14. トキトオ、都会へ行く

「今回の暴力沙汰は看過する訳にはいかなかった。リコの尋常じゃない様子があたしに決断させた。お局が頼りにならない以上、あたしが上に直接訴えるしかない」

 すっかり氷が溶けきったお冷でトキトオさんは唇を湿らせた。


「翌日、防虫剤の匂いがする重たくじっとりしたスーツを着て、一番早いバスに乗った。あたしが上の人に現状を訴えるって言うと、みんな希望に満ちた目で『頑張って!』『本当にお願いね!』って口々に声を掛けてくれた。現場は私たちが守るからじっくり話してきて! って。

 本来ならお局に挨拶をしてから行くべきだったのだけど、あたしはしなかった。急いでいた、っていう言い訳もあるんだけど、やっぱりこの事態に何もしてくれないお局に対して思う所があった。まるで見殺しにされているような気持ちになっていたから。だから、あたしはワザとお局には何も言わずに出て行ったって事になると思う。きっと、あたしが同僚たちに盛大にバス停で見送られるのを、お局は遠くから苦々しく眺めていた筈よ」

「そんな風に突然押し掛けて、上司は話を聞いてくれるものなんですか?」

 僕は疑問を口にした。

「鋭いわね、ヒガシダ君」

 トキトオさんは唇の片方だけで笑った。

「普通は話なんか聞いてくれない」

「ですよね」

「でも、あたしがそれに気付いたのは、本社が入ってる巨大なオフィスビルに入って、天井が馬鹿みたいに高いホールを右往左往してた時だった。ここに就職してから本社ビルに来たのは二回目だったから、どうやって入場するのかすっかり忘れちゃって。前は人事の人が勝手に入場させてくれてたのね、きっと。エレベーターフロアの前に電車の自動改札機みたいなのが付いてて、みんな首から下げてるカードをピッてやって入っていくの。何すかそれって。あたしの社員証にはそんなお洒落機能ICチップが付いてるとは思えなかった。ダンボールみたいな素朴な素材で出来てるし、間違えて洗濯を何度かしたせいでラミネートはクチャクチャ。これを自動改札機にかざして「ピッ」て通してくれる訳がなかった。とても惨めな気持ちになった。


 どうしようか、と途方に暮れた。仕方がないから、すいません、34階と35階にある●●医療法人の××部長に会いたいのだけど、ってどデカイご大層な大理石の受付に座ってる綺麗なお姉さんに言ったら、『アポイントメントはございますでしょうか』って言うのよ。なによアポイントメントって。そんなの無いわよ、あたしはそこの社員なのよって言って。『確認します』って、受付嬢は冷静に受話器を上げて、二、三小さな声で話して切って『××部長は席を外しているとの事です』って無表情に、事務的に言い切りやがったの。お前言わされてるんじゃないかって。本当にぶっ飛ばしてやろうかと思ったけど、これはまぁ、突然来たあたしに非がなくも無い。ちょっと直情的に動きすぎた感も否めない。


 腹を割って話せばビルに入れたんだろうけど、部長が本当にいない可能性もある。そうしたら、私は自分の会社の受付で、突然アポなしでお偉いさんに面会を求める不審な社員として扱われてしまうだろう。経験上、そこからの挽回リカバリは難しい。でも、あたしには何故か、部長はちゃんと会社に居るって確信があった。受付のお姉さんの口調や、目の動きでそう感じたの。直接会わなければ意味がない。直撃する為の作戦を練ろう、頭を冷やそうと思って、オフィスビルを出てすぐ近くのスターバックスに入った。


 まだお昼前で空いていたし、腹ごしらえも兼ねて、アイスコーヒーとクリームチーズサーモン・サンドウィッチを買って、外の通りを眺めながら食べた。すんごい良い天気で、ビルの窓は綺麗に青空を反射していたけど、気分はそりゃあもうドンヨリよ。収穫無しで帰る訳にはにいかない。何が何でもスーツ組のお偉いさんに会ってこの環境を変えてもらわないと、あたし達が先に参ってしまう。同僚たちからの期待も背負っている。でもどうしよう、どうすれば中に入れるんだろうってモソモソとパンに画用紙が挟まってるような味がするサンドウィッチを齧っていたら、隣のカウンターに座る男が新聞を読んでいてね。三流以下のゴシップスポーツ紙よ。ねぇ、ああいう下世話な新聞をスターバックスで堂々と読む男ってどう思う? そういうのってドトールでやれって思わない? あたしがスターバックスに憧れを持ち過ぎているのかしら。何となく、英語の新聞紙とかがしっくりくると思うんだけど。……まあいいや。


 その新聞にデカデカとお笑い芸人のペットを紹介するコーナーが載っていて、そのお笑い芸人が抱えてるペットの豚があの男にそっくりだったの。首が無い所とか、目付きが三角でジットリしてるところとか。これだ!ってあたし、思って。


 飲み込むように全部平らげて、外に出てあのオフィスビルに電話を掛けた。例のアンドロイドみたいな女が電話口に出たわ。あー、もしもし、私は●●新聞京都支店の記者だけどって。すんごく横柄な物腰で言ってやったわよ。さっきイラッとさせられたから、お返しに。いいですか、これから言う事を一文字余さずメモに取って、35階の●●医療法人の××部長に伝言しろ」

 

 トキトオさんが親指と小指で手を電話にして、その時の喋り方を再現した。確かに鬱陶しそうな女記者と言う喋り方だった。


「御社の京都〇〇療養所に収容されている男について、是非ともお話をお伺いしたいと思います。あの全身刺青の気持ち悪いブサイクな男の事です。ご存知ですよね? 先日あの男が患者に暴力を振るっていう件で弊新聞社にタレコミがありまして……新聞社ってちゃんと書いてよ? 警察沙汰になる前に御社のコメントを頂戴できましたら。あ、いや、逆に警察沙汰にはならないんですかね? 我々的にはどちらもですけど。是非お時間作っていただけないでしょうか? これから15分待ちますので、もしよろしければ折り返しお電話ください。電話番号は●●●●●●●。電話がなければ、どうぞ明日の朝刊を楽しみにお待ちください。方々の新聞社に送るお電話お待ち申し上げております……書いた? メモった? じゃあそのまま一字一句漏らさず××部長に伝えてちょうだい。よろしくね。きっちり十分後に電話が鳴った」

 フヘッ、とトキトオさんが笑顔で言った。


「部長は仏頂面だった。……これは洒落じゃないのよ。身分を偽ってまで面会をしに来たあたしに対して安堵と怒りがない交ぜになった顔をしてた。『君が社員証を見せればこんな真似をしなくても私と面会は出来た』と××部長はネクタイを緩めながら言った。『君にとって会社はそんなに信用ならんところなのかね』

 私はきちんと謝罪をした。嘘をついて申し訳ない。でも、あまり信用はしていませんね、と正直に伝えるとぐっと部長が空気を飲み込んだ。銀縁の四角い眼鏡に、やはりシルバーの髭を蓄えた、なかなか頼もしい雰囲気がある眼光が鋭い五十代の男性だった。テレビの討論番組で舌鋒鋭い芸人崩れのような雰囲気があった。もちろん、私は初対面だった。私は銀縁眼鏡の男性を基本的に信用していない。


 どうしても現状をきちんとお伝えしたいので、って私は言った。部長は鼻白んだ風に座りやすい応接室のソファに深く身体を沈めた。

『何なのだ一体』

 って部長が言った。私は事情を最初から説明した。


『君の上長は何もしてくれないのかね』


 って部長は言った。あたしはちゃんと現状を訴えたのよ。馬鹿みたいなスーツを着て、寝不足の眠たい目を擦って、建物ばっかり立派でその内のたかだかツーフロアーを借りてるだけのオフィスへ行って、高いだけのスタバを食べて飲んで。

 何もしてくれませんってあたしはハッキリと言った。だから私がこうしてあなたを頼って来ているのだと。あの男がどんな蛮行を重ねても、誰が歯止めを掛けるでもなく、物事はエスカレートしていくだけなんだって。元々素性が分からない奇妙な男をあんな隔離された場所に閉じ込めるには無理があるし、実際他の患者に暴力を振るい始めた事実をどのように捉えていらっしゃるのか、是非考えをお聞かせ願いたい、ってあたしは詰め寄った。


『あの男の詳細については君に話すことは出来ない』


 って部長が言った。あれは君の預かり知らない場所で決定された物事だし、非常に限られた者だけが知る機密に近いものなのだと。では、その機密とやらの為に従業員達を見捨てるおつもりかってあたしは極めて穏便に問いただした。とすればあの療養所が壊滅的な状況に追い込まれるのは時間の問題で、つまりは従業員達が次々と傷付き離職していく事を意味している。責任感だけではとてもやってはいけないのだと。とりわけ意味不明の暴力が色濃く我々の身近に潜んでいる今となっては」


「穏便に問いただしたんですね」

 と僕は聞いた。

「そう。物事は冷静に進めなくちゃいけない。熱くなっては負け」

 トキトオさんがウェイトレスを呼んで、コーヒーを注文した。

 僕はトキトオさんが大声を出して、応接室の馬鹿でかい机にパンプスを履いた綺麗な片足を載せ、事業部長の胸ぐらを掴んで恫喝している場面が浮かんだ。綺麗なヒップラインが浮き出ている。あまりにも鮮明なイメージが浮かび過ぎる。トキトオさんは運ばれてきたコーヒーをブラックのまま、大切そうに一口啜った。

「穏便に」

 僕はもう一度確認した。

「そう。穏便に」

 目を伏せて、恐らくは真っ黒な湖畔を思わせるコーヒーを覗き込んだままトキトオさんが繰り返した。


「『ではどうすればいいのかね』って、くたびれたように事業部長がようやくこちらに耳を傾けてくれた。その頃にはあたしはもう、本当にクタクタに疲れ果ててた。馬鹿で石頭で、『どうしようもない、何もできない、上長に相談したまえ』しか言わない干からびた犬の糞みたいな男にどれだけ体力を消耗するか、ちょっとだけ想像してみて欲しい。

 あの男を早急に療養所から別の場所へ移送していただきたい、って改めてお願いした。そうしなければ、いずれ重大な事件を招く事になると。それは取り返しが付かない種類のものなんだって。部長の拒絶のトーンは繰り返すたびに高まっていった。話は平行線のまま終わるかと思ったその時、部長はむっつりとしばらく考えた後、

『分かった、こちらで何とかしよう』

 ってようやく言ってくれたの。本当ですかって、あたしは確認した。突然の呆気ない幕切れだったから。どのように対処されるおつもりですかって聞いた。

『こちらがどうするかは、あなたに言う必要のない事だ。今後、あなたはきちんと上長と相談をして、上長からわたしに通じるように徹底していただきたい。組織を保つ為には、そうした秩序がどうしても必要だ。今回の件は序列を乱す、社会人として非常識に過ぎる行為だ。だが今回は特別に目を瞑ろう。新聞社の記者を騙った事も忘れてやろう。一緒に働く仲間達の為に、はるばる遠い現場からここまで来た、君の熱意と勇気に今回は応えよう』

 恐ろしく胡散臭かった。部長がその場凌ぎであたしに言ってるんじゃないかって気がして仕方がなかったのだけど、もうタイムリミットだった。『君にも仕事があるだろう。私の権限で総務に言っておくから、交通費を受け取って職場に戻りたまえ。領収書くらいちゃんと取ってあるだろうな』じゃかましいわ、ハゲ。でも、あたしは引き下がるしかなかった。


 お土産に京都駅限定品のマカロンとポッキーをたんまり買って、はるばる三時間程かけて療養所に戻ると、事態は一変していた。あの男がいる部屋があるフロア全体が締め切られていたの。あの男の部屋の他に、二、三部屋ほど人が入っている相部屋があったんだけど、どこか別の棟に移動させられていた。あたしが京都から戻るたった三時間ちょっとの間よ。誰もあの男の部屋の前まですら行けなくなった。誰がそれをやったか? もちろんお局よ。圧倒的ハリボテのカリスマ性を持ってあたしの同僚らを統率し、相部屋の大移動から、あの男の部屋に通じる通路の封鎖……黄色と黒のまだらのテープとかどこにあったのよって感じよね……までやってのけた。まるでチフスを発症した患者を封じ込めるみたいに。


『お帰りなさい、トキトオさん』


 って、あたしがお土産の荷物を抱えたまま、大規模な引っ越しか、年末の大掃除みたいになっている騒々しさに呆然としていると、お局がゆっくり、ゆっくりと歩み寄ってきた。


『トキトオさん、お・か・え・り』


 満面の笑顔だった。でも目の奥は全然笑っていなかった。黒目がないみたいに見えたし、白目しか無いようにも見えた。あたしはその顔に見覚えがあった。多くの人達のメンタルを粉々に打ち砕いて、失意の内に離職させていったお局のあの目。、とはっきりと区別し、宣告する目。近い未来の内に、あたしがズタボロになっていく様子を思い浮かべているであろう、思わず漏れ出るサディスティックな笑み。

 お局の周囲では同僚達が目を伏せながら忙しそうに作業を続けていた。彼女達はあたしと目を合わさなかった。まるでこの世にいない人みたいに。どうやら、この往復六時間と少しであたしが失ったものは、数年間かけて築いてきたお局から信頼と寵愛、そして同僚からの期待と希望」


「あんまりだ」

 と僕は思わず口を挟んだ。

「トキトオさんはみんなの為を思って直談判に行ったのに、そんなの酷い」

「現場を知らない人たちの判断はいつもこんなのばっかりだった」

 トキトオさんは吐き捨てるように言った。

「男が危険? なら隔離しておけば大丈夫だろう。お局にやらせておけば、あとはアイツが実行部隊として矢面に立ってやるだろう。さて、ランチでも食べに行くか、ってね。想像がついた。あたしがいなくなった後、あのクソ部長がどんなドヤ顔をして電話でお局に指示を出したか、あたしがした事、つまり上司を超えて上層部へ直談判しに行った事について、お局の管理不行き届きをどんな風にネチネチ責め上げたのか、目の前にありありと浮かんだわ。

 

 あの男を隔離すりゃそれは安全よ。でも、シーツの交換や洗濯物を取りに行くのは誰? 食事を持っていくのは誰? あたし達よ。患者とは言え、衆人の目がない密室でそれをやらされるあたし達に、想像力が及ばないのよ、ああいうスーツを着てパソコンに向かっている人達は。信じられないくらい単純で、責任感ゼロの癖に、自信過剰で『俺って最高』とか自惚れてんのよ。自分を査定する人に『現場のイザコザはこの私が軽く丸く収めておきましたから』とか言ってんのよ。バカじゃないのって。本当につくづく、最低、最悪の、救いようがない、ボンクラな奴ら」

 区切るような口調で、トキトオさんが続けた。


「とにかくまぁ、そういう風にして、あたしは職場で完全に孤立する事になった」




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