ハギノは残念ながらアホですが、そんな奴を馬鹿にする程私は浅はかではありません。でも、ハグをされる程の間柄でもないと私は思いました。「やめて」と私は言いました。「好きな人がいるのか?」と聞かれました。「いないけど」と私は咄嗟に言いました。それから「いや分からない、自分でもよく分からない」と正直に言いました。少なくとも、正直であれば私も含め、人を傷付けてもやむを得ないからです。もしそれが人を傷付けた場合、「人が正直に生きる事」についてのみ、その脆弱性に対して指摘がなされるのです。私は卑怯にも、と力一杯言い切りたいが為だけに、正直でありたいだけなのです。「じゃあ俺と一回付き合ってみればいい」とハギノが穏やかに言いました。「どうして」と私は聞きました。「分からないまま放っておくと、勉強がどんどん遅れていくんだ」とハギノがふざけた風に言いました。「補習で居残りするには、人生は短すぎる」アホのハギノにしては気が利いた事を言うな、と私は感心しました。そろそろ帰ろう、と私は提案しました。大きな音を立てて飛行機が離陸していきました。


 自宅の前で車から降りる時、ハギノにキスをされました。一瞬、私の歯に青のりが付いていなかったか気になりました。それで思わずキスの後笑ってしまいました。ハギノはわざわざVHSビデオデッキで、昔のドラマを視聴する事が趣味といういささか変わった奴なのです。昔を思い出させる正統派なやり方に過ぎませんか? 「ここは笑うところじゃない」と傷付いたようにハギノが言いました。俺はお前が好きなんだ、ちゃんと考えておいてくれ。どこが? と私は聞こうと思いました。でもやめました。何となく、聞いてしまう事で、そのわざとらしさの一端を自分が担ってしまうような気がしたからです。考えておく、でも期待しないでと私は言いました。その場でムゲに断るには忍びない程度の小さな恩義を、私は奴に感じていたのです。そうして、赤い下品な車は去って行きました。ブレーキランプが点灯しなくて安心した。奴は恥ずかしげもなくそういう事をやるタイプに思えたからです。でも正直に言うと、少しだけ期待していた自分もいました。ドリカムね。アイシテルのサイン。見物的な意味で一度見てみたかった。


 それから大学へ行く度に、あなたが私を探している様子を見かける事ができました。あなたは親鶏を探す雛のように誰かをキョロキョロと ──もちろんその誰かは私でしょうけど、探しているようでした。それを眺めるのは大変愉快でした。あなたは私に言いたい事があるのでしょう。でも、それを聞くか聞かないかは私にコントロールがある。ある時は思いっきり無視さえしてやりました。せいぜい私の事を気にし続けろ、と思いながら。ところが、あなたはそれからしばらくしてパタリと姿を消しました。


 あなたが姿を見せなくなって、私は孤独でした。とてもとても孤独を感じました。周りに人がいなかった訳ではありません。こう見えて私は社交的な方だし、ハギノにしてもそうだけど、意外とモテる方なのです。場の雰囲気を楽しむ事だってできます。私が楽しむと、みんなも楽しんでくれるのです。


 私は夜一人になると、しつこく自分について沢山考えました。引き続き、自分の中にあった書くべき存在であった筈の何かについてです。とても厳しい目で自分を見つめざるを得ませんでした。何もかも、一切合切全ての自分を否定する所から始めなければ、小説なんかは一文字も書ける気がしませんでした。私はもう、誰かの真似事は懲り懲りだったのです。そんな事は、何処かの誰かがやればいいと思ったのです。一人でじっと暗い部屋の中で丸まっていると、自分の核が何かに照射されている感覚がありました。その照射された自分の核の周りが溶け始め、より内側のコリコリとしたボールのようなものを剥き出しにされていくような感覚がありました。これは一体何だろう、と私は不思議に思いました。一人でいる時にしか見えない何かでした。毎晩それを繰り返していると、私はやがてそれを手に取って、暗闇でじっくりと検分する事さえ出来るようになりました。それは激しく血を流していました。不恰好で、時には内臓のような物をはみ出させていました。触れると胸の奥にジクリと居た堪れない痛みを覚えました。二度と戻らない場所と分かっていながら、そこを去る時のような気分でした。白く冷たい朝や、雨が叩くトタンの音や、立ち尽くす影や、真っ青な車窓に踊る列車の送電線や、濡れたアスファルトや、水溜りに映る夕日の雲に、私は心を極限まで研ぎ澄ませなければならないのです。


 その為に必要なものは、恐らく孤独でした。

 何かが、今まで自然と備わっていた私の社交性を少しずつ奪っていったように思えました。誰といても楽しくない。何をしても間違っているような気がする。にも関わらず、私は決定的に誰かを求めている自分自身に気付かざるを得ませんでした。この不自由で不完全な身体がどうしても誰かを求めるのです。空白を埋めてくれるのであれば、それがハギノであってさえ許せそうな程でした。自分で折り合いをつける度に、その想いが強まりました。まるで分裂です。一人で居たいのに誰かがそばにいて欲しい私は一体誰なのか。私は鏡の無い世界について考えました。もしこの世界に鏡がなかったら、水やガラスや自分自身を映すあらゆるものが失われた世界であったのなら、私は自分自身をどのようにして見つける事が出来るのだろう? 誰かと交わり、その内にある自分を探し取り戻す事でしか、結局のところ確かめる術はないのではないか?


 全く、あなたはどうしてこういう時に私の側にいないのですか?

 本当にあなたという人間は間が悪くて、壁みたいに気の利かない、大馬鹿野郎です。きっと社会に出てもろくでもない上司の下から逃れられず、こき使われて死んでいく事でしょう。私からメッセージを送った時も、あなたはいつまでもウジウジと返信が遅かった。ハギノと付き合うか迷って、カマを掛けた時も「別にどうでも」ってなもんです。煮え切らない。コーヒーが飲みたければ、食事の前だろうが何だろうが、とっとと飲めば良いのです。眠たそうな顔をして女の子に気を使わせるような男がよりによって私の小説を読むのは十年早い。百年早い。一億万年早いのです。


 なのに、私はそういう象の足の裏みたいに無神経なあなたにたまらなく会いたい。路地裏に見捨てられた植木鉢のようなボサーッとした顔で「あんまりそんなの気にするな、それより数学の勉強をしろ」と私に言うところを想像して、何となく涙ぐんでしまっている。








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