11. 暗闇でじっと膝を抱えて

「あたしだって、本当だったら言ってやりたかったわよ」

 トキトオさんがもう一度言った。


『おいお局。お前は頭がおかしい』

 トキトオさんの小芝居が始まった。どうやら僕がそのお局さん役らしい。僕は罵る綺麗な女性の顔が嫌いじゃない。


『どう考えても脳の病気だ。お前のせいで前途ある若者が泣きながら離職する羽目に陥ってる事に、気付いているか? 気付いているな。お前は些細な、取るに足らない若者の失敗をあげつらって、大笑いするような人間だ。周囲の失笑にも気付かない。有能なアタシ、無能を追い出した正しいアタシ。みんなに必要とされてると思いたいだろう? 逆だ』


 トキトオさんが低い声で言った。


『誰も彼もがお前の事を煙たがってる。出来れば退職して、ノルウェイかデンマークあたりへ移住して一生顔を見せなければ良いと思ってる。いや、はっきり言わないとお前は分からないよな、お前に死んで欲しいと思っている人が、大勢いる。例えば、ようやく再就職したちょっと抜けてる優しいおばさん、気が弱そうな若い子。どちらもお前は執拗に微に入り細に入り人格を否定するかの如くいちびり続けたな。彼女たちは失踪するみたいに居なくなった。あの後、寮のポストに卑猥な写真やら動物の死体が突っ込まれてて色々大変だっただろう。どっちがやったか知らねーが。お前は一見平然としてたけど、その実ベッドの脇にバットを置いて眠ってたって噂になっていたぞ。悪気のない他人を追い詰めるという事について、てっきりその時に学んだとばっかり思ってたのだけど、全くそんな事はなかったな。二週間後に配属された若い子にも、同じ様にちょっとしたミスを理不尽な大声で注意し続けて、精神を衰弱させまくっていたな。あたし達はもう、心底ウンザリした。お前は一度刺されないとわからないのかって。はっきり言って、お前は脳の病気。頭がおかしい。自分では有能優秀看護師であるかのように錯覚しているようだけど、感情が高ぶるとお前はそれを制御できなくて、途端にブルブルと震えて金切り声を上げやがる。おいお局。いつからお前は、お前以外の人類が、お前の人生を快適にする為だけに存在すべきだと思い込んでいた? ちゃんと思い出してメモをしておいた方がいい。脳外科で聞かれるかも知れないからな。さあ、もう遠慮なく脳外科へ赴いて『先生、あたしの脳が変なんです』と相談しなさい。そして退院後の余生を、ここ以外でゆっくりとお過ごしください。この療養所はもう、あたし達だけで大丈夫ですから。新たな時代に対応していく為に、若い力を結集し、みんなで知恵を出し合いながら頑張っていきます』

 激しい目力で気圧されたまま、僕はトキトオさんから目を離す事が出来なかった。その激しい憎悪に満ちた目に、釘付けになってしまったのだ。フッとその眼力が和らぐと、いつものトキトオさんの声に戻った。


「賭けても良いけど、もしこの通りお局に言ってしまえば、精神病院へ入院する羽目に追い込まれたのはあたし自身だった」

 お冷を喉に流し込んで、トキトオさんはまた氷をガリガリと齧り出した。ボリボリといういい音が響いたが、その目は「私は何か間違った事を言っただろうか」と仔細に振り返っているように見えた。


「退場したら、そんな気の毒なあたしの事を懐かしく思い出す人は。運が良かったら、そうね、誰かが一瞬くらい思い出してくれるかも知れない。『あの綺麗で優秀だったトキトオっていう看護師さんは、今どこで何をしてるんだろうな』って。せいぜい二秒、休憩時間にコーヒーでも飲みながら。でも、またすぐに忘れてしまう。その人だけが退屈で変わりばえのしない糞みたいな日常に戻っていく。あたしだけがずっとずっと一人で、誰にも手を差し伸べられないまま、暗闇でじっと膝を抱えて、お局が何かの拍子で野原の井戸に落ちて、生きたまま沢山のゲジゲジにたかられてゆっくり死んでいく様子とか、JR線で特急列車が通過する時に躾けがなってないキチガイにホームに突き落とされる様子を思い浮かべながら、暗く辛い一生送る事になっていた。だって、だってみんな自分の事だけで精一杯なんだもの。ねえ、そうでしょう?」

 恐らくトキトオさんの言う通りだった。誰かに忠告をするとして、その主旨を違わずニュアンスを変え、オブラートに包んで細心の注意を払ってするというのも、フェアではないように思えた。


「神様が一人ひとり『正しい事をした』『間違った事をした』って目分量を測って天秤に掛けて幸せと不幸せを分け与えている訳じゃない。そんな事をするにはきっと神さまも人手不足なんだわ。ハンディキャップも込みで計算するには表計算ソフトだってマスターしなきゃいけない。本当に、人生も社会も理不尽で不公平。平等って、金持ちや最初から持ってる人が言ってて気持ちがよくなるだけの言葉よ。もちろん、それくらいならヒガシダ君だって知ってると思うけど」

「何となくは」

「何となくで良いのよ。知ってるか知らないかだけで、この先全然違うんだから、そういうのって」

 トキトオさんは安心したように微笑んだ。


「そうやって職場での権力者に取り入って、あたしもほぼ盤石な体制を築いたって訳。あたしに異議を申し立てる人も、文句を言う人もいない。表向きはみんな仲良し。明るく楽しいアットホームな職場。あたしも気を使って、一人ひとりの愚痴を聞いたり、ストレス解消の飲み会を開いたりしてた。仲間を作らなくちゃいけないから。一人だけはぐれるともうお終い。閉鎖的な場所で働くと、仲が良くない人は敵と見做される。フラットな関係すなわち、敵なのよ。十四、五人の女性達と、時々数名のドクターとのスケジュールを合わせるのがどれ程大変か。バスで街に繰り出して、スナックやら居酒屋でお酒飲んでカラオケで発散するの、思いっきり。楽しいのよ、ああいうのって楽しもうって思えば、ちゃんと楽しいの。楽しめない人はただ単に楽しもうとしていないだけなの。必ずいるでしょう? 飲み会で馴染めないひと。私はそういう人の側へ行って、混ぜる係の人。しょんぼりしてる子も、私がそばへ行って、よいしょ、よいしょってみんなと溶け合わせる。料理人。結構腕利きの。最初はぎこちないかもだけど、それはそれで良い。急に仲が良くなるよりずっと良いの。最終的にみんなが打ち解ければいいんだから。急に仲が良くなり過ぎても、衝突が起こっちゃうからね。みんなあたしの事を慕ってくれたし、あたしもあたしで、みんなの事がわりと好きだった。そういう風にして二、三年も経つと、後輩が次々と入ってきた。若い子がみんな同じ顔に見えるのは、歳のせいなのかしらね?」

 ふふ、とトキトオさんが自虐的に笑顔を見せた。それから目を細めて、懐かしい友人と再会した時のような表情をした。


「その子はリコって名前で……下の名前ね、二つ歳下の大人しい、可愛らしい女の子だった。身長も女子の中でも小さくて、声も首も細くて。誰かが勝手に面倒を見てくれるタイプの子。世話を焼きたくなっちゃうタイプの女の子って、いるでしょう? 細くて小さくて可愛くて、いじらしい位一生懸命働くから、つい見てる方も『頑張れ、頑張れ』って応援したくなっちゃう子。思わずあたしも親身になっちゃって、色々教えてあげてたの。依怙贔屓みたいに思われない程度に、ね。本当にお人形さんみたいで、仕草も可愛くてね。誰も彼も味方に付けちゃうような女の子だったのよ。お局さえ彼女の前じゃ形無しだったわ。

 飲み会が終わってさあ帰りましょうってなった時に、偶然リコと二人きりになって、集団の後ろを二人でついて行くみたいに歩いていたの。そしたら急にあの子、声を顰めて『先輩、郵便局まで一緒に付き合って貰えませんか?』って言うのよ。あら、どうしたのかしら、って、あたし聞いたの。そしたら、両親に仕送りがしたいんだって。明日、お母さんの誕生日だから、早めに振り込みたいんだって。あのね、看護師の給料ってね、最初の頃はすっごく安いの。時間も九時五時なんて有り得なくて、夜勤だって月に数回ある。休みの日は一週間くらい前にならないと分からない。突然出勤の日が変わる事もある。それでいて、人の命に関わってるお仕事だし、患者さん達に感謝されるでもない。全然割に合わない仕事なのよ。看護師はお金の為にやる仕事じゃない。それは知ってた。あたしの場合、好きだからやれていた。でもね、お金がないと精神は余裕を失っていく。だからせめて、職場の人間関係は丸く収めておかないと、一気に瓦解していっちゃうと思ったの。繫ぎ止めるのに必死だった。そんな時に、『親に仕送りをしたい』なんてまだ入って半年ぐらいの可愛らしい新人ちゃんが言ってくるなんて、もうグッときちゃうわよ。あなた、何て良い子なの!?ってその場で抱きしめたくなっちゃったわよ。だから、みんなとバスに乗らずに別れて、リコと二人で街に戻ったの」

「もう郵便局なんてやってないですよね? お酒を飲んで解散するって、ずいぶん夜遅い時間でしょう?」

 僕はつい口を挟んだ。

「そうなのよ。うっかりしてた。ATMくらい開いてるかなって思ったけど、そんなのなかった」

 トキトオさんが俯いて唸った。


「あたし達は郵便局の前で途方にくれた。いや、途方に暮れていたのはあたしだけだったのかも知れない。だって、リコは最初から郵便局になんか用事がないんだから。それからね、運が悪く雨が降ってきたの。ポツポツポツーって。ヒガシダ君、世の中に陰惨なものが何かって言ったら、片田舎の暗い無人駅前の郵便局で立ち尽くす女性二人組に打ち付ける六月の雨よ。これは結構いいセンいってると思う。夏の通り雨は田舎の風物詩……と言えなくもないけど、ちょっと酷いと思わない? さっきまで本当にカラっと晴れて、気持ちよくお酒を飲んで楽しくやってたんだから。本当よ?

 リコはあたしの手を取って、『雨宿りに丁度いい所があるから、先輩一緒に行きましょう』って走り出したの。あの子ね、本当に体が小さくて、手も小さいから、あんまり力ないだろうなって思ったんだけど、もうグイグイ引っ張って行くの。結構身長が高いあたしの事を、それはもうグイグイ。飼ってた犬を思い出したわ。それで一緒に走ってたら、何だか楽しくなってきちゃってね」

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