10. あたし達は友達ではなかった
「京都の療養所でね、働いていたの。高校、看護学校を卒業して、看護師として。こう見えて、部活も勉強も頑張ってたから滞りなく進学も就職もできた。高校の部活はバドミントン。体育会系。見えないでしょ」
見えないですね、と僕は相槌をうった。
「高校は楽しかった。部活して、勉強して、友達と遊んで。京都の高校でね、私立の共学だったから、大体同じような家庭環境の友達が出来るの。絵に描いたようなそこそこの人たちが集まって、ソコソコな青春を送る。友達も結構いたのよ、あたしにも。わりとモテたしね」
「高校生の頃から、眼鏡も掛けていたんですか?」
「眼鏡?」
とトキトオさんが不思議そうに聞き返した。
「これの事?」
トキトオさんが細い眼鏡のフレームに細い指を三本添えた。
「どうだったかな。高校生の頃は頑張って使い捨てコンタクトだった気がする、運動する時は眼鏡が邪魔だから」
「トキトオさんの眼鏡はすごい似合ってますよ」
僕が褒めると、
「なに? いきなりどうしたの?」
トキトオさんが眉を軽くひそめて言った。
「たくさん褒められたいって言ってましたよね?」
と僕が慌てて言い返すと、
「ええ、まあそうね、うん」
と自分自身を納得させるように頷きながら言った。意外と褒められ慣れていないのだ。
「進路はほとんど迷いなしに看護学校へ進んだの。実家から電車で通えるから。先生は『大学へ行った方がいい。将来の選択肢が全然変わってくるよ』って言ってくれたんだけど、あたしは最初から決めてた。看護学校へ行って、資格をきちっと取って経験を積んで、ちょっと上の看護士になる。大学へ行って四年間を学びたくもない勉強を無理やりして、三年後にみんなと同じリクルートスーツを着て就活をして……って、とても想像が出来なかった。そういうレールが敷かれているのは分かっていたけど、自分自身から、わざわざそういう競争みたいなものに巻き込まれに行くっていうのが、どうも気が進まなかったの。両親も賛成してくれた。『女は大学なんか行かなくていい。早めに社会を知って、いい男と結婚して、子供を産んで』って、話してると吐き……リバースしそう。成績優秀な弟がいるから、あたしには。まあそれで、両親も放任してくれてたんだろうけど」
トキトオさんはあまり弟の話はしたくなさそうだった。運ばれてきたチョコレートサンデーには全く手を付けておらず、当初先端が刺さるように尖ったソフトクリームも、戦意を失った革命軍の少年の背中みたいに徐々に丸みを帯び始めていた。
「あたしが働いていた療養所って言うのは、いわゆる病院とはちょっと違うの。病院で治療を受けた後の経過を見るところ。それも、精神病院の付属療養所でね、都会で働いておかしくなってしまった人だとか、家庭の事情でおかしくなっちゃった人だとか、訳アリの人達がたくさん生活していたの。京都の端の方、ド田舎駅からバスに30分くらい乗って、さらに徒歩20分。隔離って言われてもおかしくない山沿いの緑深い場所に、綺麗な白い二階建ての学校みたいな建物があって、従業員の木造の寮も離れて併設されてた。あたしは看護学校を卒業してから、そこでほとんど住み込みで働いていた」
「寂しくなかったんですか?」
トキトオさんは少し首を傾げて考えてから言った。
「寂しくはなかったかな。地元の友達はほとんど大学へ進学してたから、何となく疎遠になっちゃって。たまに会ったりはしてた。食事やら合コンの数合わせやら。でもね、やっぱり違ってくるの。生活環境の違い。大学と看護学校の違い。話題も違ってくるし、そういう意味では寂しかったけど、友達と会えなくなって寂しい気持ちになるって事は予想よりも全然無かった。もともと一人でいるのに抵抗がないタイプだったのかも知れない。看護学校は本当にギュウギュウにカリキュラムが組まれていて、友達と遊ぶ暇もなかった。卒業して着任した当初は寂しいと思う暇もないくらい、本当に忙殺された。寮にはたくさん同僚もいたしね」
トキトオさんは続けた。
「同僚は全員女性でね、あたしはみんなから敬遠されてたお局さんと親しくなれたの。六十代の気難しいおばあちゃんがずっとその療養所に勤めてて、何もかもを知り尽くしてた。亡くなった患者さんの親族がたまに来て、挨拶をして行って、昔話もしていく……みたいな。うん。たまに亡くなる方もいるのよ、ほとんど老衰か、たまに自殺に近い形なんだけどね。近くに林もあるし、膝丈の草が群生してる広ーい野原もあったりして、一度誰かが行方不明になると、捜索は大変だった。原っぱってさ、横になったり伏せたりしちゃうと全く姿が見当たらなくなっちゃうのよ。見つかってない井戸があるんじゃないかって噂もあったわ。草を掻き分けて歩いてて、うっかりそこに落ちちゃうと、もう一生見つからない」
「小説の世界だ」
「そう。残念ながら、お局さんはギターはからっきしだったけどね」
トキトオさんは久しぶりに笑顔を見せて、すっかり自信喪失している気の毒なサンデーに長いスプーンを差し入れて、一口食べた。
「おいしい!」
僕は温いビールに口を付けながら話の続きを待った。もうビールは飲みたくなかったが、手持ち無沙汰だったのだ。トキトオさんはとても美味しそうにチョコレート・サンデーを食べた。美味しい美味しい、と小さい声で時々呟きながら食べ終わると、トキトオさんは待ち切れないと言った風に煙草が入ったポーチを引っ張り出してきて、パーラメントを一本取り出すと形の良い唇に挟み、目を伏せてシルバーの細いライターで火を点けた。綺麗な人だ、と僕は改めて思った。
「お局さんと上手くやれるようになるとね、自然と同僚もあたしに一目置いてくれるようになるの。仕事の上でわからないことや、シフトの件なんかで相談したい事とか、『ねぇ、これお局さんに聞いてくれる?』とかさ、みんなが避けたがるお局さんとの接触をあたしがやるようになった。彼女達にとってあたしは、重要人物だった。もし私の機嫌を損ねたりすると、何を聞かれても『お局さんに直接聞いて下さい』ってニッコリ笑えばもうおしまい。本人がお局様にご機嫌をお伺いして、色々とやってはみるものの、大抵酷い結果に終わる。最初は上手くいきそうなのよ? でも、お局さんとの作業は途中からだんだんとおかしくなっていくの。流れてる音楽の伴奏が少しずつ狂い始めるみたいに。それで、最終的には『
「仕事の事はちょっとわかりませんね」
と僕は正直に答えた。仕事は効率の良いやり方をみんなで共有し、目標を定めて完遂すべきものなのではないかと僕は思った。たった一個人の気持ちや気分を最大限に尊重する事が、最も効率よく仕事を終わらせる方法であるとは考えた事がなかった。まるでオマケで仕事の成功が付いてくるみたいだ。戦争の話はいささか大きくなり過ぎではあるが、言いたい事は分からなくもなかった。
「まあいいわ」
とトキトオさんは死んだ魚みたいな顔をして口と鼻から煙をドロンと出して言った。もしかして目からも出ていたかも知れない。これだから馬鹿大学生は、と思ってるのだろう。でも適当に理解した振りをして聞き流すには、この先の夜は長すぎるのだ。
「お局さんも寂しい気持ちでいた。そんな風に、みんなに避けられるような自分になってしまった事を悔やんでいた。彼女も彼女なりに、自分でもどうしょうもないって悩んでいたの。すぐにカチンときて、大声を出してしまうとか、そういう自分を改めたいって思ってたみたいなの。でも、ちょっと性格っていうか、脳の病気の一種かも知れないんだけど、お局さんは
「社会に出るのが怖くなりますね」
僕は正直に感想を言った。
「全ては運だよ、ヒガシダ君」
とトキトオさんが言った。
「病気の人は、通勤じゃなくて通院すべき。これは社会の根幹を為すべき基本的な事よ」
「大変、とても、すごく正しい」
僕は力強く同調した。
「そうでしょ。そのお局さんが働く場所が奇しくも精神病院付属の療養所だったって言うのがポイントなのよ。本来患者であってもおかしくない人が、看護師のベテランとして働いている。世界は正常にオカシイ。笑える」
トキトオさんがポテトにフォークを突き刺し、勢いよく口に運んだ。すぐにちょっと顔を顰め、お冷を一口飲んだ。
「全然笑えませんね」
僕はやや落ち込んで言った。
「もちろん僕が馬鹿大学生というのもあるんですけど」
トキトオさんは氷をガリガリと噛み砕いた。とても良い音がする。何? というあどけない表情で僕を見た。ちょっと言い難いな、と僕は思ったが、言う事にした。正常にオカシイ世界の夜は長いのだ。
「誰かがお局さんに『ちょっと病院へ行った方がいいんじゃないですか』って言ってあげた方が良かったんじゃないですか? だって、お局さんだって自分でも制御できないって分かってたんですよね? それで何人も離職する有様じゃ、働く人達も堪ったもんじゃないと思うんですけど。どう考えても根源を絶った方が話は早い」
トキトオさんはポリポリと氷を噛んで、しばらく僕の斜め下を眺めて何を言うべきか、考え込んでいるようだった。
「ヒガシダ君はいつもあたしを高校時代に連れ戻すのね」
言う事がまとまったのか、トキトオさんは僕の目を見て少し微笑んだ。
「あたし達は友達ではなかった」
トキトオさんが言った。
「職場の同僚。ただそこにいる人間。一緒に協力すればお互いが楽できるヒト。お局はそれ以外の何者でもなかった。興味が無かったの。人として。好きでも嫌いでもなかった。ただ、あたしは不快な思いがしたくなかった。その為だったら、お局さんが指示する『どう考えても不必要で前時代的で思考放棄による形骸化したおまじないに近い作業』も馬鹿真面目にやってやったし、その事で同僚たちに時々呆れられたりもした。『あんたね、そんなの適当にやればいいのよ』って。例えば、『気温と湿度をバカ真面目にノートに記録してどうするのよ。五ヶ所もあるのよ、時間の無駄でしょ。もうずっと前から自動でパソコンに記録されてるのよ』って。多分、冷たい目で見られもした。でもそんなのは気にしなかった。むしろそういう物こそ一つずつ確実に忘れる事なくこなしていった。何故かっていうと、本当に、お局の怒鳴り声はあたしをどん底まで不快にさせたから。そんな思いをするのは金輪際、一切御免被りたかったのよ。それに比べれば、お局の機嫌をとって他人に笑われるくらい、屁でもなかった」
トキトオさんが消しそびれた細い煙を出す煙草を入念に揉み潰した。
「その結果として、お局さんはあたしを大切に思ってくれるようになったの。自分のこだわりポイントを抜かりなくやり遂げるあたしは良い人に思えたんでしょうね。ある種、あたしを同志のように勝手に思い込んでくれた」
僕は黙っていた。
「ヒガシダ君が言いたい事はわかるのよ」
トキトオさんが悪戯が見つかった猫のような目をして、バツが悪そうに続けた。
「知っておいて欲しいんだけど、生きていく上で誰かの真剣な忠告を受けられる時期って、とてもとても限られているの。小さい頃の箸の持ち方を矯正されるみたいに、悪い癖を注意される事が人生で何度あるかはわからないけど、もう五十代を過ぎた人達の人生は、その人達によってとうの昔に離陸してしまっていて、高い上空で速度を上げてしまっているから、もう誰の声も届かない。その針路を変更する事ができない」
僕は理解出来たような気がした。本当に馬鹿大学生みたいな事を言ってしまった自分を恥じた。
「そりゃね、時々はいるのよ。親切なアドバイスをしてくれる人が。たしなめたり、礼儀を弁えた指摘をする人が。でも、そういう人に限って、そういう親切で優しいアドバイスをしてくれる人って、大抵揚げ足を取られて馬鹿にされたり、不当な扱いを受けてすぐにその場から居なくなっちゃうのよ。そして、去った人の事を思う人なんて、誰も居ない。退場、じゃあ次って。そんなのあんまりじゃない。あたしだって言ってやりたかったわよ」
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