5. 屋上で待ってて
老人達の不吉な咳で満ち溢れている世界の災禍のような待合ロビーに戻ると、十五分程で僕の番号が呼ばれた。暇つぶしにその間に何度咳が聞こえるか数えていたが、途中で嫌になってやめた。死神の見習いになったような気分になったからだ。
指定された窓口で、父の入院に必要な手続きを済ませた。結構大掛かりな手術である筈だが、受付の人にとってはそれは単なる一つのオペであり、粛々と事務手続きを進めるだけだった。確かに、この病院には切れ痔や淋病、水虫から膵臓癌まで幅広い病人が居て、数え切れない程の手術が行われているのだ。いちいち一件毎に「お気の毒ですね」「お心をしっかりお持ちください」「ご無事をお祈りしています」などと懇切丁寧に言っていたら身が持たないだろう。病気は病気、金は金という割り切りはどことなく池袋の下品な風俗店の外観を思い出させた。
「お支払いはいかがされますか」
手元の端末を叩きながら、スーツ姿の男性職員が聞いてきた。
「もう料金が決まってるんですか?」
「前金という形でお支払いいただいて、退院後に余ったら返却という形もございますが、あまりそういう方はいませんね」
「じゃあ後払いで」
「現金ですか? カードですか?」
「失礼?」
僕は聞き返した。
「現金でお支払いか、クレジットカードをご利用ですか?」
男性が淡々と言葉を足して繰り返した。
「クレジットカードも使えるんですか?」
「はい。VISA、マスター、セゾン、ダイナース……」
「カードで支払います」
僕は延々と続きそうなカード会社の名前を遮って言った。カードで支払えばポイントが付くのだ。
「かしこまりました。では金額確定次第、お知らせ致します。お父様はお勤めにはなっていらっしゃらないので、市役所で減額申請をすれば大分お安くなると思います」
「それは……」
「詳しくは市役所にお問い合わせください」
今度は僕が遮られる番だった。
「ご親族の方々には心身ともにご負担をお掛けすることをお詫び申し上げます」
と初老の丸い眼鏡を掛けた痩せた医師が言った。乱雑に積まれたカルテやマグカップが置かれた机からは、脳外科医という職業の忙しさを察するのに充分だった。医師は僕や母に一度として目を合わせる事なく症状を説明した。手術前の検査で、脳の太い血管にもう数カ所、極めて除去が難しい場所に原因不明の瘤が見つかったという事だった。
「これはつまり、決して通行止めにする事が出来ない高速道路の地下を慎重に掘り進んで、反対車線にある通行止めの原因となっている障害物を除去する必要があるという事です。その障害物が高速道路の壁とどのような関係にあるのか、という見地において我々は万全を期さねばならないということですな」
我々、と医師は言った。
「検査の結果によっては、三日ではなく、さらに延期する場合もあります。楽観的な事が言えなくて申し訳ないのですが、長期戦を覚悟しておいてください」
分かりました、どうぞよろしくお願い申し上げますと僕と母で頭を下げて、退室した。しばらく無言で我々は歩いた。
「じゃああなたは先に帰っていなさい」
と努めて明るく母が言った。
「もしかしてこの入院は長くなるかも知れないから、あまり最初から根を詰めないようにしましょう」
「分かった」
と僕は言った。
まるで他人が発した言葉みたいだった。
明るく清潔なエントランスで一人でエレベーターを待っていると、中からトキトオさんが降りてきた。トキトオさんはいつも通りの緊張した面持ちで淡い水色の看護服を着て、黒いプラスチック製のバインダーを胸に抱えていた。それから例の暗黒の視線で僕を射抜くと、無言ですれ違った。本人には決して周囲に緊張を与えている意識はないのだろう。何故あんなに綺麗な顔をしているのに、世界を敵に回すような不穏な空気を醸し出しているのだろう、と僕は不思議に思った。トキトオさんがナースステーションで大勢の同僚(そのほとんどが女性だ)と談笑している場面を思い浮かべる事がどうしても出来なかった。馬鹿みたいな煎餅やマカロンなどを囲んで、意味のない世間話に花を咲かせるトキトオさんを僕は遠くから眺めてみたかった。仰け反るように大笑いをして、口元を抑えながらおやつを食べるのだ。トキトオさんは本来そうした姿であって然るべきなのだ。
「ちょっと」
休憩室で一人でお茶を飲むトキトオさんを、その他多勢の同僚たちが遠巻きにしてコソコソと陰口を叩いている場面を想像して、僕は胸が痛くなった。そんな不当な扱いなんてない。酷すぎる。きっとトキトオさんにはトキトオさんなりの事情がそこにはある筈だ。どうして誰もトキトオさんの悩みを聞いてあげないのだろう? もし僕が同僚だったら、初めから解決なんかを求めていないトキトオさんの愚痴を、ずっとずっと隣でうんうんと頷きながら
「ちょっとってば!」
シャツの裾を引っ張られて、ようやくトキトオさんが僕に声を掛けている事に気が付いた。
「どうしたの? 何かあったの?」
トキトオさんがやや心配そうに僕に小さな声で聞いた。
「いや、これから家に帰ろうと思って」
「ひどい顔してる」
と言ってトキトオさんは何かを言いた気に俯いた。周りの目を気にして、あまり僕との会話に時間を掛けたくない様子が伝わってきた。幸い、周囲には誰も居なかったけれど。
「屋上で待ってて」
「屋上?」
「そう。エレベーター乗って、Rを押すの。降りて待ってて、すぐ行くから」
小さな声でハッキリとそう僕に告げると、トキトオさんはさっさと足早に事務所の部屋が並ぶ通路の自動ドアを通って去っていった。
屋上でエレベーターを降りると、通路は真っ暗だった。左右の自動ドアから非常用の照明が漏れて出ているくらいで、空気も幾分下層階よりも濁っていた。今まで巧妙に僕の嗅覚からその存在を隠していた消毒剤とし尿が混ざった病院の匂いが
「
と僕は試しに口に出して発音した。空間は広々としているにも関わらず、僕の声は僕の耳の周辺に留まって、一向に外へ発信されている気配がなかった。やがて、どこかのドアを開けるガチャ・カチ・タンという音が響いて、そちらの方向に視線を向けると、暗い廊下に嘘みたいに鮮やかな黄色い菱形がポッカリと浮かんで、懐かしい声聞こえた。
「ヒガシダ君、こっち」
その声は親しい秘密を帯びて空間に響いた。僕は三角コーンの間を抜けて、光に向かって歩いていった。
ステンレス製のドアを通ると、冷ややかな外気に包まれた。陽が傾いて全てが物憂げな黄色に染まる屋上だった。季節外れの冬のセーターに染みたひなたの匂いがした。数段しかないステップを登ると、コンクリートで舗装された広場と、空調の排出口らしい巨大なサイロのような建造物がグロテスクに飛び出していた。その周辺には洗濯物干しが何列か設置されていて、その端の方に数枚のバスタオルが引退試合で敗北を喫したバスケットボール部員のようにぶら下がっていた。
「たまに来る。いい所でしょ」
トキトオさんは先に立って歩いて広場を横切り、もう一度カンカンと音を立ててステンレス製の階段を降りると、金網製の扉の番号式南京錠を外して中へ入っていった。通風孔の掃除用の細い通用口らしき建物の奥まった場所に、人がひとりすれ違うくらいのステンレス製の下り階段があった。
「ここは誰にもバレない」
トキトオさんは階段を降りて、その先にあるずいぶん背の高い金網(自殺防止の為だろう)にもたれた。それから持ってきた小さなポーチをガサゴソと漁ってタバコを取り出し、カチカチと二回百円ライターの音を立てて火を付け、美味そうに煙を吸った。
そこは十二階建てのビルの屋上から見下ろす絶好の場所で、池袋、新宿方面から心地よい向かい風が吹いていた。トキトオさんが煙草を吸うのは意外だったが、黙って景色を眺めた。いちいち話題にするまでもない。金網の先の細かく分断された空は上から下にかけて順に蒼と黄が交差しつつあり、その中間は白く、ビル群の影が地表に色濃く伸びているのが見えた。池袋新宿方面はガスの煙のようなもので覆われていて、その薄ボンヤリとしたビル群の下を、フロントガラスやリアガラスに夕日を反射する車が連なってゆっくりと幹線道路を走っているのが見えた。通奏低音のように車が道路を渡る音がうねりが聞こえ、クラックションが時折ピリオドを打つように一瞬響いた。
トキトオさんの煙草の煙が夕方の斜め色と混じり、風に吹かれてよじれ、伸びるようにやがて透明になっていった。
「父親の手術が延期になったんです」
僕は正直に打ち明けた。
「先生が急に手術を延期するって言って、母は『入院が長引くかも知れないから』って言ったんです。それで何だかちょっと、混乱してしまって」
トキトオさんは指に挟んだ煙草の煙を目で追いながら、じっと僕の話を聞いていた。
「何か、すいません。トキトオさんにカルテを盗み見て欲しいとか、そういうつもりで言ってるんじゃないんです」
うんうん、とトキトオさんは頷いた。
「しばらくこの病院に通う事になりそうだなぁ、って思ったり、大学どうしようかなって考えたりすると、ちょっと色々と面倒になってしまって」
トキトオさんは「面倒」という言葉でキッと僕を一瞬睨んだ。でも、すぐに目を逸らして再び煙草に口を付けた。
「それでトキトオさんが言う『ひどい顔』をしてエレベーターを待っていたという訳です。もともとひどい顔ですが」
トキトオさんは根元近くまで吸った細い煙草を携帯灰皿で揉み消すと、パチっとそれを閉じた。
「じゃあ、しばらくここ使って良いよ」
とトキトオさんが言った。てっきり慰めの言葉を言われると思っていたので、拍子抜けしてしまった。
「どうしたの? だってしばらくこの病院に通うんでしょ? だったら一人でいられる場所って、すっごい貴重なのよ。煙草も吸えるし、眺めも良いし。個室の患者さんよりVIP待遇だわ、はっきり言って」
そう言いながら煙草を入れていた小さなポーチを開けて、ライターと煙草を仕舞いながら、カバーがない剥き出しの単行本を取り出した。モスバーガーでトキトオさんが傍に置いていた本とよく似ていた。まだ綺麗なままだった。
「きっと暇になるでしょうから、本も貸してあげる。別に返さなくていい」
ありがとうございます、と一応僕は受け取って礼を言った。女性はだいたいが人に本を貸したがる性格なのだろうか? スギモト、と僕はふと思い出した。たまらなく懐かしくなった。
「僕も、一本貰って良いですか?」
トキトオさんは一瞬驚いた顔をしてから、何となく嬉しそうにいそいそと煙草のケースを取り出した。それから僕はトキトオさんにライターを借りて、しばらく言葉も交わさずに、二人で美しい東京のビル群へと傾いていく夕陽を眺めながら煙草を吸った。色彩を失っていく景色を、久しぶりに吸う煙草の目眩のせいにしようとして、僕はゆっくりと目を閉じた。複雑な幾何学模様が暗闇に描かれ、外気の音と車のクラックションの音が一際大きく僕たちを包んだ。視界を閉ざすと聴覚が異様に鋭くなるのだ。パッというトキトオさんの唇が煙草のフィルターを離す時の音がすぐ隣から聴こえた。
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