4. キョト、トーマス・バッハ会長
そこで僕はこの世界において、僕は僕以外の誰でもないことを思い出した。僕は実際に透明な存在で、その存在は誰に目に留まるでもなく、誰に愛されるでもなく、ただの記号的な大学生でしかない。その事をすっかり忘れていた。あまりに長い間(と言っても二、三時間だが)人として認識されていなかった事で、つい顔を知っている人に親しげに話しかけてしまったのだ。砂漠を歩いて疲れ果てたラクダが、オアシスの干上がり始めた小さな水溜まりに顔を突っ込むように。
「あなたが働いている病院に、父が入院してるんです。さっき手続きの事を問い合わせたら、一階でやってくださいって教えてくれた」
トキトオさんはナース帽は被っていなかったが、薄いブルーの看護服の上に紺のカーディガンを羽織っていた。髪の毛はショートで、左側の分け目から黒い髪の毛を流し、耳の上でピン留めしているようだった。細いフレームの黒縁眼鏡の奥の目付きは、相変わらず僕を世界の敵のように厳しく射抜いていた。全く僕の事を覚えていないようだった。
「お見舞いの品物は花なんかより、未来への希望。つまり、商品券の方が良いと教えてくれた」
「あぁ」
トキトオさんは目を大きくして思い出した顔をした。
「私はそんな事は言ってませんよ、ただ……」
「隣に座ってもいいですか?」
僕はわざと遮って聞いた。トキトオさんは日当たりが良い窓際のカウンターの端っこに座っていて、そこは店の特等席と思われた。トレーの横には文庫本がカバーを外されたベージュ色の姿のまま置いてあった。トキトオさんはしかめっ面でちょっと考えて、「どうぞ」と答えた。僕はその座席(すわり心地の悪い丸椅子だ)に腰を掛けて、ようやく落ち着く事ができた。
「私は一言も商品券が良いとは言っていませんけども」
「今日のビッグマックの味はいかがですか?」
僕は無視をして軽い冗談を言ってみた。
「ここはマクドナルドではありません。モスバーガーと言って……」
「知ってますよ。わざと間違えたんです」
僕はモスバーガーの汁が溢れないように包装紙を注意深く剥きながら軽い調子で言った。
「トキトオさんはいつも緊張していらっしゃるようなので」
トキトオさんの眼鏡の奥にある眼光は未だ衰えず、僕を射抜いていた。形の良いへの字口の脇にソースが付いていた。
「どうして私の名前を知ってるんですか」
「質問した時に、名札を見たんです。こう見えて、人の名前は覚えるのが得意なんです」
本当は、普通の人の名前なんて二秒で忘れてしまう。トキトオさんだから覚えていたのだ。この地球上には、誰一人として信用できる人間などいないのだ、という断定的な目付きが印象的で。でも、そんな事はいちいち言ってはいけないような気がした。
「気持ち悪……くはないですけど……ちょっと怖いですね」
目を伏せてトキトオさんが呟いた。手元では食べかけのハンバーガーの包み紙がクシャリと音を立てた。
「怖がらないでください。単なるマクドナルド好きの大学生なので」
「だからここはモスバー……」
と言い掛けてトキトオさんは顔を伏せてちょっと悔しそうな顔をしたのを僕は見逃さなかった。
「今日のコーラの味はいかがですか。資本主義の味はしますか」
「普通です」
「え、本当にコーラを飲んでるんですか?」
僕は驚いて聞いた。トキトオさんのトレーの上にはストローを刺した汗をかいたドリンクのSサイズが置いてあった。
「てっきりコーヒーか烏龍茶かと」
「ハンバーガーにはコーラ。ダイエットコーラですが」
そう言ってトキトオさんは両手で持ったバーガーにかぶりついた。ポロポロとソースやトマトの汁などがその下からこぼれ落ちた。もぐもぐと咀嚼している間は険とした雰囲気は幾分和らぐようだった。
「僕達、気が合いそうだと思いませんか」
「私は、マクドナルドはあまり好きじゃないですけど」
警戒気味にトキトオさんが言った。
「わかります。まあ、あそこは豚の餌よりは少しマシな程度のハンバーガーしか出しませんからね」
と僕が豚の鼻声の真似をすると、ようやく口の端を少しあげて笑顔を見せた。
「僕はヒガシダって言います。父が入院しててお世話になっています」
「ヒガシダ……、あ、昨日入院した方ですね」
僕はトキトオさんの横顔を見た。鼻筋が通っていて、左頬の真ん中に薄い小さな黒子がポツリとあった。
「いつもお昼ご飯はここで食べるんですか?」
と僕は聞いた。
「本当は病院の中で食べた方が良いんです。ほら、何があるか分からないじゃないですか。でも、病院の中にいると息が詰まっちゃって、ご飯も美味しく感じられないし、ついこうやって出て来ちゃうんです」
「とても綺麗な病院ですよね。出来たばっかりって気がする」
「そうです。確かまだ十年経ってないですね。私はまだこっちの病院に来てから、三年位ですけど」
「その前はどちらにいらっしゃったんですか?」
トキトオさんは太いポテトフライに伸ばす指を少しゆっくりにしながら、訝しげに僕の顔をじぃっと睨んで不快そうに聞いた。
「どうしてそんな事を聞きたいんですか?」
「えっ」
僕は突然見つめられて驚いた。振り出しに戻った気分だった。
「話の流れとして、ごく自然だと思ったんです」
「私の過去の話を聞く事が?」
「過去っていう程のものじゃないです。生い立ちや家族構成や小学校の成績や学芸会で歌った合唱曲の名前を知りたい訳じゃなくて、ただ単に、トキトオさんがここで働く前にどこで働いていたのかなぁって、気になっただけなんです。何て言うか、折角こうして一緒にお昼ご飯を食べる縁があったから、コミュニケーションの一端として」
僕は「どうしてこんな弁明みたいな事をしているのだろう」と思いながら言った。僕は何か悪い事をしたか? バイト先のキッチンの冷蔵庫に土足で入り込んでSNSに上げた人みたいだ。
トキトオさんはじっと目を細めて僕の顔を相変わらず眺めていたが、やがて諦めたようにちょっと息を吐いて、
「キョト」
と手短に言った。僕はそれが京都である事を認識するまでにざっと三秒程時間を要した。トキトオさんの口調はオリンピック開催地が東京に決まった際に、外国人が東京と発表した際の言い方に似ていたが、それがトキトオさんが狙ってやった事なのか、それとも単に弾みで「キョト」となってしまったのか、あるいは京都の真の発音は「キョウト」ではなく、「キョト」である可能性があるのではないか、と言うような考えが次々に去来した。どうしていちいちこんな風に気を使わなくてはいけないんだ、と僕は思った。それと言うのも、トキトオさんが突然真顔で妙な事を言うからだ。「私の過去の話を聞く事が?」僕はそんなに変な事を聞いただろうか。そんなの過去の内にも入らない、と僕は思った。自己紹介のほんの一端に過ぎない。少し変わっている。トキトオさんの間合いを推し量る必要がある。だが、どうしてそんなに気を使わねばならないのか?
「バッハ」
と僕は意図せずぶっきら棒に言った。
「トーマス・バッハ会長」
「正解」
とトキトオさんが打って変わって可愛らしい声で言った。
「まあ、私たち少しは気が合うかも知れませんね」
とほんの一瞬、素敵な笑顔を見せて、また真顔に戻った。
「それなら良かった」
と僕は安堵して言った。世の中にはいろんな気の合い方がある。トーマス・バッハだろうが、アラファト議長だろうが、ブルー・ハーツだろうが靴紐の長さや太さの好みであろうが、きっかけなど何だって良いのだ。法律で決まってる訳じゃない。要は僕とトキトオさんが仲良くなれればいいのだ。
「でも、あたしが年上だからね」
とトキトオさんがかすかに胸を張って言った。
「あたしの方が偉いの」
「はいはい」
と僕は言った。
「はい、は一度でいいの」
トキトオさん、結構面倒くさいなと僕は思った。
でもその場はトキトオさんがモスバーガーを奢ってくれた。断ろうとしたけれど、「あたしが年上だから」と譲らなかった。親しくなれると思ったらグイっと踏み込んでくるタイプなのかも知れない。でも一緒に病院には戻らず、「違うバスで戻るから」と言ってモスバーガーの前で別れた。きっと同僚に見られたりするのが嫌なのだろう。
「じゃ」
とクールに言い放って、トキトオさんは猫が垣根に隠れるようにスルッと人の流れに紛れて行って、あっという間に見えなくなった。僕は腕時計で時間を確認してから、送迎バスの停留所に向かった。それから、自分の足取りがとても軽くなっている事に気が付いた。
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