7. AEDはオレンジ

 トキトオさんが不良看護婦ではない事は、意外と早く判明した。


 その日、夕方の私鉄の池袋駅ホームを歩いていると、大勢の人だかりが出来ていた。帰宅ラッシュの始まり掛けの時間帯で改札から入場する人達と、出て行く人たちの対流が起こる人通りの多い広い場所で、まるで流れる川の中洲のように何名かが立ち止まって、その真ん中で倒れている人を取り囲んでいた。僕は提出するレポートを印刷する為のインクプリンター・カートリッジを買いに改札に向かっている時に気が付いて、貧血の人でも居たのだろうと思ってそのまま通り過ぎようとした。


「大丈夫ですか? 大丈夫ですか?」


 聞き覚えのある大きな声が聞こえたので人混みの間から覗いてみると、トキトオさんが跪いて、倒れている女子高校生の肩を揺すって声を掛けていた。トキトオさんは髪をしっかりと結い上げてうなじを露わにしており、黒いシックなワンピースと高いハイヒールを身に付けていて、結婚式に出席する途中であるといった雰囲気があった。倒れている女子高校生は眠っているように無表情で蒼白だった。昨今あまり見掛けない、絵に描いたようなセーラー服を着ていた。トキトオさんは自分の左手首の内側にしている華奢な腕時計を見ながら、


「だれか、救急車を呼んでください! AEDを持ってきてください!」


 と、どことなく事務的な大きな声を上げた。

 周囲の人達はオロオロとあたりを見回したり、顔を伏せて通り過ぎて行ったり、携帯電話を向けて撮影をしたりするだけで、協力的な人は見当たらなかった。


「誰か早く持ってきてください!」

「トキトオさん、大丈夫ですか?」


 僕は思わず人混みをかき分け、女子高生を挟んで反対側に跪いて話しかけた。トキトオさんは厳しい目付きでチラッと僕の顔を見て、女子高校生の顔の前に手のひらをかざしながら冷静に言った。


「ヒガシダ君、AEDが駅長室の入り口にあるから、ここへ持ってきて。駅員さんにも救急隊を呼ぶように言って」

「分かりました」


 人混みから抜け出て駅長室に向かう後ろから、大きな声で

「17時38分、心臓マッサージ開始します。イチ、ニ、サン、シイ、ゴオ……」

 というトキトオさんの声が聞こえた。誰か知らない人に撮影されている事を理解しながら、それに腹を立てるでもなく記録に残そうという意図が感じられた。冷静だ。


 駅員に報告し、オレンジ色のバッグに収められたAED装置を携えて走って引き返すと、人だかりはさらに大きくなっていた。トキトオさんの事務的な数を数える声は大きく、一定の間隔をキープしていた。


「持ってきました」


 トキトオさんは汗を滴らせてマッサージを続けながら、ありがとうと言った。


「装置出して」

「僕使ったことありません」

「心臓マッサージとどっちがいい?」

 一心不乱に胸部を圧迫しているが、トキトオさんの言葉遣いは冷静だった。

「……装置だします」

「最近のは音声で指示するから大丈夫。早く出して」


 トキトオさんは数を数え続け、その間に僕は装置をバッグから出して剥き出しにした。トキトオさんの言う通り音声ガイダンスが始まって、それに従えば良いだけだった。だが高校生は制服を着ており、所定の二箇所の場所に装着することは不可能だった。右肩と左脇腹に、肌に直で貼らなければならないのだ。


「女性です! 配慮をお願いします! 外を向いて壁を作ってください!」

 トキトオさんが大きな声を上げた。

「ハサミ」

 トキトオさんは髪が解け、振り乱しながらマッサージを継続しつつ、息を切らして僕に指示を出した。

「ハサミがそこのポケットにあるからそれで制服切って」

「でも……」

「じゃあハサミだして!」

 初めてトキトオさんが声を荒らげた。

 僕は慌ててAEDが収められている隣のポケットから大振りのハサミを取り出して、握りの部分を前にして差し出した。


「私たちに背を向けて壁を作ってくださいお願いします!」

 トキトオさんがもう一度大声を上げた。


 大勢が我々を囲んで外を向いて壁を作ったが、一人だけ相変わらず携帯のカメラを向けている若者がいた。


「撮影やめろ!」


 トキトオさんがさらに大声を出した。その声に気圧されて反対側を向いた事を確認すると、トキトオさんは僕の手元からハサミをひったくるように奪い、女子高校生の腹の部分から躊躇なくセーラー服とアンダーシャツを縦に切り裂いて、ベージュのブラジャーを露わにさせた。真剣な顔をして肩のワイヤー部分を一瞬触って確かめたが、すぐにカットし、右の乳房の上部を露わにした。トキトオさんはまたマッサージを始め、僕は倒れている高校生の右肩と左脇下にパッドをピタリと貼った。


「電気ショックが必要です。充電します……完了しました。対象者から離れて、ボタンを強く押してください」機械的な声が響いた。


「トキトオさん、離れて下さい。ボタン押します」


 僕がそういうと、汗でビショ濡れのトキトオさんがマッサージをやめて女子高生の体から離れた。僕がAEDのボタンを押し込むと、バチ、という音が聞こえたような気がした。それからすぐにキュイーンと再充電を始める音が聞こえた。


「大丈夫ですか!」


 ちょうど救急隊が到着して、人だかりが割れて三名ほどの救急隊員がが我々を取り囲んだ。トキトオさんが隊長らしき人に容態と応急処置を施した事を口早に説明した。


「もう大丈夫です。応急処置ありがとうございました」


 小柄なグレーの作業服を着た男性がほかの二人に指示を出してタンカーに毛布を掛けた女子高生を載せ、速やかにどこかへ運んでいった。「道を開けてください!」「おら、どけ!」と言った風にやや騒がしさは一瞬増したが、やがてそれも遠のいて行った。僕と息を切らしているトキトオさんは、その場で搬送されていく女子高校生を眺めた。


「助かればいいのだけど」

「そりゃあ助かるわよ。あたしがちゃんと処置したんだから」

 白いレースのハンカチで額の汗を抑えながら、トキトオさんが珍しく張りのある声で言った。思わず目をやると、トキトオさんは頬を赤く熱らせており、眼鏡の奥の瞳は今まで僕が見た事がない程の生命力を湛えていた。


「あっ」


 それから黒いストッキングが破け、肌が出ている事に気が付いたようだった。膝にも少し血が滲んでいる。トキトオさんはそこを引っ張ったりしながら、


「まあいっか! 唾でも付けてりゃ治るっしょ!」


 と明るく言った。かつて無い陽気なトキトオさんに僕は内心驚きながら、気になっていた事を聞いてみた。


「どこに行く予定だったんですか?」

「知り合いの結婚式会場から二次会に行く途中だったの。でも、まあ良いや。こういう事があったって事で、サボっちゃおっと」

 トキトオさんは小さなエナメルのバッグを肩に下げ、右手に白い高級そうな紙袋を持った。

「良いんですか?」

「良いのいいの。知り合いだからって、全員が全員結婚を祝福しなきゃいけないって訳でもないんだからさ。結婚したい人は勝手にすりゃいいのよ。そんで幸せでも不幸せでもなればいいのよ」

 トキトオさんは胸を張って明るく言い放った。


「あのお……」


 僕が何と言えば良いか考えていると、背後から声を掛けられた。


「もしよろしければ、お二人の連絡先を頂戴できればと思いまして……」


 振り返ると、出っ歯の駅員が申し訳なさそうな笑顔で立っていた。


 

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