13. 初夏の醜悪な男

「初夏の暑い日だった。単なる肉塊に服を着せて手足顔を付けたような醜悪な男を、黒い背広を手に持った男二人が連れてきた。その二人は刑事じゃないかってみんなが噂した。受付で胸ポケットから何かを出して見せてたって誰かが言ってたから。手帳よ。受付でそれをわざわざ見せる職業なんてそんなに無い。あたしは、きっと何かの捜査の為に男を連れて来たんだろう、って思った。時々ね、事件の捜査に警察の人間が療養所にやってきたの。一回でも接すると、だいたい警察の人間は一目でわかるようになる。例えば、目がどこまでも黒い。瞬きをあまりしない。白目全体が黄色味がかってる。顔に表情ってものがない。たまに浮かべる愛想笑いには何故か『お前は嘘をついている』って書いて貼ってある。歯と肌が汚い。口が臭い。人に断らずにタバコを吸う。体全体から妙にスエた匂いがする」

「適当に悪口を並べてるだけみたいですけど」

 僕は少し笑いながら感想を挟んだ。でもトキトオさんは微笑みらしきものを徹底的に排除した目で僕を見た。

「ヒガシダ君、これは本当なのよ。警察の人間と関わったら、あなたにもすぐあたしが言ってる事を理解してくれると思う。でも、人生の中で、警察と関わらないようにする事が一番大切。徹底的に避けるべき機関の人間が、警察」

 僕はその静かに怒りを燃やしているようなトキトオさんに気圧されて黙った。茶々なんかいれるべきではなかったのだ。


「あたしが勤めていた療養所に収容されている人達は、大体六十代から八十代くらいで、若い人はいなかった。精神に病を抱えている人達だから、時折錯乱したり、トラブルはあったけれど、基本的にとても大人しい人たちなの。だからしばらくして、男が療養所の病衣に着替えて連れられて歩いているのを見た時は、本当に驚いた。それって患者として入所するって事だから。

 男には個室が割り当てられて、一箇所だけの出入り口に、見張りが座るためのパイプ椅子が置かれた。男は司法取引が成立した後、身元を厳重に保護する必要がある重要参考人だった ──らしい」

「確かな事は分からない」

「そう。何もかもが終わった今この瞬間であっても、推測でしかないの。誰もあたし達末端の看護師に『実はこの男は重要参考人の〇〇まるまるさんで、しばらくここで身を潜める事になった。この件はくれぐれも、絶対にSNSなどに上げないように』なんて言ってくれない。あたし達の認識はこう。『入所する男が一人増えた。その人は普段空き部屋である個室を使う程のVIP待遇で、見張りらしき人間がその入り口でお守りをしている』以上」

「不親切だ」

 僕は抗議した。

「そう。不親切。でも医療関係でこの不親切さは一種異様で致命的だった。看護師一人ひとりの業務として、カルテやら治療の履歴を共有するのは必要不可欠だったから。でも、全ての情報はシャットアウトされた。『ペンションに泊まりに来た客かよ』ってみんなブウブウ文句を言ったわ。でも、ペンションの宿泊客としては声が大きすぎたし、要望も多過ぎた」

 僕は話の続きを待った。


「療養所の仕事はね、すごく忙しいの。ルーチンワーク、朝の検温、食事の提供から、シーツ、病衣の洗濯、風呂掃除……何から何まであたし達がやらないといけない。食事は運ばれてきたものを出すだけだからマシだったけど、もちろん美味しい物じゃ無い。暇な時間なんてほとんど無いのよ。なのに、あの男はいつでも関係なくあたし達を呼びつけた。大きな声で。やれ、食事が不味いだの、冷めてるから交換しろだの。風呂が遅いだの、汚れていたから掃除して張り直せだの。風呂だって一人で浴びさせなければいけないって上から指示されてたから、一番最後になるに決まってる。あんた一人の為に大浴場をわざわざ綺麗にして、お湯を張り直せっていうの? 冗談じゃない。ねぇ、あたし達はとてもとても忙しいの。ここは軽井沢の気の利いたヴィラ何とかっていうキザな名前を付けた民間宿泊施設じゃないし、蟹のお椀で〆たりする上等な夕食は出さない。お願いだから黙って寝ていて」

 尋常じゃない暗黒の目付きでトキトオさんは僕を睨んで言った。トキトオさんは今、脳内で一人でタイムスリップをしているのだ。

「見張りの人は男を注意しなかったんですか?」

「全くしなかった。あの男は単なる見張りで、糞の程の役にも立たなかった。すぐ隣で部屋の戸を開けて大声で怒鳴る男がいるのに、顔色も変えず、表情も変えず、マネキン人形みたいに椅子に座っているだけ。私達がいくら抗議しても、まっすぐ前を向いて座っているだけで、全く声も発さなかった。男が部屋から出る時だけ、影みたいにぴったり付き添ってた。暑いのにスーツを着ていたし、体格もよかったから警察の人間だったと思う。多分、銃も持っていた。同僚が食事を運ぶ際に、ちらっと座っている男の胸元からホルスターに収められた銃が見えた……らしい」

「伝聞」

「そう。あくまで今現在をもってしても『らしい』止まり。あたしは銃は見たことがなかったけど。さっきも言った通り、閉鎖的な場所では噂が本当になる事が良くあった。だから、あの見張りが警官で、銃を持っているというのは事実として扱われたの」

 僕は思わずため息をついた。


「男の横暴は続いて、一ヶ月も経つとさらにエスカレートしていった。夜中、車数台で乗り付けた男や女達が病室に乗り込んできて、ステレオを爆音全開で、酒を飲みながら大暴れした事もあった。 隣の離れた寮で眠っているあたし達が飛び起きるくらいの爆音で。慌てて飛び起きて、みんなで抗議しに行ったわよ。やめさせたわよ。信じられる? 療養所で酒を煽りながらほとんど全裸で男女十人ぐらいが腰振って踊ってる光景。目について離れないわ。そんで、あの見張りは何の為に存在しているの? マネキンなの? 食事を運ぶ同僚達も口々に『セクハラされた』『キスを強要された』『もう嫌だ』って言い始めた。もう、やりたい放題。その注意をしに行くのはいつもあたしだった。本来ならお局があたし達の上司だから、私の仕事ではなかった。でも、お局は下には厳しかったけど、上から言われる事は忠実に守った。『抗議や注意はあたしの(こういう時に限って『達』って付けるのよ)仕事では無いでしょう? 毎日決められた事を粛々と正しくこなし続ける事があたしの仕事なんだから』って。正論。実際、お局は夜中の爆音ダンス大会事件の時も起きてきやしなかった。本当にグウスカ寝てたか、狸寝入りね」

 苦々しくトキトオさんが続けた。


「あの男はね、醜かった。ぶよぶよ白く太って、つるっ禿げで、ほとんど全身に刺青が入っていた。身長もあたしと同じくらいか、少し低い。ダミ声で、頬骨が高くて目がつり上がって、唇が分厚い。ダミ声で怒鳴り散らす、頭がおかしい人間の形を偶然とったに過ぎない肉塊。正面から見たら反吐が出そうなくらい醜いの。人間じゃないみたいだった」

 今度は僕は茶々を挟まなかった。トキトオさんがどれ程憎んでいるかが空気を介して伝わってきたからだ。

「誰かがセクハラをされた、とかになると、仕方がないからあたしが注意しに行くの。その男の所に。だって野放しにしておく訳にはいかないでしょう。『ちょっと××さん、こういうの本当にやめてもらえますか? 嫌がってるんで』って。そうしたらあの男、散々あたしが来る前まで周囲の人達に怒鳴り散らかしてた癖に、急に大人しくなるのよ。ベッドの上で、上半身だけ起こしたまま、じっと俯いて『すまなかった。アンタが言うなら、ここは俺が悪かった。抑えるようにする』って、いかにも反省してます、みたいな雰囲気でボツボツ言う訳。みんな『すごい』っていう感じであたしを見るの。気持ち悪かった。そういう事が何度もあった。叱って、男が謝る。注意して、謝る。もちろんこれもあの男の計算だったのよ。


 リコがだんだんと元気を無くしていった。あの男が来てから毎日イレギュラーな事ばかりだったから、疲れが溜まってきたのかなってあたしは思った。リコは基本元気で明るい子だったけど、多くの女性と同じように、環境の変化にはうまく馴染めない所があってね、緊急の用事が重なったりすると『ああう〜』って頭を抱えちゃうような子だったの。

 大丈夫よ、ってあたしは夜眠る時、励ました。リコがまたあたしの部屋に来た時に。

 いつかあの男は出て行くから、大丈夫。無理しないで、二人で乗り越えていこうって言ったの。でも、リコは首を横に振って、

『そんなんじゃない』

 って小さい声であたしに言った。

 まるで、あなたは何も分かっていないのねって感じで。

『あの男は本当に悪い男なのよ。本当に本当に悪い人間なのよ』

 って。またあたしの胸の中で泣くのよ。一体何があったのか、って聞いても、リコは何も答えてくれなかった。その夜を境に、リコはあたしの部屋に来なくなった。あたしからその、アレを誘った事はなかったから、少し寂しい気持ちになった。あたしは何にも分かっていなかったの。本当に」


「数週間経って、また大きな事件が起きた。今度は、あの男が入所してる患者に暴力を振るったって言うの。血相を変えて同僚があたしを呼びに来た。え、そんな事ある!?って、あたし思って。暴力沙汰って、ここは閑静な療養所だったのにって。あの男が来てから本当にここは変わってしまったんだって思った。

 食堂のテーブルも椅子もめちゃくちゃになってて、大勢が遠巻きに見てて、患者のおじいさんが呆然とした顔をして、鼻血を出して壁にもたれて座ってたの。男は興奮して、そのおじいさんを見下ろしながら、今にも蹴り飛ばしそうな勢いで悪態を吐き続けていた。汚らしい、聞くに耐えない河内弁よ。ほとんど動物の唸り声にしか聞こえない。リコが通せんぼをするみたいに、おじいさんの前に立って庇っていた。その患者さんは、リコと仲が良かったのよ。感情の起伏が乏しいおじいさんだったんだけど、リコといる時だけは微笑んだりできたの。リコもその患者さんを特別に思ってた。だから庇った。男はどけコラボケとか、本当に興奮してて。今にもリコに殴りかかりそうな勢いだった。

『やめてください』

 ってあたしは間に入った。どけボケアホんだるァァいてこましたるれダボとか何とか。さっきも言ったけど、動物の唸り声なのよアレは。醜い顔をさらに獰猛に歪ませて。お付きの人? いなかった。その頃から、お守りの黒スーツは居たりいなかったりした。だからこういう事をあの男はやり始めたのよ。抑止力が無くなった瞬間、自分が持ってる権利と力は何から何まで、余す事なく行使しなければ気が済まない部類の下衆野郎なのよ。


 しばらく収まらなかったけど、ようやく落ち着いて聞いてみたら、いつも挨拶を無視されるって、そういう下らない理由で頭に来たんだっていう訳。信じられないわよ、今日日そんな中学生みたいな理由でブチ切れる大人っている? そうだった、こいつは大人でもなく、動物だったんだってあたしは改めて再認識した。だから、あなたが殴り飛ばしたおじさんが高度自閉症で、中枢神経の働きに問題があって感情の発露に結びつかないのって、説明を何度もした。犬とか猫に説明をするみたいに。優しい言葉や、簡単な例え話を使ってね。

『そういう事なら分かった。謝る』

 ってまたあの男が謝罪した。今度ばかりはあたしはそれに安堵した。普段の胡散臭さを感じたものの、いつまでもこの場を暴力の匂いに侵食され続けるのは嫌だったから。


 でも突然、リコが

『出て行って! 出て行って!』

 って叫んだの。泣きながらあたしに後ろから抱きついて、何度も何度も、何度も何度も。あたし、びっくりしちゃって。すごい力であたしの後ろからギュウーって抱き付いて、何度も大声で叫んだの。あんな大きな声、リコが出すなんて信じられなかった。

『出て行ってー!』

 って。あたしはリコの様子があまりにも変だから、リコの頭を撫でて、大丈夫大丈夫ってした。男は舌打ちをして、自分の部屋に帰って行った」

 トキトオさんは話し終えると、フゥ、と小さく息をついた。

「落ち着いてリコに話を聞くと、あの男は本当に悪い奴だ、としか言わなかった。どうして先輩には分からないんですか?って。 あたしには分かるんだって、すごく興奮してた。早く追い出さないと、ここは取り返しが付かない事になる」

 溶けた氷が小さな音を立てたが、店内のBGMにかき消された。


「このままではいけない、って思った」






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