8. メルヘン駅員
駅長室の低いボロボロなソファーに腰を掛け、使い込まれて四隅が変色し始めているガラスのテーブルの上で、分厚い古いノートに名前と住所と電話番号を書いた。ノートに紐付けされた備え付けのボールペンは忌々しい程にインクの出が悪かった。インクが減っている訳でもない。ただ単にインクの出が悪いのだ。書き始めがどうしても掠れてしまって、何度か余白にペンを走らせなければならなかった。イライラしていると、テーブルの上に置かれたプラスチックの茶のみに大きな急須から茶が注がれ、暖かそうな湯気を立てた。だが湯飲みには宿命的な茶渋がこびりついており、僕は例え死んで生まれ変わったとしても、絶対どこかの駅長室にある湯のみにこびりついた茶渋にだけはなりたくないと思った。
「いや、あんなに手際のいい応急処置は初めて見ましたですよ。私など、全くお呼びじゃなかった」
と初老の体格の良い駅員が扇子で扇ぎながら感心の声を上げた。
「ええ、まぁ」
トキトオさんはいつもの暗黒の目付きを取り戻しながら、のらりくらりと悪気のない駅員の遠回しの詮索を避けた。どこで働いているのか、とか、僕とトキトオさんは週に何回セックスをしているのか、とか、そういう事を聞きたそうな雰囲気があった。やってないぞ、と僕は言いたかったが、駅員の興味は僕ではなく、ほぼ全てがトキトオさんに向けられていた。
「きっと訓練などされておるのでしょうな。いや、全く無駄のない動きで感心しましたですよ。膝は大丈夫ですかな。よかったらカットバンと消毒液使ってください。確かここら辺に……」
「お気遣いなく」
トキトオさんはそう言うと、ノートの僕の下の段に住所と電話番号を記入した。大きく自信に満ちた綺麗な文字だった。足立区のアパートかマンションに住んでいるようだった。やはり何度もノートのスペースにボールペンを走らせ、インクの出の悪さにイライラしている様子が感じられた。
「時々倒れてしまう方がおるのですよ。ご存知の通り、池袋のラッシュは都内でも特別ですからね。人と人がごっちゃになって、落し物もすごく多いですし、やはりああして倒れてしまう方もとても多いです」
「落し物は多そうですよね」
僕は何とは無しに話を合わせた。
「百万円の束が数束落ちてた事もあるです。それと季節によっては受験票。預金通帳。お骨。お骨ってそうです、あの納骨するやつですね。ええ。駅に落として良いものと悪いものがあるですよ、ホントに。中でも、人の骨とかは一番落としたらいけないヤツです。いや、もしかしたら大型犬の骨だったかも知れんですけどね」
えふ、えふ、えふ、と駅員は変な笑い方をした。書き終えたトキトオさんが、また僕が見た事がない顔をしてそっとペンを置いた。それがトキトオさんなりの精一杯の愛想笑いである事に僕が気付くまで、ほんの少し時間を要した。
「これはどうもありがとうです。あの高校生がどうなったか、あなた方も心配でしょうし、もし本人に了承が取れたらこちらからまた電話するです。あいや、もし高校生本人が電話したいっていうなら、彼女にあなた方の電話番号を教えてもよろしいでしょうかね?」
僕は、別に構わない好きにして良いと言った。トキトオさんもそれで大丈夫です、と言った。
「それではこちらの紙にも、お名前と署名をお願いしてよろしいでしょうかね」
駅員は手元のバインダーからA4の紙を二枚取り出すと、僕たちの前に置いた。「個人情報開示同意書」という大きめのフォントの下に、箇条書きで細かくぎっしりと字が書かれていた。
「あ、いや、個人情報の開示にも今は本人の同意がなきゃいけなくてですな。いや本当に不都合ばかりこの世の中増えていくです。私が若かった頃なんか、電話番号も住所もいくらでも開示してた。そこら辺に忘れ物をした人の住所とか、個人の電話番号とか、ポーン置いてありましたわい。そんなん、よっぽど有名人じゃなきゃ、電話番号なんて単なる電話番号でしたよ。それが今や、記録したものを無くした瞬間、誰かの首がポーンって飛んじゃうくらい大ごとですわ。いや本当に、一般人の個人情報なんて、どんだけの価値があるんですかって私は言いたい。そりゃね、個人情報を保護しろっちゅーならしますよ。お上が言う事にいちいち逆らったりしません。でもね、我々みたいに毎日毎日人がブワァーって、電車で乗り降りしてる様を見ているとね、一人ひとりが人生を歩んでいるってのは分かるんだけども、その人がどこに住んでいるか何て、実に些細な事であるようにしか思えないんですわ。何だったら、電車一両毎に乗ってる満員の人達。あの人達がひと塊りに見る事の方が自然なんです。一人ひとりじゃなくて、ひとかたまり。何でかって言っても難しいんですがね、やっぱりみんな同じ顔をしておるんです。出勤する人達って。帰宅する時はバラバラですよ。はい、みんな違う。きっとガラクタ寸前まで働かされる人と、ズルして手を抜いている人と疲れ方が違うんでしょうね。でも朝は同じ。何となくね、彼らはみんな同じ夢を見ていたような顔をしておるんです。電車の中で揺られてる間にね、一人ひとりは全然違うことを考えたり、やったりしてると思うんですけど、わたしには、彼らは同じ夢を見て、ようやく覚めた人のようにね、電車から降りてくるように見えるんですよ」
「それは車両毎に違う夢なんでしょうか?」
僕はふと思い付いた疑問を口にした。
「違う夢?」
まさか質問をされるとは思っていないようだった駅員がキョトンとした顔をして僕を見た。
「例えば、二号車はNHKで、三号車は日テレみたいに」
それでようやく駅員も僕が何を言いたいか分かったように、1オクターブ上げたさらに妙なエフッエフッと笑い声を上げた。
「それは面白い考え方ですな。二号車は1チャンネル、三号車は12チャンネルの夢。そういう所までは考えた事がなかったです。でもまあ、そういう事はあるかも知れんですな。車両毎の区切りで夢の内容は変わっておるかも知れんです」
トキトオさんが墨汁を五時間ほど丹念に煮詰めたかのような暗黒の視線で僕を射抜いた。分かっている。僕は余計な事を言ったのだ。
「あ、もう12チャンネルは無いですな。テレビ東京、7チャンネル。あれは面白い番組局です。うちの者は子供が出払ってからずっとテレビを観てるんですが、何しろテレビ東京の……ってこういう話は女性や若い方々には無用ですな。お引き止めしてすいませんです。とにかく私が言いたかったのは、みんな同じ顔をしている、という事だけなんです。朝の出勤ラッシュでは特に」
▪️
「メルヘン駅員」
「シッ、聞こえる」
僕は後ろを振り向いて、見送りの為にわざわざ出てきた駅員達に頭を下げながらトキトオさんに言った。ようやく我々は解放されたのだ。我々は肩を並べ、特に目的もないまま東口へ向かってゆっくりと歩いて行った。時計は間もなく夜の七時を回るところだった。大勢の人達が駅の構内を足早に行き交っていた。
「何なのよあの駅員。ソファ低いし深いから、座ってる間中あたしのパンツ見えちゃうんじゃないかってヒヤヒヤしたわ。話も脱線し過ぎでしょ。全員が見る同じ夢ってなんなのよ。馬鹿なの? 朝ドラなの? 大河ドラマなの?」
「話なんかいくらでも逸れていいんだ。本物の電車が脱線しなければさ。それが彼らの仕事なんだ。電車を脱線させない事、時刻通りの運行ペースを守る事、酔っ払い同士の喧嘩を仲裁する事、痴漢の冤罪を見分ける事」
「ゲロの掃除する事」
「飛び込み自殺をした男性の左手首をちゃんと探し当てる事」
「電車のドアからおしくらまんじゅうで乗客をギュウギュウの詰め放題の野菜みたいに詰め込む事」
「線路に落とした女の子の帽子をマジックハンドで拾ってあげる事」
僕は子供の頃に見た駅の柱に掲げてある、「線路に物を落とした方は駅員まで」という文章が書かれたプレートと、そこに添えられた簡易イラストを思い出しながら言った。そのイラストは黒のパーツだけで構成された影絵のようなもので、顔の表情は窺い知れず、どことなく不吉な印象を見る者に抱かせた。果たして二人の関係は本当に駅員・少女というだけのものなのだろうか? 拾う事に夢中になり過ぎた駅員の尻を、少女が蹴り飛ばして線路に突き落としてしまう可能性も無くは無いのではないか?
いずれにせよ、駅員の仕事はハードなものなのだろう。できれば彼等だって、客を無理やり電車に押し込めたり、泣き叫ぶ女子高校生に怒号を浴びせるサラリーマンを宥めたりなんかしたくは無いはずだ。トキトオさんは、ふぅむ、としばらく息を吐いて考えている様子だった。他に言い足りない駅にまつわる悪口を考えているのだろう。言いたければ言いたいだけ言ってしまえば良いのだ。溜めておくとろくな事にならない。だが、トキトオさんはもう、駅員に対して言うべき悪口は全て言い切ってしまったようだった。あるいは興味が失せたのかも知れない。
「ねえ、ちょっと今日あたし良い事したわよね」
トキトオさんがスッキリした顔を僕に向けて明るく言った。やはり、悪口は出せる時に全部吐き出させておくに限るのだ。
「間違いなくトキトオさんは良い事をしました。女子高校生が倒れた所に颯爽と駆け付け、心臓マッサージをし、僕にAEDを持って来させて駅員さんが言う『文句の付けようがない見事な』救急処置を施しました」
僕は棒読みのように言った。
それでもトキトオさんはウンウンと嬉しそうに頷いた。
「じゃあこれから呑みに行こうよ」
「え?」
「ヒガシダ君の奢りで」
僕は一瞬考えた。咄嗟に返事が出来なかったのだ。
「なに? これから予定あるの?」
「特には無いですけど……」
僕には本当に予定がなかった。家電量販店へ行ってから、適当に晩御飯を買って家で食べて寝るつもりだったのだ。
「じゃあいいじゃない。あたしはすごく良い事をしました。だから、すごく褒められたいの。『偉いことをしたね、頑張ったね、さすがトキトオさんだね』って褒められたいの。誰かのお金で飲み食いしながら。それって、高望みし過ぎかしら? だって、私は人の大切な命を救ったのよ? 地球を一つ救ったのと、ほとんど一緒なのよ?」
勢いよく、目をキラキラと輝かせながらトキトオさんが僕に詰め寄った。僕はそういう元気なトキトオさんを見た事がなかったので、気圧されてマジマジとその顔を見た。彼女はとても嬉しそうだったし、控えめに言って綺麗だった。汗はすっかり引いて、化粧を整えた後だったからかも知れない。久しぶりに事務仕事以外の、看護婦らしい仕事を図らずしもした事で、彼女の奥底にある何かが露見したかのように思えた。僕はバッグの底に眠っている母親から渡されたままの十万円が入った封筒を思い出した。どうせ父親の治療費はカードで支払うのだ。ポイントを付けるために。多少使ったところで、問題はないだろう。
「そうですね」
と僕は応えた。
「じゃあ、今日はたくさん飲みましょう」
「そういうノリ好きよ」
トキトオさんが嬉しそうに言った。
「安心しなさい、取って食やしないから」
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