22. 誰かがそれを求めている
「着きましたよ」
タクシーのドアが開くと、途端に夜の匂いがする夏の空気が忍び込んできた。
料金を支払って見上げると、わりと年季の入ったアパートが暗く佇んでいた。僕はほとんど眠るように俯いているトキトオさんを抱きかかえるようにしてステンレスの階段を登っていった。僕は右腕にトキトオさんを、左肩に自分のキャンバス地の鞄を、左手にトキトオさんのパンプスを持ち、白い小さな手提げ袋を手首に掛けた。
「大丈夫ですか」
僕は生気のないトキトオさんに声を掛けた。
「全然大丈夫じゃない」
呂律が怪しい声が返ってきた。
「部屋はどこですか」
「一番奥」
「鍵」
ドアの前でフラフラしながら、トキトオさんが小さなバッグに手を突っ込んでガチャガチャと鍵を探した。すごく雑だったし、バッグの中はレシートや食べ掛けのガムやチョコレートやティッシュを丸めたものや千切れた菓子パンなどで混沌としていた。こんなにも華奢で小さなバッグにそれ程のカオスが収納可能であるという事実は新たな発見だった。ようやく鍵を見つけ、鍵穴を彷徨ってガチャガチャと見当違いな場所に挿しこもうとしているトキトオさんから鍵を奪い、ドアを開けた。途端にトキトオさんは玄関に仰向けに倒れ込み、動かなくなった。
「トキトオさん、僕帰りますよ」
「んー」
手の甲を額に当て、トキトオさんが呻いた。寝息のような規則正しい息の音がして、腹が上下した。
「ちゃんとドアの鍵締めてくださいね」
「んー」
僕はトキトオさんの頭の横に白い手提げ袋とバッグを置いて、その横にアパートの鍵を置いた。鍵にはFind Sheepという陽気な文字が踊る雲の形をしたプレートが付いていて、うっとりと眠るように目を閉じているトキトオさんによく似合った。眼鏡を外してあげたかったが、何となく気が進まなかったのでそのままにしておいた。
僕は玄関の外に出て、後ろ手で扉を締めた。それから深呼吸をした。
七月の暗い早朝は涼しく、鈴虫の音がリンリンとどこからか聞こえてきた。隣の建物は何の変哲もない住宅地で、どの窓も暗かった。朝の四時少し前という所か。僕は駅までの経路を探そうとiPhoneを手に取った。歩いて十五分くらいだ。ふと心配になって、もう一度ドアを小さく開けてトキトオさんを見た。気持ち良さそうに綺麗な足を伸ばして、眠っている。僕が去った後に鍵を締める気配はない。ここは足立区だ。酔い潰れて眠る女性に優しい街とは言えない。例えそれが居住施設の中であったとしても。僕はため息をついた。
思い切ってもう一度玄関に入り、靴を脱いだ。狭い玄関のほとんどを占めるトキトオさんの体を踏まないように爪先立ちでひょいひょいと飛び越え、トキトオさんの両脇に手を入れると、引っ張り込むように奥の部屋に運びこんだ。遺体を運ぶ犯人かよ、と僕は思った。電気を付けると、意外と ──と言うのは失礼なのかも知れないが、先程のバッグの
「トキトオさん、ベッドですよ。ほら、寝てください」
僕は掛け布団をめくり、フローリングの床にダイイングメッセージの書きかけのような格好で死んでいるトキトオさんに声を掛けた。机を引いて動かした時のように低く呻くだけで返事はない。ワンピースが太ももあたりまで捲れている。
「頑張って。すぐそこですから」
僕は肩を揺すったが、起きそうにもなかった。起きようとする意思も無さそうだった。僕は腹を決めた。
「失礼します」
僕はトキトオさんをゴロリと表返すと、肩の下と膝の下に腕を差し入れて持ち上げた。トキトオさんの体はしなやかな液体のようにぐにゃりと尻から床に滑り落ちそうだったので、結構苦労して無理矢理ベッドに横たえる事となった。思わず抱き抱えるようになってしまったトキトオさんの感触は猫のように柔らかく、春のひなたのように暖かかった。でも、今はそんな事を言っている場合ではない。薄いタオルケットをその上から掛けた。
「トキトオさん、僕は帰りますよ」
僕は後ろめたい事をした人みたいに小さな声で言った。
「鍵を掛けて、郵便受けに入れておきますからね」
トキトオさんは眼鏡を掛けたままだった。僕は少し迷ったが、やはりそれを外す事にした。その方がトキトオさんも眠りやすいだろうし、翌朝眼鏡を壊して困る事もない。
ブリッジを慎重に指で摘んで、注意深くゆっくりと眼鏡を抜き取った。眼鏡を外すと、途端にトキトオさんは幼い顔になったように見えた。あるいは無防備な寝顔を晒しているからかも知れない。僕は何故ここにいるのだろう、と不意に思った。眼鏡をそっと外した瞬間、途端に僕はこの部屋から明らかな異物として認識されたように思えた。トキトオさんの寝顔は、僕の中に眠っていた胸のどこかをチクリと震わせた。懐かしい風景の写真を引き出しの奥から見付けたような気分だ。幼い頃、確かにその風景の一部には誰かが写っていた筈だった。しかしそれは今、顔を油性ペンで雑に塗り潰されたかのように不明瞭だ。もう少しで思い出せそうな気がする。あと少しで。そう寝顔に見入ったところで、トキトオさんがパチリと目を開けた。
「メガネ……」
「外しました。寝返りを打った時に壊れたら困ると思って。サイドボードの上に置いておきました」
僕は小さな声で言った。トキトオさんは静かに上半身を起こし、俯いて息を吐きながら額とこめかみを両手で揉んだ。
「水……」
「あ、はい」
僕は玄関への通路兼キッチンに立つと、適当なグラスを取って水道水を注いで持っていった。トキトオさんはそれを美味しそうに飲んで、息を付いた。
「頭が痛い、気持ちが悪い、死にたい」
「仕方がないですよ。諦めてください」
僕はベッドの淵に腰を掛けて言った。
「迷惑掛けたわね」
広々とした目と顔をしたトキトオさんが俯いて小さな声で言った。
「何となくトキトオさんに掛けられる迷惑は嫌いじゃないような気がします」
「そういうの、本当にやめてよ……」
トキトオさんがコップを眺めながら言った。目覚まし時計が秒針を刻む音がやけに大きく聞こえた。足立区の未明は静かなのだ。
トキトオさんがコップを僕に押し付けて、背を向けて横になった。
「化粧とか落とさなくていいんですか」
僕は一応聞いてみた。
「ヒガシダ君ね、ほかに何か言う事ないの? 化粧が何?」
トキトオさんが向こう側を向いたまま不機嫌そうに言った。
「あー」
僕は少し考えた。この場合、何を言えば正解なのだろう。
「トイレの床で寝てたから、もし体調が悪くなかったらシャワーを浴びた方がいいかも知れません」
「トイレの床」
「ファミレスのトイレは清潔とは言えないので」
「清潔とは言えない」
トキトオさんが真面目な声で復唱した。メモ書きを読み上げる子供みたいなイントネーションで。
「上等じゃない。悪くない」
トキトオさんは「電気小さいのにして」と僕に命令して、僕が素直に部屋を暗いオレンジにすると、もそもそと起き上がった。
「着替え取るから向こうむいてて。後、部屋とか漁ったら死刑だから。本当にあなたを殺すから」
「漁りません」
僕は何となく膝を合わせてかしこまって座り直し、宣言した。
「絶対よ。警察に電話して、躾がなってない馬鹿大学生が酔っ払って部屋で泥棒してるって言うから」
僕は頷いて、反対側を向いた。タンスの引き出しが数回出し入れされる音がして、トキトオさんがバスルームへと歩いていく音が聞こえた。キッチン兼通路に続くドアはそっと締められた。早朝に近い深夜だからだ。音が隣近所に響くアパートなのかも知れない。僕に対しては、「ヨシ」も「戻れ」もなかった。僕はため息を吐いた。やがて磨りガラスのもっと向こう側からシャワーの音が聞こえて来た。僕はその間に帰ろうかと一瞬考えたが、戻ってきて一人になるトキトオさんの事を考えると気の毒なような気がして、残る事にした。帰れと言われてから帰っても、問題は何もないのだ。僕は座ったまま部屋をグルリと眺め、目に付いた小さなCD収納ラックから音楽の趣味を垣間見た。目に付いたものは仕方がないのだ。躾の悪い大学生としてもそれくらいは許される筈だ。宇多田ヒカル、Mr.Children、サザンオールスターズ、JUDY AND MARY、奥田民生、エレファントカシマシ。昔の音楽が好きなのだろうか。SuperFlyとback numberが一番新しい。CDプレイヤーは見当たらないので、PCで聴いているのかも知れない。
シャワーから戻って、上下淡い水色のパジャマを着たトキトオさんは可愛かった。まるで品が良く包装されたクリスマスプレゼントみたいだった。豆電球だけの部屋でもそれくらいは分かる。ドライヤーで乾かした髪の匂いがした。
「このベッドに二人は眠れない」
トキトオさんが僕の前で仁王立ちのまま宣言した。
「帰りますよ。明日は仕事ですか?」
「休み」
「ゆっくりお休みした方が良いです。今日は楽しかった」
「帰らないでいい」
トキトオさんが視線を逸らして言った。
「あたしが眠るまで側にいても良い」
「でも」
僕は迷った。トキトオさんがどういうつもりでそう言っているのか分からなかったからだ。つまり、礼儀として帰るな、という意味なのか、それとも別の意味で帰るなという意味なのかだ。別の意味となると選択肢は二つだ。だが、あのような過去の話を聞いては、その内の一つは自動的に消されている。信頼関係なしに、これ以上トキトオさんを傷付ける訳にはいかない。彼女は僕の事を信頼してくれているのだ。
「そこの座椅子に座って眠れるでしょう?」
トキトオさんが無防備に僕の前を通ってベッドに潜り込んだ。
「あたしが寝たら帰って良い。鍵はポストに入れておいてくれれば良い」
カタ、と音がして眼鏡を別の場所へ移す音がした。いつもの置き場所があるのだろう。
「じゃあ、座椅子を借ります」
僕はベッドの淵から降りて、座椅子に移動した。頭の後ろでトキトオさんが何度か掛け布団の位置を直す為に動く度にキシキシとマットレスの音がした。
「寒くない?」
「大丈夫です」
そのようにして、再び電気を消した部屋で、僕はベッドに背を付けるように置いてある座椅子に座って、トキトオさんの手を握っていた。トキトオさんはベッドに横たわっていて、僕の頭を一度くしゃくしゃと撫でてから、肩越しに右手を差し出したのだ。僕はそれを「握っても良いけど」というトキトオさんからの留保・条件付きの提案だと理解して、そっと手に取った。別にあたしは手を繋いでも/繋がなくてもいいけど・これ以上、絶対にあたしに触らないでね。トキトオさんの手は艶やかとは言えなかった。指は長く、節くれ立っていて、手のひらは意外な程薄かった。暗闇の中で手を繋ぐと、意外な程色々な事が分かるような気がした。時計が針を進める音と、何かを話そうとする予感のトキトオさんの呼吸と、夜の静寂が一緒になって聞こえた。
「あたしは今日から、生まれ変わる」
トキトオさんがゆっくりと小さな声で言った。
「あたしの悪い事は、全部今日ので帳消し。話を聞いてくれてありがとう」
「トキトオさんは誰も殺していません。悪い事なんか何もしていません」
「あなたは本当に何も分かっていないのね」
トキトオさんが間を置いて言ったので、僕は彼女が一瞬眠ってしまったのではないかと思った。
「ずっと胸の中で、行き場のない殺意が淀んでたの。あたしじゃない誰かがそれを果たしてしまったから、誰でも良いから、自分自身でそれを果たす為の身代わりを求められているような気がして仕方がなかったのよ」
独り言のように聞こえた。僕はその中に、現実と夢の世界の狭間にトキトオさんがいる事に気が付いた。彼女は眠りの淵に立っている。
「誰でもいいから殺せって、ずっと言われてるような気がしてたまらなかった。実際幻聴みたいに聞こえる時さえあった。あたしは想像の中で何度もあいつを刺したけど、それが本当に無かった事とは言えない。あたしは実際に刺し殺したとしか思えない。あの切っ先が血を流しながら鈍重な肉に埋まっていく感触が嘘だなんて信じられないの、忘れる事が出来なかったの。でも」
トキトオさんが眠りに入る大きな呼吸をした。
「あたしは今日、あの子を助けた事で生まれ変わる資格が与えられたような気がする。もう誰も、何もあたしに求めてくる事はない。語りかけてくる事もない。そう感じる」
僕はトキトオさんの手を無意識に握った。トキトオさんが思い出みたいな小さな力で握り返してきた。
「今度、リコさんと会ったらいかがですか」
僕も小さな声で言った。
「きっと、リコさんもトキトオさんに会いたがっていると思います」
「そうね」
トキトオさんが間を開けて言った。
「リコとはいつでも会えるから」
トキトオさんは深い眠りの予感を湛える息をしながら言った。
「会おうと思ったら、いつでも会えるの」
僕は手を握りながら、誰もトキトオさんの安らぎに満ちた眠りを邪魔しない事を小さく祈った。鳥のさえずりや、車のブレーキ音が我々を妨げる事のないように。何者かが二度と、トキトオさんに黒い声を囁きかける事がありませんように。
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