6. フィルムに当たる雨の音は
手術は延期を重ねていった。父は深い眠りに落ちており、その周辺の機器は数を順調に増やしていった。ただの入院ではないことは明白だった。僕は毎日病院へ行って、普段よりずっと引き伸ばされているようにも思える時間をほとんどそこで過ごした。
トキトオさんに教えてもらった屋上の秘密の場所には、ほぼ毎日通う事になった。実際の所、病院で一人になれる場所は限られていて、息が詰まると人目を忍んで屋上へ登り、奥まった階段の中程に座って景色を眺め、飽きるとジーンズのポケットから文庫本を取り出して読んだ。特に順を追って読むのではなく、適当に開いたページから活字を目で追うに過ぎなかったが、いつの頃からか、時折文章が独特の響きを僕の心にもたらすようになった。それは
ある時、人目を忍んで屋上へ行く為に止むを得ず非常階段を登っていくと、踊り場に大きな血溜まりがあるのを発見した。僕はそこに足を一歩踏み入れてしまい、その
「R↑↓12」と暗い蛍光灯だけが照らす薄暗がりの下で、僕はそっと血溜まりから足を戻した。周囲の壁にも階段にも一滴の血も見当たらず、それはまるで自然現象としてその場に湧き出したかのように、直径一メートル程の円形で広がっていた。吐血したか下血したか、あるいは血管を切り下したにしてもその迸りのようなものがあるはずだったが、周辺にそのような形跡は一切無かった。僕はその蛍光灯の冷たい光さえも吸収し、まるで深い穴のようにも見える赤い円に不気味さを忘れて見とれた。一体どのようにすればこのような美しい円が描けるのだろう、と不思議に思った。僕が誤って足を踏み入れた場所だけがつるりとした灰色の廊下を一部分露わにし、またとろりとした血でゆっくりと埋められていくのを眺めた。
トキトオさんは稀に屋上に姿を現し、特に会話を積極的にするでもなく、煙草を吸ってまた戻って行った。
「トキトオさんって、もしかして不良看護婦なんですか?」
僕は試しに聞いてみた。
「あなただってバカ大学生でしょう?」
トキトオさんが煙を吐きながら無表情に目だけを僕に向けて言った。
「お気楽大学生ってビルの屋上から突き落としたくなるわ、時々」
「気持ちは分かります」
「あなたに分かるの? 分かる訳ないでしょう」
トキトオさんが携帯灰皿に灰を落としながら言った。
「疲れて電車乗ってる時に大学生達が駅でウェイウェイ騒いでる姿を見掛けると本当にイライラするんだから」
「あの、すいません。もうちょっと慰めてもらってもいいですか? 僕は父の病状を心配して、毎日病院へお見舞いに来ているいたいけな大学生なので」
トキトオさんが鼻を鳴らした。一瞬間を置いて、改まった口調で言った。
「早くお父様の病状が良くなるといいですね」
「もっと心を込めて」
ブフッとトキトオさんが吹いた。
「勘弁してよ」
煙が目に染みたのか、微かな笑顔をしかめるように目を擦りながらトキトオさんが言った。
「毎日心を込めていたら死んでしまう」
僕はトキトオさんに深い親しみを覚えた。まるで昔から友達だったかのような気分になった。
「どうしてトキトオさんはいつも緊張してるんですか?」
「……あたし、普通にしてるわよ」
トキトオさんが間を置いて、落ち着いた声で言った。
「きっと綺麗な顔をしているから、余計にそう感じてしまうのかも知れないんですけど、時々怖い顔をしているように思えます。私に話掛けるなオーラと言うか、病院内で見かける時とか」
トキトオさんが目を細めて僕を見た。
「仕事中だからよ。社会人として生活していく為には真剣に、真面目に働かないといけないの。バカ大学生には分からないだろうけど」
「それにしても、もっとリラックスして、人に心を開いてみたっていいんじゃないかなって、僕は思うんですけど……もしかして、してるのかも知れませんけど……僕以外に」
言葉は尻しぼみになった。ツーベース・ヒットを狙った自己過信気味のバッターがファーストベースを勢いよく蹴ったものの、一・二塁間でタッチアウトの予感を確信に変えた瞬間の気分だった。打球の飛距離を見誤り、自らの脚力を過大評価し過ぎた者の末路だ。次のスタメンは恐らく絶望的だ。
「心を開く、ね」
意に反してトキトオさんはあっさりと言った。トキトオさんは意外な程ニッコリと僕に微笑んでいた。初めて見るトキトオさんの留保のない笑顔に、僕も思わず微笑み返した。
「何だか高校生に戻った気分だわ」
「余計な事を言ってすいません」
「いいの、いいの。逆にありがとう」
とトキトオさんは笑顔で顔の横でおどけて片手を振った。
「じゃあ見本見せて」
「え」
ずい、とトキトオさんが視線を逸らさず僕の正面に顔を寄せた。
「心を開くお手本」
「僕がですか?」
「だって、人に言うくらいなんだから、出来るんでしょう?」
トキトオさんは屈託のない笑顔を見せた。だがその細まった大きな瞳の奥に、一片たりとも笑みの要素が含まれていない事に僕は気が付いた。以前非常階段の踊り場で見つけた謎の血溜まりのように、底なし穴のような黒が広がっているだけだった。トキトオさんは階段の中程に腰を掛けている僕の目を挑発的に、塵や指紋一つ付いていない透明なレンズ越しに見上げた。肌はひたすら白く、髪はどこまでも黒く艶やかだった。僕はそのトキトオさんの危うい、不安定な気持ちになる美しさに気圧され、浮かぶ言葉は霧散し、しばらく見つめ合った後、思わず目を逸らした。
「ご忠告ありがとう」
と真顔に戻ったトキトオさんが冷たい声言った。
「髭くらいちゃんと剃りなさい」
そのままスルッと僕の隣を通り過ぎて持ち場へ戻って行った。恐らく戻って行ったのだと思う。僕は思わずため息を付いた。少しトキトオさんのキルゾーンに踏み込み過ぎたような気がする。距離感を推し測れない。何かが僕とトキトオさんの間を阻害しているように思える。そう言えば、と僕は気付いた。僕は彼女が病室で患者の血圧や脈を測ったりしている所を見た事がない。結構一日の長い間をこの病院で過ごしているが、一度も見たことがないというのはどういう事だろう。廊下を歩いているか、デスクの上で書類に書き物をしているだけだ。
文庫本を開いてみたものの、一文字たりとも頭に入ってこなかった。目から入った情報は左右の脳を意味を持たぬただの情報として通り過ぎ、耳から溢れていった。脳で正しく処理されなかった視覚情報が耳から抜けていくというのは新たな発見ではあった。僕はしばらく集中しようと手を尽くしたが、やがて諦めて煙草に火を付け、むしゃくしゃした気分で大きく煙を吐いた。
ある曇りの日の昼過ぎに、一人で屋上で駅前で買ってきたサンドウィッチを齧りながら文庫本を捲っていると、聞き慣れない音でiPhoneが鳴った。屋上は蒸し暑く、雨の予感がチリチリと漂っていた。白いシャツが汗で肌に張り付き不快だった。
「どうして大学に来ないの?」
電話番号さえ分かれば個人に送る事ができるメッセージだった。僕は毎日iPhoneを持ち歩いているのに、未だに知らない通知音が鳴るのだ。そうした些細な事実でさえ僕の気分を簡単に暗く沈ませた。こうして世の中はどんどん便利になって行く。そして僕は技術と知識と時代に取り残されて行く。
差出人はスギモトだった。考えてみると、僕はもうスギモトに学食で無視されて以来二ヶ月程連絡を取っていなかった。
「色々あって実家に戻ってるんだ」
スギモトが文字を入力している事を示す吹き出しのアニメーションが点滅した。
●◉○
●◉○
「色々って何?」
「色々は色々だよ」
僕はトキトオさんの受け売りを打ち込んだ。父が入院し、自分が毎日見舞いの為に病院へ通っているという事実をスギモトに告げるのは気が向かなかった。気の毒だ、と思われるのも嫌だったし、何かしてあげられる事はないか、と聞かれるのも億劫だった。誰かに何かをして貰うには、ある程度自分が為すべき事を把握している必要があるのだ。だが僕には自分自身でさえ何をすべきかが分からなかった。そしてそんな状態にある自分を、誰かに知られたくなかった。
「大学辞めるの?」
「やめない。と思う」
「ちゃんと総務に言っておかないとまた留年するよ」
「報告してある。ありがとう」
●◉○
●◉○
「私、彼氏ができた」
僕は手を止めてその文字に見入った。スギモトに恋人が出来た、と読めるが、一瞬その情報が頭に入ってこなかったのだ。
よかったね
よかっ
よ
そっか
そういうような事を消したり打ったりしながら、僕は混乱した頭で返信すべき文章を考えた。だが僕が返信する前にスギモトから追ってメッセージがあった。
「知ってた?」
「知らなかった」
僕は少し安心して返信した。何と返せば良かったのか全く思い付かなかったのだ。
「
何故「良かった」のだろう?
僕は混乱して返信を打てずにいた。一体何がスギモトにとって良かったのだろう? 縦線Aと語った際のスギモトの気持ちを四十文字で答えよ。いや、この場合文字数よりも時間が重要な気もする。三十秒で答えよ。何なんだ、これは面接か?
「どこで知り合ったの?」
僕は話題を変えた。
「同じゼミのハギノ」
ハギノ
僕は大きく落胆した。自分でも不思議な程に身体から力が抜け、ガックリと項垂れた。
ハギノはとことんまで下らない奴だった。僕から見れば、全てにおいて空っぽの癖に、借り物のスタイルで着飾り、浅はかな知識をひけらかすだけの薄っぺらい男だった。僕はそれをゼミのグループ発表で確信した。ハギノは四名のグループの代表として発表を行ったが、物々しい言葉の羅列に比べて、その内容はほとんど無に近かった。本の内容に書かれている事実の確認に過ぎなかった。一体この男はその事実に基づいて何を主張したいのだろう、と僕は訝しんだが、何故かそのグループがトップの成績を収めた。ゼミの中では背が高く、他のゼミ生がシャツやジーンズなどのカジュアルな服装で講義を受ける中で、ハギノだけはジャケットとカッターシャツ、チノパン、そこにネクタイを欠かさなかった。靴も革靴で、いつもピカピカに磨かれていた。痩せ型、筋肉質で肌は浅黒く、髪はオールバックで広い額を露わにしていたが、切れ長の目、剃った眉、高い鼻と薄い唇で、見た目は悪く無かった。ゼミが終わると友人達と一緒に教授の所へ質問をしに行き、世間話になると大きな声で笑った。男から見てもなかなかチャーミングな笑顔だったが、僕はどうしてもそのハギノの取り繕った笑顔や声や仕草が苦手だった。わざとらしくジャケットに腕を通す仕草だとか、髪のサイドを撫で付ける仕草だとか、たまに便所で見かけた時の自分を鏡に映す際に顔を詳細にチェックする様を見るにつけ、ハギノは二十数年間程費やして綿密に書き上げた僕の中にある「必要が無ければ一生関わらずに生きていくべき人間」リストの頂点まで最短で駆け登り、輝かしくそこに君臨した。たまに居るのだ。こういう自分のスタイルを周囲にアピールしておきながら、その実全てがどこかからの受け売りでしかなく、それを引き剥がされ周囲に明らかにされる事だけが唯一の恐怖であると言ったタイプの男が。
やめておけスギモト。あいつは何かがありそうに見えるが、その実何もない男なんだ。前奏だけ大袈裟に盛り上げるつまらない映画音楽。入り口だけ盛大なお祭り。表紙だけ面白そうな週刊誌。一口目のビール。意味有り気に撮られたインスタの四角い写真。いつまもやってこない遅延状況すら知らされない電車。ジャケット詐欺のアダルトビデオ。東芝の粉飾決算。
一方で、待てよ、構わないじゃないか、とも僕は思った。
スギモトが誰と付き合おうと知った事じゃない。僕とスギモトは付き合っていた訳でもないのだ。もちろん好意はあった。馬鹿みたいだけど、スギモトが簡単な数学にブツブツ言いながら奮闘する所や、意味が分からない文学について語る真剣な顔付きは嫌いではなかったし、紅茶のカップを大事そうに抱えてゆっくりと飲む姿も可愛くなくはなかったし、文学作品を読むと「誰かに手紙を書きたくなる」という特殊な性癖を恥ずかしそうに告白した際の真っ赤になった首筋はエロティックに見えなくもなかった。ただそれだけだった。それを僕だけの特別なものと捉えるには、何かが不足していた。それはどちらかと言えばスギモトの資質に不足があるのではなく、僕自身の内にある、ぼんやりとした原因不明の欠落に起因しているように思えた。スギモトには何かしら惹きつけられるものがある。だが、僕の中にそこへ伸ばすべき腕のようなものが見当たらないのだ。近付く為の足すら失われているような気がする。どこへも行けない。何かを求めることすら出来ない。ひどく息苦しい。
「ハギノに文学性はある?」
僕は思い付いたまま打ち込んだ。
「ある」
返信は早かった。
「それは良かった」
と僕は返信した。本当に心からそう思ったのだ。
「ねぇ、また私の小説を読んでくれる?」
「もちろん。この前の、感想が言いたかったんだ」
●◉○
●◉○
しばらく返信を打ち込んでいるようだった。
「感想は直接聞かせてほしい」
「わかった。そのうち、落ち着いたら。ハギノにも自作の小説は読ませた?」
●◉○
●◉○
「まだ読んでもらってない。なんか、恥ずかしくて」
僕はうんざりとした気分でため息をつき、返信をしなかった。一体何を言えば良いっていうんだ。しばらく首と後頭部の繋ぎ目の部分がミシミシと痛んだので、俯いて自分で揉んだ。その内ノルマンディー上陸作戦の連合軍のように痛みが後頭部からこめかみにまで侵攻してきたので、僕は諦めて頭を抱えて目を瞑って耐えた。コンクリートを叩く小さな雨音が遠くから忍び寄り、気付けば雨の匂いがすっぽりと僕を包み込んでいた。煙草に火を付けようとしたが、空だった。僕はラッキーストライクのソフトケースを握りつぶして水溜りに投げ捨てた。フイルムに当たる雨は特別な音を立てた。
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