12. 胸の奥から得体の知れない何かを引きずり出される気分って
「リコは寮に入る前に一人暮らしをしようと考えていて、不動産屋さんと一緒に物件を色々回ってたんだって。結局、そんなお金はないから寮暮らしになったのだけど。それで、その時紹介された鍵の隠し場所を知ってる空き家まであたしを連れて走って行ったって訳。二人とも酔っ払ってて、雨で新聞紙みたいにグッショグショで、走ってたら笑えてきちゃった。もう二人ともサンダルを手に持って裸足で走ってね。そこまでいくと笑うしかないのよ。
五分くらいで辿り着いた古民家のポストのあたりでリコがゴソゴソして、まるで自分の家みたいに『ただいまー。トキトオさん遠慮なく上がってー』って言いながら引き戸の鍵を開けて中へ入ったの。ただいまー、じゃないわよ。普通に不法侵入だから。アメリカだったら射殺されちゃうところよ。リコん家じゃないんだから」
トキトオさんは目を細めて楽しそうに語った。
「もちろん電気なんて使えないから、携帯の電気を使って足元だけ明るくしてね、畳の広間に上がったの。広くて、雨とい草が混ざったいい匂いがして、真っ暗で、iPhoneの電気だけが頼りで、すごくワクワクして、二人でキャッキャ笑った。賃貸物件に勝手に上り込むのはもちろん悪い事だって知ってた。でも、それがなんだって言うの? 死刑にしたければ死刑にすればいいじゃない。どうせ人は脳の太い血管が切れたら簡単に死ぬんだし。でも非力で低収入でストレス解消の為に軽く酔っ払った女性二人がほんのちょこっとだけ間借りるくらい、許されると思わない? 女の子は冷えたら死ぬのよ? 本当に死ぬのよ?」
「何も言ってませんよ」
ヒートアップしてきたトキトオさんを宥めるように僕は言った。トキトオさんは心の底から肉体の「冷え」を憎んでいるみたいだった。
「それでしばらく二人して大の字になって寝っ転がってた。大笑いしながらね。東京や大阪みたいにすぐ隣に家が立ち並ぶ住宅街ではないから、近所迷惑を気にせず遠慮なく笑えた。あたしたちはまるで、修学旅行で男子の部屋に行った女子中学生みたいに、はたまた好きな男の先生の背中にいたずら書きを貼っつけた後みたいに、すーっごく気持ちが高まってた。本当に楽しくて、大笑いして、それからしばらく、二人で息を整えた。
リコが突然、『トキトオさんの事が好きです』って言ったの。ヒガシダ君、質問はしないで。あたしは完全なストレート。女の子に興味を持った事は人生の中でたったの一度もない。好意を寄せる相手はいつも男性だけだった。部活の女の子の後輩からラブレターを渡されたりする事はあった。あたしの何が、どこが好きになったのか、詳細に書いてあった。多少はそりゃ、嬉しかったけど、でも、付き合った事があるのは後輩の男子一人だけ。あたしから女の子が好きって感情が湧いた事は、一度もなかった」
背の高いマグカップをいじりながら、トキトオさんが続けた。
「リコが急に『好きです』って言ったから、あたしは後悔した。本当はね、好意に気付いてない訳じゃなかったの。日頃から、仕事中にリコから視線を向けられてるのは分かってた。昼食を食べる時にいつも散歩の時の犬みたいに寄ってきて、暑苦しいくらい距離が近い時もあった。あたしに仕事のミスで叱られると、地獄みたいに落ち込んで周りに励まされていた。分かってたのよ、知らない振りをしてたの。後回しにしてたの。傷付けたくないから。辛うじて保ってきた上っ面だけの人間関係を壊さなくちゃいけなくなるから。そのツケが遂に回ってきた。どうして不用意に二人きりになってしまったのだろう。郵便局がとっくに終業時間を過ぎている事に何故気付けなかったのだろう。なんであたしはこう、不注意なんだろう」
トキトオさんは顔を伏せ、悔しそうに俯いた。僕は黙って続きを話すのを待った。いつの間にか、テーブルの上から空になったチョコレート・サンデーの容器は下げられおり、灰皿も綺麗なものに交換されていた。
「ごめんね、ってあたしは謝った。あたしは男の人が好きだから、あなたの言う好きには応えられないと思うって。辛かった。だって、あたしはリコが嫌いじゃなかったんだもの。お人形さんみたいに可愛くて、笑顔が向日葵みたいで、頑張り屋さんで、コロコロ笑って、明るくて。ただ単にあたしが異性愛者ってだけで、リコには何の落ち度もないの。そうでしょう? 誰も悪くないの。それって、出口がない袋小路と一緒なのよ。ただ単に、どこへも行けないの。すごい静かだった。雨戸がザンザン音を立てて、強い風切りの音が時々した。リコは鼻をすすりながら仰向けに寝てるあたしの上にゆっくり覆いかぶさってきて、最初は息を殺して、多分、泣いてたんだけど、だんだん大きな声で泣き始めた。すごく大きな声で苦しそうに泣いた。リコはとても小柄だったから、何だかあたしがお母さんみたいな気分になった。隣には電気をつけっぱなしのiPhoneが転がってて、少しだけあたしの顎の下……胸の上で泣いてるリコの顔が見えたの。リコの背中と、頭を撫でてやった。よしよしってさすってやったの。多分泣いてたからだと思うんだけど、リコの体はすごく、すごく熱かった。その火照りみたいなものが、あたしの身体に移り始めてた。底冷えした身体にリコの、小さくて暖かな体温を感じるのって、素敵だった。体温って本当に甘いのよ。それでね」
トキトオさんはそこで言葉を切った。僕は質問を控えるように言われていたので、忠実にそれを守った。トキトオさんは僕の顔を見ていたが、同時に僕の事を知覚してはいなかった。どこか透明になった僕のその先に焦点を合わせていた。
「あたしからリコにキスしたの。おでこに。正体不明の愛おしい気持ちがどうしょうもなくて、リコが一生懸命泣いてるから、可哀想な気持ちと混ざって。それが間違いだって事はわかってた。そんな事は言われなくても分かってた。でも、あたしにはそれを止める事が出来なかった。
リコが涙をいっぱいに溜めて、あたしを見上げた。すごく綺麗だった。冗談じゃなくて、あんなに綺麗な顔をした女の子の顔は、後にも先にも一度も見た事がない。iPhoneの電気でリコの瞳が縁までいっぱいに溜まった涙が透明に黒く透けて、一瞬挑発的にリコの双眼があたしを別人みたいに射抜いた。何かのスイッチがリコの中で切り替わったみたいに。まるで、まるで好きじゃないなら、なんであたしにキスなんかするんだっていう目だった。それから、リコが……リコが……」
トキトオさんが眼鏡を外し、カタリという音を立ててテーブルに置いた。それから赤くなった顔を両手で覆って俯いた。
「すごかった。キスがすごく上手だった。あたしが今までしてきたのは一体何だったんだって愕然としてしまうくらい、すごかった。身体が底冷えしていたのにあっという間に火照って、気が付いたら洋服も全部脱がされて、ほとんど夜通しヤられてた。本当に近所に家が無くてよかった。雨と風が強くて良かった。きっととんでもない声を出してたと思うから。
胸の奥から得体の知れない何かを引きずり出される気分って、ヒガシダ君に分かるかしら? 童話の大きなカブを引き抜く話があるでしょう? 犬とか猫とか、最後にネズミが引っ張って、スポッと抜けるやつ。あたしの胸の中には、どんなに引っ張っても抜けない蓋があった。そんなものが自分の中にある何てさっき気付いたばかりだったから、引き抜き方もわからない。もしかしたら押すのかも知れない。力を貸してくれるおじさんもおばさんも犬も猫もいない。ただリコが上手にそれを見つけて、一気に引き抜いてくれた。いとも簡単に、あたしの胸の奥から、呆気なく。スポーンって抜けたと思ったらその根が地中奥深くにまで、結局私というあたし自身の肉の地面に繋がっていた。一度引きずり出されたら何をしようと、神様でもそれを押し戻す事は出来ない。全てを差し晒し出さなければならない。リコはそれを優しく撫でたり、舐めたりしてくれた。それってそれって、本当に、ものすごく気持ちが良かったの。身体が内側から裏返って死ぬんじゃないかって程イカされた。『あたしは先輩の事が好きです。本当です。絶対、誰にも渡しません』ってリコは何度も何度も言った」
トキトオさんの突然の露わな性の話に、言葉を失った。始発を待つ池袋、深夜のファミリーレストランで、ほとんど無抵抗なまま全裸にされ、背の小さな可愛い後輩の女の子に指や舌で執拗にイかされるトキトオさんを思い浮かべなければならなかった。トキトオさんはどんな顔をして、どのような声を上げるのだろう。僕は思わず想像した。それから慌ててそれらを振り払って、静かに話の続きを待った。しばらくして、トキトオさんはようやく眼鏡に手を伸ばしてゆっくりと再び掛けた。それから僕が目の前にいるのに今気付いたように、ぎこちなく微笑みを作った。
「いきなりキスが上手かったとか、その……イかされたとか、そういう話をしてごめんね」
「驚きました」
僕は正直に言った。
「あたし、この話を人にするの初めてなのよ。お願いだから誰にでもよく喋る女だ何て思わないでね」
「分かりました」
と僕は答えた。と同時に、トキトオさんの顔にやや疲労が表れているのに気付かない訳にはいかなかった。
「今日は色んな事がありました。もしかしたらトキトオさんの気が昂ぶっているかも知れないし、話したく無い事は無理やり話さない方がいいと思います」
「いいえ、話させて」
トキトオさんが強い目付きを取り戻してハッキリと言った。
「あたしは今日から生まれ変わるの。その為に、全部洗いざらい話しておきたいの」
僕は頷いて、椅子に深く腰を掛け直した。僕にはそれ以外にやるべき事が特に思い付かなかった。話したい事があるのなら、洗いざらい話せば良いと僕は思った。それがトキトオさんが生まれ変わる為に必要であるのなら。
「日常の寮生活に戻って、あたしは警戒した。何をって、リコが変な事を言いふらすんじゃないかって。もちろん、リコの事は信頼してた。ちゃんと、『この事は誰にも言わないようにしよう』って、あたし達も約束した。リコも『絶対に言いません。あたしは先輩の事が大好きなので、絶対に悲しませる事はしません』って言ってくれた。でも、あたし達の職場は、真実なんて存在しないような世界だから。流言、噂……何でもいいけど、人は信じたい事を信じる生き物なの。これは本当よ。特に閉鎖的な所で大勢集まって仕事をしているとね。最初は『そんな馬鹿な』って笑えるような妙な話でも、誰も否定しないから、何度か繰り返されるうちにやがて事実として固まっていってしまうの。結構凄いわよ。世間の人達にとっては、面白ければ事実なんてどうだっていいのよ。だから、あの夜の事が、つまりリコが同性愛者で、あたしとヤッたという事が一瞬でも誰かの口端に上がると、いささか不味い立場に置かれる事になる。
でも結局、あたしとリコはほとんど公認のカップルみたいに扱われるようになった。寮はあたしが個室でリコが四人部屋なんだけど、しょっちゅう『勉強を教えてください』とか『雷が怖いので一緒に寝てください』とか理由を付けてこっちに来るの。あたしの部屋に来て一緒に寝るんだけど、そんなの周囲に隠し通せる訳がないじゃない? あたしはリコに付き合うって言ってないんだけど、もう既成事実みたいに扱われてた。リコのあたしの事が好き好きオーラが凄すぎて、周りの同僚も失笑しちゃう、みたいな。お熱いわねぇ、みたいな。でも彼女達にとって、リコのそうした行動は先輩を慕う後輩以上のものとは捉えられなかった。まさかリコが本物のレズビアンだとは誰も思わなかったの。あたしはヒヤヒヤして、本当にリコがそういう風にまとわりついてくるのが嫌だった。
職場は奇跡みたいに綺麗に収まってた。気のせいじゃなくてね。明るくて、その場にいるだけで周囲を和ませて、普段表情を出さない患者さんにすら微笑みを浮かべさせるような、天使みたいな女の子を、誰も憎んだりしなかった。嫉妬したり出来なかった。ただひたすら愛されてた。そんなリコがあたしを好きだって言ってくれて、慕ってくれて、あたしも少しずつリコが好きになりかけた。恋愛対象として。たまに寮から完全に人が出払った時、入念に注意を払って、時々あたし達は触りあった。コツみたいなのが分かってきて、人目を忍んでヤるのは本当に良かった。一切の留保なく、嘘みたいに無防備にあたしに身を委ねてくれるリコが心の底から愛おしく感じられた。もう同僚なんかじゃない。家族でもない。あたしはリコが好きだと思った。でも言えなかった。そんなの、何て言えばいいのよ? 改めて愛の告白をすればよかった訳?」
トキトオさんはぐっと言葉を飲み込んで、しばらく苦い顔をしてテーブルの上の灰皿を睨んだ。いつもの職場のトキトオさんの目付きだ。楽しい予感に満ち溢れた夜のはじめはもう、遠くへ過ぎ去ってしまったのだ。それはあまりにも呆気なく過ぎ去ってしまったように思えた。冷めたポテトフライと、破れたストッキングだけを残骸のように残して。
🔳
「ある日、新しい患者の男がやってきた」
トキトオさんが両手を祈るよう組んで、その上に細い顎を載せた。
「私はその男を殺さなくてはいけなかった」
「ちょっと待ってください」
僕はトキトオさんの話を遮った。
「どういう事ですか?」
「あいつが全てを滅茶苦茶にした」
トキトオさんが真っ直ぐに僕を見据えて言った。
「だからあたしはあいつを絶対に殺すと誓った」
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