5

 トキトオさんが不良看護婦ではない事は、意外と早く判明した。


 その日、夕方の私鉄の池袋駅ホームを歩いていると、大勢の人だかりが出来ていた。帰宅ラッシュの始まり掛けの時間帯で改札から入場する人達と、出て行く人たちの対流が起こる人通りの多い広い場所で、まるで流れる川の中洲のように何名かが立ち止まって、その真ん中で倒れている人を取り囲んでいた。僕は大学の授業に提出するレポートを印刷する為のインクプリンター・カートリッジを買いに改札に向かっている時に気が付いて、貧血の人でも居たのだろうと思ってそのまま通り過ぎようとした。


「大丈夫ですか? 大丈夫ですか?」


 聞き覚えのある大きな声が聞こえたので人混みの間から覗いてみると、トキトオさんが跪いて、倒れている女子高校生の肩を揺すって声を掛けていた。トキトオさんは髪をしっかりと結い上げてうなじを露わにしており、黒いシックなワンピースと高いハイヒールを身に付けていて、結婚式に出席する途中であるといった雰囲気があった。倒れている女子高校生は眠っているように無表情で蒼白だった。昨今あまり見掛けない、絵に描いたようなセーラー服を着ていた。トキトオさんは自分の左手首の内側にしている華奢な腕時計を見ながら、


「だれか、救急車を呼んでください! AEDを持ってきてください!」


 と、どことなく事務的な大きな声を上げた。

 周囲の人達はオロオロとあたりを見回したり、顔を伏せて通り過ぎて行ったり、携帯電話を向けて撮影をしたりするだけで、協力的な人は見当たらなかった。


「誰か早く持ってきてください!」

「トキトオさん、大丈夫ですか?」


 僕は思わず人混みをかき分け、女子高生を挟んで反対側に跪いて話しかけた。トキトオさんは厳しい目付きでチラッと僕の顔を見て、女子高校生の顔の前に手のひらをかざしながら冷静に言った。


「ヒガシダ君、AEDが駅長室の入り口にあるから、ここへ持ってきて。駅員さんにも救急隊を呼ぶように言って」

「分かりました」


 人混みから抜け出て駅長室に向かう後ろから、大きな声で

「17時38分、心臓マッサージ開始します。イチ、ニ、サン、シイ、ゴオ……」

 というトキトオさんの声が聞こえた。誰か知らない人に撮影されている事を理解しながら、それに腹を立てるでもなく記録に残そうという意図が感じられた。冷静だ。


 駅員に報告し、オレンジ色のバッグに収められたAED装置を携えて走って引き返すと、人だかりはさらに大きくなっていた。トキトオさんの事務的な数を数える声は大きく、一定の間隔をキープしていた。


「持ってきました」


 トキトオさんは汗を滴らせてマッサージを続けながら、ありがとうと言った。


「装置出して」

「僕使ったことありません」

「心臓マッサージとどっちがいい?」

 一心不乱に胸部を圧迫しているが、トキトオさんの言葉遣いは冷静だった。

「……装置だします」

「最近のは音声で指示するから大丈夫。早く出して」


 トキトオさんは数を数え続け、その間に僕は装置をバッグから出して剥き出しにした。トキトオさんの言う通り音声ガイダンスが始まって、それに従えば良いだけだった。だが高校生は制服を着ており、所定の二箇所の場所に装着することは不可能だった。右肩と左脇腹に、肌に直で貼らなければならないのだ。


「女性です! 配慮をお願いします! 外を向いて壁を作ってください!」

 トキトオさんが大きな声を上げた。

「ハサミ」

 トキトオさんは髪が解け、振り乱しながらマッサージを継続しつつ、息を切らして僕に指示を出した。

「ハサミがそこのポケットにあるからそれで制服切って」

「でも……」

「じゃあハサミだして!」

 初めてトキトオさんが声を荒らげた。

 僕は慌ててAEDが収められている隣のポケットから大振りのハサミを取り出して、握りの部分を前にして差し出した。


「私たちに背を向けて壁を作ってくださいお願いします!」

 トキトオさんがもう一度大声を上げた。


 大勢が我々を囲んで外を向いて壁を作ったが、一人だけ相変わらず携帯のカメラを向けている若者がいた。


「撮影やめろ!」


 トキトオさんがさらに大声を出した。その声に気圧されて反対側を向いた事を確認すると、トキトオさんは僕の手元からハサミをひったくるように奪い、女子高校生の腹の部分から躊躇なくセーラー服とアンダーシャツを縦に切り裂いて、ベージュのブラジャーを露わにさせた。真剣な顔をして肩のワイヤー部分を一瞬触って確かめたが、すぐにカットし、右の乳房の上部を露わにした。トキトオさんはまたマッサージを始め、僕は倒れている高校生の右肩と左脇下にパッドをピタリと貼った。


「電気ショックが必要です。充電します……完了しました。対象者から離れて、ボタンを強く押してください」機械的な声が響いた。


「トキトオさん、離れて下さい。ボタン押します」


 僕がそういうと、汗でビショ濡れのトキトオさんがマッサージをやめて女子高生の体から離れた。僕がAEDのボタンを押し込むと、バチ、という音が聞こえたような気がした。それからすぐにキュイーンと再充電を始める音が聞こえた。


「大丈夫ですか!」


 ちょうど救急隊が到着して、人だかりが割れて三名ほどの救急隊員がが我々を取り囲んだ。トキトオさんが隊長らしき人に容態と応急処置を施した事を口早に説明した。


「もう大丈夫です。応急処置ありがとうございました」


 小柄なグレーの作業服を着た男性がほかの二人に指示を出してタンカーに女子高生を載せ、速やかにどこかへ運んでいった。「道を開けてください!」「おら、どけ!」と言った風にやや騒がしさは一瞬増したが、やがてそれも遠のいて行った。僕と息を切らしているトキトオさんは、その場で搬送されていく女子高校生を眺めた。


「助かればいいのだけど」

「そりゃあ助かるわよ。あたしがちゃんと処置したんだから」

 白いレースのハンカチで額の汗を抑えながら、トキトオさんが珍しく張りのある声で言った。思わず目をやると、トキトオさんは頬を赤く熱らせており、眼鏡の奥の瞳は今まで僕が見た事がない程の生命力を湛えていた。


「あっ」


 それから黒いストッキングが破け、肌が出ている事に気が付いたようだった。膝にも少し血が滲んでいる。トキトオさんはそこを引っ張ったりしながら、


「まあいっか! 唾でも付けてりゃ治るっしょ!」


 と明るく言った。かつて無い陽気なトキトオさんに僕は内心驚きながら、気になっていた事を聞いてみた。


「どこに行く予定だったんですか?」

「知り合いの結婚式会場から二次会に行く途中だったの。でも、まあ良いや。こういう事があったって事で、サボっちゃおっと」

 トキトオさんは小さなエナメルのバッグを肩に下げ、右手に白い高級そうな紙袋を持った。

「良いんですか?」

「良いのいいの。知り合いだからって、全員が全員結婚を祝福しなきゃいけないって訳でもないんだからさ。結婚したい人は勝手にすりゃいいのよ。そんで幸せでも不幸せでもなればいいのよ」

 トキトオさんは胸を張って明るく言い放った。


「あのお……」


 僕が何と言えば良いか考えていると、背後から声を掛けられた。


「もしよろしければ、お二人の連絡先を頂戴できればと思いまして……」


 振り返ると、出っ歯の駅員が申し訳なさそうに笑顔で立っていた。


 駅長室の低いボロボロなソファーに腰を掛け、使い込まれて四隅が変色し始めているガラスのテーブルの上で、分厚い古いノートに名前と住所と電話番号を書いた。ノートに紐付けされた備え付けのボールペンは忌々しい程にインクの出が悪かった。インクが減っている訳でもない。ただ単にインクの出が悪いのだ。書き始めがどうしても掠れてしまって、何度か余白にペンを走らせなければならなかった。イライラしていると、テーブルの上に置かれたプラスチックの茶のみに大きな急須から茶が注がれ、暖かそうな湯気を立てた。だが湯飲みには宿命的な茶渋がこびりついており、僕は例え死んで生まれ変わったとしても、絶対どこかの駅長室にある湯のみにこびりついた茶渋にだけはなりたくないと思った。「いや、あんなに手際のいい応急処置は初めて見ましたですよ。私など、全くお呼びじゃなかった」と初老の体格の良い駅員が扇子で扇ぎながら感心の声を上げた。

「ええ、まぁ」

 トキトオさんはいつもの暗黒の目付きを取り戻しながら、のらりくらりと悪気のない駅員の遠回しの詮索を避けた。どこで働いているのか、とか、僕とトキトオさんは週に何回セックスをしているのか、とか、そういう事を聞きたそうな雰囲気があった。やってないぞ、と僕は言いたかったが、駅員の興味は僕ではなく、ほぼ全てがトキトオさんに向けられていた。

「きっと訓練などされておるのでしょうな。いや、全く無駄のない動きで感心しましたですよ。膝は大丈夫ですかな。よかったらカットバンと消毒液使ってください。確かここら辺に……」

「お気遣いなく」

 トキトオさんはそう言うと、ノートの僕の下の段に住所と電話番号を記入した。大きく自信に満ちた綺麗な文字だった。足立区のアパートかマンションに住んでいるようだった。やはり何度もノートのスペースにボールペンを走らせ、インクの出の悪さにイライラしている様子が感じられた。

「時々倒れてしまう方がおるのですよ。ご存知の通り、池袋のラッシュは都内でも特別ですからね。人と人がごっちゃになって、落し物もすごく多いですし、やはりああして倒れてしまう方もとても多いです」

「落し物は多そうですよね」

 僕は何とは無しに話を合わせた。

「百万円の束が数束落ちてた事もあるです。それと季節によっては受験票。預金通帳。お骨。お骨ってそうです、あの納骨するやつですね。ええ。駅に落として良いものと悪いものがあるですよ、ホントに。中でも、人の骨とかは一番落としたらいけないヤツです。いや、もしかしたら大型犬の骨だったかも知れんですけどね」

 えふ、えふ、えふ、と駅員は変な笑い方をした。書き終えたトキトオさんが、また僕が見た事がない顔をしてそっとペンを置いた。それがトキトオさんなりの精一杯の愛想笑いである事に僕が気付くまで、ほんの少し時間を要した。

「これはどうもありがとうです。あの高校生がどうなったか、あなた方も心配でしょうし、もし本人に了承が取れたらこちらからまた電話するです。あいや、もし高校生本人が電話したいっていうなら、彼女にあなた方の電話番号を教えてもよろしいでしょうかね?」

 僕は、別に構わない好きにして良いと言った。トキトオさんもそれで大丈夫です、と言った。

「それではこちらの紙にも、お名前と署名をお願いしてよろしいでしょうかね」

 駅員は手元のバインダーからA4の紙を二枚取り出すと、僕たちの前に置いた。「個人情報開示同意書」という大きめのフォントの下に、箇条書きで細かくぎっしりと字が書かれていた。

「あ、いや、個人情報の開示にも今は本人の同意がなきゃいけなくてですな。いや本当に不都合ばかりこの世の中増えていくです。私が若かった頃なんか、電話番号も住所もいくらでも開示してた。そこら辺に忘れ物をした人の住所とか、個人の電話番号とか、置いてありましたわい。そんなん、よっぽど有名人じゃなきゃ、電話番号なんて単なる電話番号でしたよ。それが今や、記録したものを無くした瞬間、誰かの首がって飛んじゃうくらい大ごとですわ。いや本当に、一般人の個人情報なんて、どんだけの価値があるんですかって私は言いたい。そりゃね、個人情報を保護しろっちゅーならしますよ。お上が言う事にいちいち逆らったりしません。でもね、我々みたいに毎日毎日人がブワァーって、電車で乗り降りしてる様を見ているとね、一人ひとりが人生を歩んでいるってのは分かるんだけども、その人がどこに住んでいるか何て、実に些細な事であるようにしか思えないんですわ。何だったら、電車一両毎に乗ってる満員の人達。あの人達がひと塊りに見る事の方が自然なんです。一人ひとりじゃなくて、。何でかって言っても難しいんですがね、やっぱりみんな同じ顔をしておるんです。出勤する人達って。帰宅する時はバラバラですよ。はい、みんな違う。きっとガラクタ寸前まで働かされる人と、ズルして手を抜いている人と疲れ方が違うんでしょうね。でも朝は同じ。何となくね、彼らはみんな同じ夢を見ていたような顔をしておるんです。電車の中で揺られてる間にね、一人ひとりは全然違うことを考えたり、やったりしてると思うんですけど、わたしには、彼らは同じ夢を見て、ようやく覚めた人のようにね、電車から降りてくるように見えるんですよ」

「それは車両毎に違う夢なんでしょうか?」

 僕はふと思い付いた疑問を口にした。

「違う夢?」

 まさか質問をされるとは思っていないようだった駅員がキョトンとした顔をして僕を見た。

「例えば、二号車はNHKで、三号車は日テレみたいに」

 それでようやく駅員も僕が何を言いたいか分かったように、1オクターブ上げたさらに妙なエフッエフッと笑い声を上げた。

「それは面白い考え方ですな。二号車は1チャンネル、三号車は12チャンネルの夢。そういう所までは考えた事がなかったです。でもまあ、そういう事はあるかも知れんですな。車両毎の区切りで夢の内容は変わっておるかも知れんです」

 トキトオさんが墨汁を五時間ほど丹念に煮詰めたかのような暗黒の視線で僕を射抜いた。分かっている。僕は余計な事を言ったのだ。

「あ、もう12チャンネルは無いですな。テレビ東京、7チャンネル。あれは面白い番組局です。うちの者は子供が出払ってからずっとテレビを観てるんですが、何しろテレビ東京の……ってこういう話は女性や若い方々には無用ですな。お引き止めしてすいませんです。とにかく私が言いたかったのは、みんな同じ顔をしている、という事だけなんです。朝の出勤ラッシュでは特に」


 ▪️


「メルヘン駅員」

「シッ、聞こえる」


 僕は後ろを振り向いて、見送りの為にわざわざ出てきた駅員達に頭を下げながらトキトオさんに言った。ようやく我々は解放されたのだ。我々は肩を並べ、特に目的もないまま東口へ向かってゆっくりと歩いて行った。時計は間もなく夜の七時を回るところだった。大勢の人達が駅の構内を足早に行き交っていた。


「何なのよあの駅員。ソファ低いし深いから、座ってる間中あたしのパンツ見えちゃうんじゃないかってヒヤヒヤしたわ。話も脱線し過ぎでしょ。全員が見る同じ夢ってなんなのよ。朝ドラか何かなの?」

「話なんかいくらでも逸れていいんだ。本物の電車が脱線しなければさ。それが彼らの仕事なんだ。電車を脱線させない事、時刻通りの運行ペースを守る事、酔っ払い同士の喧嘩を仲裁する事、痴漢の冤罪を見分ける事」

「ゲロの掃除する事」

「飛び込み自殺をした男性の左手首をちゃんと探し当てる事」

「電車のドアからおしくらまんじゅうで乗客をギュウギュウの詰め放題の野菜みたいに詰め込む事」

「線路に落とした女の子の帽子をマジックハンドで拾ってあげる事」

 僕は子供の頃に見た駅の柱に掲げてある、「線路に物を落とした方は駅員まで」という文章が書かれたプレートと、そこに添えられた簡易イラストを思い出しながら言った。そのイラストは黒のパーツだけで構成された影絵のようなもので、顔の表情は窺い知れず、どことなく不吉な印象を見る者に抱かせた。果たして二人の関係は本当に駅員・少女というだけのものなのだろうか? 拾う事に夢中になり過ぎた駅員の尻を、少女が蹴り飛ばして線路に突き落としてしまう可能性ものではないか?

 いずれにせよ、駅員の仕事はハードなものなのだろう。できれば彼等だって、客を無理やり電車に押し込めたり、泣き叫ぶ女子高校生に怒号を浴びせるサラリーマンを宥めたりなんかしたくは無いはずだ。トキトオさんは、ふぅむ、としばらく息を吐いて考えている様子だった。他に言い足りない駅にまつわる悪口を考えているのだろう。言いたければ言いたいだけ言ってしまえば良いのだ。溜めておくとろくな事にならない。だが、トキトオさんはもう、駅員に対して言うべき悪口は全て言い切ってしまったようだった。あるいは興味が失せたのかも知れない。


「ねえ、ちょっと今日あたし良い事したわよね」


 トキトオさんがスッキリした顔を僕に向けて明るく言った。やはり、悪口は出せる時に全部吐き出させておくに限るのだ。


「間違いなくトキトオさんは良い事をしました。女子高校生が倒れた所に颯爽と駆け付け、心臓マッサージをし、僕にAEDを持って来させて駅員さんが言う『文句の付けようがない見事な』救急処置を施しました」


 僕は棒読みのように言った。

 それでもトキトオさんはウンウンと嬉しそうに頷いた。


「じゃあこれから呑みに行こうよ」

「え?」

「ヒガシダ君の奢りで」

「何でですか?」

「これから予定あるの?」

「特には無いですけど……」

 僕には本当に予定がなかった。家電量販店へ行ってから、適当に晩御飯を買って家で食べて寝るつもりだったのだ。

「じゃあいいじゃない。あたしはすごく良い事をしました。だから、すごく褒められたいの。『偉いことをしたね、ヨシヨシ、頑張ったね』って褒められたいの。誰かのお金で飲み食いしながら。それって、高望みし過ぎかしら? だって、私は人の大切な命を救ったのよ? 地球を一つ救ったのと、ほとんど一緒なのよ?」

 勢いよく、目をキラキラと輝かせながらトキトオさんが僕に詰め寄った。僕はそういう元気なトキトオさんを見た事がなかったので、気圧されてマジマジとその顔を見た。彼女はとても嬉しそうだったし、控えめに言って綺麗だった。汗はすっかり引いて、化粧を整えた後だったからかも知れない。久しぶりに事務仕事以外の、看護婦らしい仕事を図らずしもした事で、彼女の奥底にある何かが露見したかのように思えた。僕はバッグの底に眠っている母親から渡されたままの十万円が入った封筒を思い出した。どうせ父親の治療費はカードで支払うのだ。ポイントを付けるために。多少使ったところで、問題はないだろう。

「そうですね」

 と僕は応えた。

「じゃあ、今日はたくさん飲みましょう」

「そういうノリ好きよ」

 トキトオさんが嬉しそうに言った。

「取って食やしないから、安心しなさい」




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