15. もう少し待ってて
「あたしのかつての栄光は消え去った。毎日毎日、事ある毎にお局に下らない事で怒鳴られ、大勢の同僚の前で大声で叱責される躾の悪い猿みたいな扱いになった。これは本当に参った。胃がキリキリと痛んで、食欲もなくなるし、頭痛も慢性的にするし、トイレから出られなくなる程の激しい下痢の症状が続いた。持って帰った土産は事務所の端っこに打ち捨てられて、誰にも手を付けられないまま賞味期限が切れた。
あたしの同僚達は何も見ていないふりをしていた。あたしが怒鳴られて、一人になってずっと立っていても、まるで透明な空気がそこにある、と言った風に誰も声を掛けてくれなかった。どうせ『あーあ、またやられてる』ってなもんよ。『そろそろ次の人が来るのかしら』ってね。冗談じゃないわよ。次の人に期待ってことは、あたしが居なくなるって事よ。勿論、辞めたいって思った。でもあたしは看護の仕事が好きだったし、それ以外にやった事がなかった。だからいつも通りにやる。それをお局がサカリの付いた犬猫みたいに後からクンクン確認して回って、あたしのだろうが誰か別の人のであろうがお構い無しに些細なミスを意地でも探し出し、ここぞとばかりに大声であたしを呼び付けて、周りに見せつけるように怒鳴るの。嫌な汗が身体中の毛穴から這い上がってきて、目の前が真っ暗になるのよ。未だに大声を出す女性の近くに行くと身構えてしまう。同僚はそれを見て見ぬ振り。
そういうのが続くと、だんだんと、全員があたしが居ないところで私の悪口を言っているような気がしてくるの。私が居ないところで彼女達が笑っていると、あたしを馬鹿にして笑ってるんだって勝手に思っちゃうの。そういう時、目付きが凄く悪くなるのが自分でも分かった。無意識に睨んじゃうの。あたしの周りには敵しかいないんだって、そう思い込んでしまって。するとみんなは、一層見ちゃいけないものを見たって感じで慌てて目を逸らしたり、作業を白々しく再開したりして、全員に無視される日が何日も続いた。
リコ。そう、リコ。
寮から離れた外で、あのお局こだわりの、施設周辺の温度と湿度をわざわざ手書きでノートに記録している時よ。そうよ、まだあたしだけはそれを続けていたの。お局の機嫌取りになれば、って思って。悲しいでしょう。笑えてくる。でも、唯一ひと息つける時間だった。そこには誰もいない。誰も私を笑わないし、監視もしていない。一人になれる時間。そこにリコがパッと、妖精みたいに現れて、あたしの手を取って、それを自分の胸に当てて、じっとあたしの目を覗き込んで約束してくれた。
『トキトオさん、もう少し待ってて』って。
『あたしが何とかするから』って。
リコはね、そこで待ってたのよ。夢じゃないかって疑うくらい、綺麗な女性になってた。あたしの部屋に来なくなって、暴力事件があって数週間くらいの間に、肌はさらに美しく透けて、肩の線が儚くて、髪の毛は深い黒で、唇は紅くふっくらしていて。恋でもしてるんじゃないかって思うくらい、素敵な女性になってた。私がリーダーから事実上降ろされた後、お局の次にみんなをまとめる地位に就いて、自信がついたのかも知れない。
それに比べてあたしの見すぼらしさと言ったら。思い返すと本当に笑えるわよ。髪はボサボサ。肌はガッサガサ。ストレスで便秘と下痢を同時にやってたからよ。地獄よ。ご飯も喉を通らなくて、ウエストは5cmくらい細くなって、下っ腹だけ妖怪の餓鬼みたいにポッコリでてるの。夜は眠れなくて、頰は痩けて化粧ノリは最悪。背筋はいつも怯えるように丸くって、卑屈な上目遣いの目が隈の中でギョロギョロしてるの。鏡で見ても自分でびっくりする位、ほとんど幽霊みたいな姿よ。しかも職場じゃお局の姿が見えると緊張して手が小さく震えるの。誇張じゃなくて奥歯もカタカタ鳴るのよ。
私はもう嫌だって言った。何であたしだけこんな目に合わなきゃいけないのって、キラキラしてるリコに比べて、あまりに落ちぶれて醜い自分が情けなかった。隣に立ちたくなかった。こんな惨めな気持ちになるくらいだったら、最初から何もしなければ良かった。お前たちの事なんか、放っておけば良かった。どうせみんなであたしの事を影で馬鹿にしてんでしょって。いっそ死んだ方がマシだって言ったの。そうしたらリコが、綺麗なリコが
『ごめんなさい』
って、抱きしめてくれた。あたしをギュって。顎の下のリコの髪から、すごくいい匂いがした。力がガックリ抜けていった。その時、自分が一人で立つ為だけに、どれくらいの力を振り絞っていたのか気付かされた。貧血みたいに目の前が真っ暗になった。でも、私は何とかリコの両肩を引き剥がして、それから思いっきり突き飛ばした。リコはびっくりする位軽かった。リコはもんどり打って砂利の上に倒れた。それから、お前の事なんか大っ嫌いだって言ってやった。大っ嫌いだって大声でハッキリと言ってやった。
リコはとても悲しそうな顔をした。それから、先へ歩いていく私に追いすがって、それを何度も突き飛ばしても突き飛ばしても、あたしに抱きつこうと寄ってきた。溢れるような大きな目をまっすぐあたしに向けて。やめて、寄らないで、近付かないでってあたしはその度に力一杯突き飛ばした。リコはよろめいたり、倒れたりして、それでも何度も起き上がってあたしに向かってきた。情けない話なんだけど、あたしはいつの間にか泣いてた。最後にはリコの小さな腕を背中に回されたまま泣いた。リコがあたしを救おうとすると、お局は次にリコを標的にするだろう。大好きだったのよ、あたしだってリコが。決まってるじゃない、大好きだったの。でも、だから何もして欲しくない。リコはずっとあたしを抱きしめていてくれた。あたしはもう、息も出来なかった。ちゃんとリコが好きだって言えば良かった。あなたの事が大好きだって、ありがとうって。でも言えなかった。あの時しか言えなかったのに。
三日くらい経って、夜の終業時刻を前に、お局があたしを呼びに来た。とても笑顔で、『トキトオさん、ちょっと』って。あたしは心臓が馬鹿みたいにドキドキして、でもちゃんと返事をしないと怒鳴られるから、きちんとハイって大きく返事をして、内心震えながらお局の後ろを付いて行った。お局は鼻歌を小さく口ずさみながら楽しそうにあの男を封鎖してるフロアーの入り口前まで行って、あたしに向き直った。男の部屋や、かつて相部屋があった部屋に通じる廊下は、新たに設置された観音開きの分厚い鉄扉で塞がれていた。お局は一人で以前の事務所を離れて、その鉄扉の前に机とラックを置いて、自分専用の簡易事務所みたいにしていたのよ。何人たりとも、お局の許可なく勝手にそこを通れないように。関所よ、お局関所。
『男のシーツを交換してきなさい』
って、お局が交換用シーツと枕カバーを無造作にあたしに放った。あの一件以来、男の世話をする勤務表をお局が組んでたんだけど、あたしは一度も組み込まれた事がなかったから、かれこれ一ヶ月以上男と関わりがなかった。あたしは意味も分からずシーツとカバーを受け取ると、お局が重たそうな扉を押し開けて、顎だけであたしをその先へと促した。質問なんか出来る訳なかった。正直に言うと、目も合わせられなかった。だって、お局があたしのそばに存在するだけで、手足が震えちゃうくらい徹底的にやられてたから。あたしは一人で中に入れられて、後ろで扉が閉まる重たい音を心細く聞いた。
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