9.殺意について、あるいは

 トキトオさんは笑い上戸だった。


 まず我々は、七月にしては珍しい、心地よい気温と湿度の池袋に出て、サンシャイン通りの一個外れを歩いた。そして目に付いた感じの良い洋食ダイニングバーに入って、木目の大きなカウンターに横並びに腰を掛けて酒を注文した。知らない誰かが気怠そうに英語で歌っているMy Little LoverのHello,againがちょうど良い音量で流れていて、空調はやや効きすぎていたが客は少なく、まずまずの雰囲気だった。僕は黒ビールを頼み、トキトオさんはカシスウーロンを頼んだ。食べ物はトキトオさんがサラダと魚を中心に選び、焼き具合を細かく指定して注文した。僕は一通り注文が終わった後、生ハムとチーズの盛り合わせも追加した。手っ取り早く何かを胃に放り込みたかったのだ。

 トキトオさんはリラックスして本当に気持ち良さそうに喋ったし、これから始まる誰にも手を付けられていない夜の予感を心から楽しんでいるようだった。知り合いの結婚式の二次会に行かなくて済んだのも、そのはしゃぎ様に一役買っているように思えた。

「あたしはね、別に彼女の友達でも何でもないの。同僚だった人。向こうがどう思ってるか知らないし、知りたくもないけど」

 とトキトオさんは言った。

「悪口を言おうと思えばいくらでも言えるわ。彼女の事も、その旦那になる人の事もね。でも、あたしはそういうのはしない。そんなの惨めになるだけだし、言った後に気分が悪くなるだけよ。ゲロ吐いた後に濯がずに喋り続けるようなものね。周囲に迷惑を掛けるだけ」

 職場でのトキトオさんとのあまりの落差に、僕は呆れにも似たものを感じていた。職場のトキトオさんが「ゲロ」って言うか? 言わない。吐瀉物。まあ、どっちでもいい。呼称を変えたところで、それが高貴な何かマーブル・シットに昇華する訳でもないのだ。


 上記を除けば、トキトオさんが喋る内容は本当にどうでも良い事だった。目にとまる全ての物事から自分が思うこと、自分が感じていることを喋りまくった。僕はふうん、とか、へえ、とか、そういう相槌を打つだけで良かった。アイスクリームのメニューを見ながら、31アイスクリームで一番美味しいのはバニラ味である可能性が高い(しかし食べた事は無い)という事や、自宅でサラダを調理中にレタスから出現した生きている青虫がいかに美しかったかを語り、殺す気にもなれずよけて置いたものの、気が付いたら行方不明になってしまっていた事など(ねえ、青虫はどこへ行ったのだと思う?)を話した。そして、飲み物のお代わりを注文する時は、ほろ酔いの口調で僕に「あたしが次に何を注文するか当てなさい」と命令した。

「コカ・コーラゼロのコーラ割」

 と僕が言うと、

「それすごく面白い」

 と涙を浮かべながらトキトオさんは深く咳き込む勢いで笑った。

「すいません、カシスウーロンください」

 トキトオさんが笑いながらお代わりを注文した。

「ヒガシダ君、ダメよそんな面白い事を言ったら。あたし明日二日酔いと腹筋でずっと寝込んじゃう」

「面白い事を言うのは昔から得意なんだ」

 と僕がチーズを摘みながら真顔で言うと、トキトオさんは真顔に戻って背筋を伸ばし改まった。そしてしばらく沈黙すると、

「コカ・コーラゼロのコーラ割」

 と僕の口調を真似して言い、それから吹き出すように笑った。

!」

 僕はちょっとイラっとしたけど、トキトオさんが笑うに任せておいた。

「笑いたければいくらでも笑えばいいよ」

「笑いたければいく……プフーッ!!」

 カウンターにうつ伏せてテーブルの下で足をバタバタさせながら、クックックとトキトオさんは笑い続けた。完璧な笑い上戸だ。まあいいや、と思いながら僕は黒ビールをチビチビと啜った。トキトオさんがそんなに楽しげにしているのだったら、それで良いのだ。どうせ僕は、母親から病院代として預かった十万円からここの飲み代を支払うのだ。考えれば考えるほど、僕はなじられて当然の男なのだ。

 魚は注文通りに焼き上がった。


 二軒目は少し歩いた所にある地下のシェーキーズへ行った。トキトオさんがどうしてもピザを食べたいと譲らなかったのだ。

「ピザならここでも食べられる」

 僕は一軒目のダイニングでトキトオさんを説得した。

「シェーキーズは馬鹿大学生が安く食べて飲むお店になってるから、きっとトキトオさんはガッカリしてしまうと思う。僕もウェイウェイ騒ぐ馬鹿学生の隣で冷めたピザなんて食べたくない」

「馬鹿大学生、いいじゃない」

 とトキトオさんがわざとらしくウットリした声で言った。

「ウェイウェイ言わないと死んじゃうんでしょ、彼らは」

「そうかもね」

 と僕は言った。

「じゃあ仕方ないじゃない」

 僕はニコニコしているトキトオさんの顔を見て、ため息をついた。トキトオさんがシェーキーズに行きたい時、それは行かなければならないのだ。馬鹿大学生の巣窟であろうと、なかろうと。


 予想に反して、シェーキーズは空いていた。僕が大人二人分の食べ放題をレジで先払いしている間、トキトオさんは鼻歌を歌いながら奥の席を陣取り、大きく手を振って僕にアピールした。よく見たら破れたストッキングから盛大に素足を露出しており、目立った。あまり長居はしない方が良さそうだな、と僕は思った。終電を逃す訳にはいかない。


「こういう雰囲気、久しぶりだわ」

 トキトオさんが僕が適当に持ってきたポテトを大きく一口で食べて言った。なるべく温かそうなピザを選んだつもりだけれど、どれもあまり美味しそうには見えなかった。ブッフェ形式の店では、客が少ないとピザの回転も遅くなるのだ。ビールとハイボールが安っぽい大きなプラスチックのコップで運ばれてきて、僕とトキトオさんは改めて乾杯した。

「破れたストッキングに」

「セクシーキュートナースのあたしに」


 トキトオさんは一口飲んでコップを置くと、待ってましたとばかりに両手を合わせて擦り、トロリとしたチーズをこぼさないように上を向きながらピザを一口食べた。僕は向かいの席でトキトオさんの上下に動く細く白い喉に思わず見入ってしまった。

「すごく美味しそうに見えるのに、いざ食べると……うーん、頭が混乱する」

「僕たちも結構お腹いっぱいですからね。ピザは満腹時に食べるものではないんです。空腹に勝る調味料なし」

 トキトオさんがつまらなさそうに一口だけ食べたピザを皿に置いてハイボールを啜った。

「だから言ったんです」

「でもあたしはご機嫌ですよ」

 タオルティッシュで手を拭い、頬杖をついて、心地好さそうにトキトオさんが微笑んで言った。

「人助けをした後のピザは格別だから」

「それなら良かった」

 僕は異様に味が濃いシェーキーズのパスタを苦労して食べながら適当に相槌を打った。ビールがすすむ。僕は大学生として正しい食事をしている、という意味不明の自信をもった。


「あたしが貸した小説、よく読んでるよね」

 僕はトキトオさんから本を数冊借りて読んでいた。トキトオさんは既に読み終えたものだから返さなくて良い、と言ってくれていたが、僕は出来るだけ読み終えたらすぐに返すようにしていた。トキトオさんはその際に感想を聞いてこなかったので、僕は安心して次の小説を借りる事ができた。トキトオさんが適当に見繕って、屋上まで本を持ってきてくれるのだ。


「あんまり本は読まなかったけど、とにかく暇なのでありがたいです。意外と面白い」

「今日のあのメルヘン駅員の喋り方、小説に出てくる博士の話し方に似てなかった?」

「似てました。あの無責任博士の喋り方に似てるって、僕も思っていました」

 くくく、と我々は思わず俯いて、秘密を共有するみたいに小さく笑った。それから、僕は生まれて初めて、小説の話をトキトオさんとした。子供の頃から、友達と漫画やドラマや映画の感想を言い合ったりした事は無くもなかったが、小説の話を人としたのは初めてだった。それは少しだけ不思議な体験だった。僕はトキトオさんと一緒に行った事もない、見た事も無い事柄を、まるで同時に体験してきたかのように詳細に話すことが出来た。記憶が曖昧なところはどちらかによって補完され、意味がわからない点は僕かトキトオさんによって考察され、そのいずれかが暫定的に採用されたり、されなかったりした。

「何故マセラティじゃなきゃいけなかったのかしら?」

「海に沈ませたかったんじゃないかな、筆者が」

「イタリアに何か恨みでもあったのかしら」

「フィアットに乗って、故障の多さにぶちキレたとかね」

「すごい個人的で婉曲な怨恨」

 ふふふ、とトキトオさんが笑った。

「そういうところが良いのよね」


 トキトオさんが自分の過去について語り出したのは、三軒目か四軒目のお店を経て、ようやくたどり着いたファミリーレストランだった。僕たちはもう滅茶苦茶酔っていた。途中でほとんどゲームとして成立していないビリヤードを挟んだおかげで終電をとっくに逃していて、我々は電車の始発まで嫌でも時間を潰さなければならなくなった。それからトキトオさんのテンションもだいぶ落ち着き、甘いのが食べたいと言ったのでネットで検索し、終日営業のファミリーレストランに入ったのだ。


「あたしの顔が怖いって言ってたわよね」

 トキトオさんが大きな衝立兼ソファーの背もたれに身体を預け、やってきた濃いめのコーヒーに一口だけ口を付けて静かに言った。この後、チョコレートサンデーとポテトフライとビール(僕が飲むものだ)がやってくる筈だった。

「ええ、まぁ」

 と僕は言った。

「酷いこと言うよね本当に。結構傷付いたんだからね」

 すいません、と僕は謝った。そこで「普段のトキトオさんと、病院のトキトオさんって全然違うんですね」と僕は喉元まで出掛かったが、辛うじて口には出さなかった。それを口にしてしまえば、急に距離が遠くなりそうな気がしたからだ。職場とプライベートの落差が大きくて何が悪い? 罪のないビールとポテトを摘みながら、始発を待とう、と僕は思った。

 トキトオさんは髪の毛を無造作にくしゃくしゃにしながら、

「あたしの過去の話を聞きたい?」

 と少し微笑みながら言った。もちろん、時間はたっぷりとあった。

「大体、殺意の話になると思うんだけど」

「殺意」

 と僕は言った。

「そう、殺意」

 彼女はポテトフライをつまんで、無造作に口に放り込んだ。

「ぜひ、聞きたいですね」

 と僕は言った。

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