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 そこで僕はこの世界において、僕は僕以外の誰でもないことを思い出した。僕は実際に透明な存在で、その存在は誰に目に留まるでもなく、誰に愛されるでもなく、ただの記号的な大学生でしかない。その事をすっかり忘れていた。あまりに長い間(と言っても二、三時間だが)人として認識されていなかった事で、つい顔を知っている人に親しげに話しかけてしまったのだ。砂漠を歩いて疲れ果てたラクダが、オアシスの干上がり始めた小さな水溜まりに顔を突っ込むように。

「あなたが働いている病院に、父が入院してるんです。さっき手続きの事を問い合わせたら、一階でやってくださいって教えてくれた」

 トキトオさんはナース帽は被っていなかったが、薄いブルーの看護服の上に紺のカーディガンを羽織っていた。髪の毛はショートで、左側の分け目から黒い髪の毛を流し、耳の上でピン留めしているようだった。細いフレームの黒縁眼鏡の奥の目付きは、相変わらず僕を世界の敵のように厳しく射抜いていた。

「ケアした患者さんは覚えていますが、ご家族の事までは」

「隣に座ってもいいですか?」

 トキトオさんは日当たりが良い窓際のカウンターの端っこに座っていて、そこは店の特等席と思われた。トレーの横には文庫本がカバーを外されたベージュ色の姿のまま置いてあった。トキトオさんはしかめっ面でちょっと考えて、「どうぞ」と答えた。僕はその座席(すわり心地の悪い丸椅子だ)に腰を掛けて、ようやく落ち着く事ができた。

「今日のビッグマックの味はいかがですか?」

 僕は軽い冗談を言ってみた。

「ここはマクドナルドではありません。モスバーガーと言って……」

「知ってますよ。わざと間違えたんです」

 僕はモスバーガーの汁が溢れないように包装紙を注意深く剥きながら軽い調子で言った。

「トキトオさんはいつも緊張していらっしゃるようなので」

 トキトオさんの眼鏡の奥にある眼光は未だ衰えず、僕を射抜いていた。形の良いへの字口の脇にソースが付いていた。

「どうしてあたしの名前を知ってるんですか」

「質問した時に、名札を見たんです。こう見えて、人の名前は覚えるのが得意なんです」

 本当は、普通の人の名前なんて二秒で忘れてしまう。トキトオさんだから覚えていたのだ。この地球上には、誰一人として信用できる人間などいないのだ、という断定的な目付きが印象的で。でも、そんな事はいちいち言ってはいけないような気がした。

「気持ち悪……くはないですけど……ちょっと怖いですね」

 目を伏せてトキトオさんが呟いた。手元では食べかけのハンバーガーの包み紙がクシャリと音を立てた。

「怖がらないでください。単なるマクドナルド好きの大学生なので」

「だからここはモスバー……」

 と言い掛けてトキトオさんは顔を伏せてちょっと悔しそうな顔をしたのを僕は見逃さなかった。

「今日のコーラの味はいかがですか。資本主義の味はしますか」

「普通です」

「え、本当にコーラを飲んでるんですか?」

 僕は驚いて聞いた。トキトオさんのトレーの上にはストローを刺した汗をかいたドリンクのSサイズが置いてあった。

「てっきりコーヒーか烏龍茶かと」

「ハンバーガーにはコーラ。ダイエットコーラですけどね」

 そう言ってトキトオさんは両手で持ったバーガーにかぶりついた。ポロポロとソースやトマトの汁などがその下からこぼれ落ちた。もぐもぐと咀嚼している間は険とした雰囲気は幾分和らぐようだった。

「僕達、気が合いそうだと思いませんか」

「私は、マクドナルドはあまり好きじゃないですけど」

 警戒気味にトキトオさんが言った。

「わかります。まあ、あそこは豚の餌しか出しませんからね」

 と僕が豚の鼻声の真似をすると、ようやく口の端を少しあげて笑顔を見せた。

「僕はヒガシダって言います。父が入院しててお世話になっています」

「ヒガシダ……、あ、すこし前に入院された方ですね」

 すごい、よく覚えてますね、と言いながら、僕はトキトオさんの横顔を見た。鼻筋が通っていて、左頬の真ん中に薄い小さな黒子がポツリとあった。

「いつもお昼ご飯はここで食べるんですか?」

 と僕は聞いた。

「本当は病院の中で食べた方が良いんです。ほら、何があるか分からないじゃないですか。でも、病院の中にいると息が詰まっちゃって、ご飯も美味しく感じられないし、ついこうやって出て来ちゃうんです」

「とても綺麗な病院ですよね。出来たばっかりって気がする」

「そうです。確かまだ出来上がって十年経ってないですね。私はまだこっちの病院に来てから、三年位ですけど」

「その前はどちらにいらっしゃったんですか?」

 トキトオさんは太いポテトフライに伸ばす指を少しゆっくりにしながら、訝しげに僕の顔をじぃっと睨んで不快そうに聞いた。

「どうしてそんな事を聞きたいんですか?」

「えっ」

 僕は突然見つめられて驚いた。振り出しに戻った気分だった。

「話の流れとして、ごく自然だと思ったんです」

「私の過去の話を聞く事が?」

「過去っていう程のものじゃないです。生い立ちや家族構成や小学校の成績や学芸会で歌った合唱曲の名前を知りたい訳じゃなくて、ただ単に、トキトオさんがここで働く前にどこで働いていたのかなぁって、気になっただけなんです。何て言うか、折角こうして一緒にお昼ご飯を食べる縁があったから、コミュニケーションの一端として」

 僕は「どうしてこんな弁明みたいな事をしているのだろう」と思いながら言った。僕は何か悪い事をしたか? バイト先のキッチンの冷蔵庫に土足で入り込んでSNSに上げた人みたいだ。

 トキトオさんはじっと目を細めて僕の顔を相変わらず眺めていたが、やがて諦めたようにちょっと息を吐いて、

「キョト」

 と手短に言った。僕はそれがである事を認識するまでにざっと三秒程時間を要した。トキトオさんの口調はオリンピック開催地が東京に決まった際に、外国人がと発表した際の言い方に似ていたが、それがトキトオさんが狙ってやった事なのか、それとも単に弾みで「キョト」となってしまったのか、あるいは京都の真の発音は「キョウト」ではなく、「キョト」である可能性があるのではないか、と言うような考えが次々に去来した。どうしていちいちこんな風に気を使わなくてはいけないんだ、と僕は思った。それと言うのも、トキトオさんが突然真顔で妙な事を言うからだ。「?」僕はそんなに変な事を聞いただろうか。そんなの過去の内にも入らない、と僕は思った。自己紹介のほんの一端に過ぎない。少し変わっている。トキトオさんの間合いを推し量る必要がある。だが、どうしてそんなに気を使わねばならないのか?

「バッハ」

 と僕は意図せずぶっきら棒に言った。

「トーマス・バッハ会長」

「正解」

 とトキトオさんが打って変わって可愛らしい声で言った。

「まあ、私たち気が合うかも知れませんね」

 とほんの一瞬、素敵な笑顔を見せて、また真顔に戻った。

「それなら良かった」

 と僕は安堵して言った。世の中にはいろんな気の合い方がある。トーマス・バッハだろうが、アラファト議長だろうが、ブルーハーツだろうが靴紐の長さや太さの好みであろうが、きっかけなど何だって良いのだ。法律で決まってる訳じゃない。要は僕とトキトオさんが仲良くなれればいいのだ。

「でも、あたしが年上だからね」

 とトキトオさんがかすかに胸を張って言った。

「あたしの方が偉いの」

「はいはい」

 と僕は言った。

「はい、は一度でいいの」

 トキトオさん、結構面倒くさいなと僕は思った。

 でもその場はトキトオさんがモスバーガーを奢ってくれた。断ろうとしたけれど、「あたしが年上だから」と譲らなかった。親しくなれると思ったらグイっと踏み込んでくるタイプなのかも知れない。でも一緒に病院には戻らず、「違うバスで戻るから」と言ってモスバーガーの前で別れた。きっと同僚に見られたりするのが嫌なのだろう。

「じゃ」

 とクールに言い放って、トキトオさんは猫が垣根に隠れるようにスルッと人の流れに紛れて行って、あっという間に見えなくなった。僕は腕時計で時間を確認してから、送迎バスの停留所に向かった。それから、自分の足取りがとても軽くなっている事に気が付いた。


 老人達の不吉な咳で満ち溢れている世界の災禍のような待合ロビーに戻ると、数分待つだけで僕の番号が呼ばれた。その間に何度咳が聞こえるか数えていたが、途中で嫌になってやめた。死神の見習いになったような気分になったからだ。

 指定された窓口で、父の入院に必要な手続きを済ませた。結構大掛かりな手術である筈だが、受付の人にとってはそれは単なる一つのオペであり、大変ですね、という労いの言葉もなく、粛々と事務手続きを進めるだけだった。確かに、この病院には切れ痔や淋病、水虫から膵臓癌まで幅広い病人が居て、数え切れない程の手術が行われているのだ。いちいち一件毎に「お気の毒ですね」「お心をしっかりお持ちください」「ご無事をお祈りしています」などと懇切丁寧に言っていたら身が持たないだろう。病気は病気、金は金という割り切りはどことなく池袋の下品な風俗店の外観を思い出させた。

「お支払いはいかがされますか」

 手元の端末を叩きながら、スーツ姿の男性職員が聞いてきた。

「もう料金が決まってるんですか?」

「前金という形でお支払いいただいて、退院後に余ったら返却という形もございますが、あまりそういう方はいませんね」

「じゃあ後払いで」

「現金ですか? カードですか?」

「失礼?」

 僕は聞き返した。

「現金でお支払いか、クレジットカードをご利用ですか?」

 男性が淡々と言葉を足して繰り返した。

「クレジットカードも使えるんですか?」

「はい。VISA、マスター、セゾン、ダイナース、DC……」

「カードで支払います」

 僕は延々と続きそうなカード会社の名前を遮って言った。カードで支払えばポイントが付くのだ。

「かしこまりました。では金額確定次第、お知らせ致します。お父様はお勤めにはなっていらっしゃらないので、市役所で減額申請をすれば大分お安くなると思います」

「それは……」

「詳しくは市役所にお問い合わせください」

 今度は僕が遮られる番だった。


 手続きを終えると、帰る前に父の病室に寄った。

 もう外は陽が傾いてきたので、病院内は白く明るいLEDの光で満ちていた。不思議な事に、そうした人工的な眩さの中を歩いていると、病院内の音がより明瞭に聞こえるような気がした。僕はしばらく父親が横たわるベッドの脇の椅子に座って、そうした触れれば姿形を確かめられそうな音に耳を澄ましていた。ほとんど絶え間なく看護婦の足音や、患者や機器を運ぶ音が廊下から聞こえてきた。しばらくしてベッドの横のサイドテーブルに、母の字で大きく携帯番号と「必ず電話すること!!」と書かれたメモがあるのに気が付いた。そう言えば、母もやってくる約束だったのだ。すっかり忘れていた。


 部屋を出てから母の携帯に電話を掛けると、今主治医と面談させてもらってるから、一緒に来て話を聞いてくれという事だったので、場所を聞いて急いで向かった。


 その面談の内容は、手術を延期するという事だった。手術前の検査で、脳の太い血管にもう数カ所、極めて除去が難しい場所に原因不明の瘤が見つかったという事だった。万全を期す為に、三日程延期するという通達だった。

「ご親族の方々には心身ともにご負担をお掛けすることをお詫び申し上げます」

 と初老の丸い眼鏡を掛けた医師が言った。

「検査の結果によっては、三日ではなく、さらに延期する場合もあります。楽観的な事が言えなくて申し訳ないのですが、長期戦を覚悟しておいてください」

 分かりました、どうぞよろしくお願い申し上げますと僕と母で頭を下げて、退室した。

「じゃああなたは先に帰っていなさい」

 と努めて明るく母が言った。

「もしかしてこの入院は長くなるかも知れないから、あまり最初から根を詰めないようにしましょう」

「分かった」

 と僕は言った。

 まるで他人が発した言葉みたいだった。


 明るく清潔なエントランスで一人でエレベーターを待っていると、中からトキトオさんが降りてきた。トキトオさんはいつも通りの緊張した面持ちで淡い水色の看護服を着て、黒いプラスチック製のバインダーを胸に抱えていた。それから例の暗黒の視線で僕を射抜くと、無言ですれ違った。本人には決して周囲に緊張を与えている意識はないのだろう。何故あんなに綺麗な顔をしているのに、世界を敵に回すような不穏な空気を醸し出しているのだろう、と僕は不思議に思った。トキトオさんがナースステーションで大勢の同僚(そのほとんどが女性だ)と談笑している場面を思い浮かべる事がどうしても出来なかった。馬鹿みたいな煎餅やマカロンなどを囲んで、意味のない世間話に花を咲かせるトキトオさんを僕は遠くから眺めてみたかった。仰け反るように大笑いをして、口元を抑えながらおやつを食べるのだ。トキトオさんは本来そうした姿であって然るべきなのだ。

「ちょっと」

 休憩室で一人でお茶を飲むトキトオさんを、その他多勢の同僚たちが遠巻きにしてコソコソと陰口を叩いている場面を想像して、僕は胸が痛くなった。そんな不当な扱いなんてない。酷すぎる。きっとトキトオさんにはトキトオさんなりの事情がそこにはある筈だ。どうして誰もトキトオさんの悩みを聞いてあげないのだろう? もし僕が同僚だったら、初めから解決なんかを求めていないトキトオさんの愚痴を、ずっとずっと隣でうんうんと頷きながら

「ちょっとってば!」

 シャツの裾を引っ張られて、ようやくトキトオさんが僕に声を掛けている事に気が付いた。

「どうしたの? 何かあったの?」

 トキトオさんがやや心配そうに僕に小さな声で聞いた。

「いや、これから家に帰ろうと思って」

「ひどい顔してる」

 と言ってトキトオさんは何かを言いた気に俯いた。周りの目を気にして、あまり僕との会話に時間を掛けたくない様子が伝わってきた。幸い、周囲には誰も居なかったけれど。

「屋上で待ってて」

「屋上?」

「そう。エレベーター乗って、Rを押すの。降りて待ってて、すぐ行くから」

 小さな声でハッキリとそう僕に告げると、トキトオさんはさっさと足早に事務所の部屋が並ぶ通路の自動ドアを通って去っていった。


 屋上でエレベーターを降りると、通路は真っ暗だった。左右の自動ドアから非常用の照明が漏れて出ているくらいで、空気も幾分下層階よりも濁っていた。今まで巧妙に僕の嗅覚からその存在を隠していた消毒剤とし尿が混ざった病院の匂いがぬるく鼻についた。換気が弱いのかも知れない。目の前に「関係者以外通行禁止」とデカデカと書かれた赤縁の大きなバスストップ型看板が設置されており、膝までの高さの三角コーンでエレベーターの入り口が囲まれていた。背後でエレベーターの扉が音もなく閉まると、さらに周囲は濃密な闇に包まれた。左右を見ても、ずっと遠くまで一定間隔で天井から吊るされている緑と白の「非常口」の連なりしか見えなかった。トキトオさんが本当に「屋上で待ってて」と言ったのかどうか、僕は不安になってきた。でも、確かにRを押して降りて待てと言っていた。アールという言葉は、日常生活であまり発しない。

アールR

 と僕は試しに口に出して発音した。空間は広々としているにも関わらず、僕の声は僕の耳の周辺に留まって、一向に外へ発信されている気配がなかった。やがて、どこかのドアを開けるガチャ・カチ・タンという音が響いて、そちらの方向に視線を向けると、暗い廊下に嘘みたいに鮮やかな黄色い菱形がポッカリと浮かんで、懐かしい声聞こえた。

「ヒガシダ君、こっち」

 その声は親しい秘密を帯びて空間に響いた。僕は三角コーンの間を抜けて、光に向かって歩いていった。


 ステンレス製のドアを通ると、冷ややかな外気に包まれた。陽が傾いて全てが物憂げな黄色に染まる屋上だった。季節外れの冬のセーターに染みたひなたの匂いがした。数段しかないステップを登ると、コンクリートで舗装された広場と、空調の排出口らしい巨大なサイロのような建造物がグロテスクに飛び出していた。その周辺には洗濯物干しが何列か設置されていて、その端の方に数枚のバスタオルが引退試合で敗北を喫したバスケットボール部員のようにぶら下がっていた。

「たまに来る。いい所でしょ」

 僕が言葉を失っていると、トキトオさんは先に立って歩いて、広場を横切ると、もう一度数段の階段を降りて金網製の扉の番号式南京錠を外して中へ入っていった。通風孔の掃除用の細い通用口らしき建物の奥まった場所に、人がひとりすれ違うくらいのステンレス製の下り階段があった。

「ここは誰にもバレない」

 トキトオさんは階段を降りて、その先にあるずいぶん背の高い金網(自殺防止の為だろう)にもたれると、持ってきた小さなポーチからタバコを取り出し、カチカチと二回百円ライターの音を立てて火を付け、美味そうに煙を吸った。そこは十二階建てのビルの屋上から見下ろす絶好の場所で、池袋、新宿方面から心地よい向かい風が吹いていた。トキトオさんが煙草を吸うのは意外だったが、別にどうでも良くなって黙って景色を眺めていた。いちいち話題にするまでもない。金網の先の細かく分断された空は上から下にかけて順に蒼と黄が交差しつつあり、その中間は白く、ビル群の影が地表に色濃く伸びているのが見えた。池袋新宿方面はガスの煙のようなもので覆われていて、その暗いビル群の下を、フロントガラスやリアガラスに夕日を反射させる車が連なってゆっくりと幹線道路を走っていた。通奏低音のように車が道路を渡る音がうねりのように聞こえ、クラックションが時折ピリオドを打つように一瞬響いた。

 トキトオさんは金網にもたれて物憂げに煙草を吸っていた。僕に何かを言いたそうにしていたが、それを自分自身の中でキャンセルし、その印のように時折煙草に口を付け、小さくフッと煙を吐いた。僕はその隣に立ち、金網に手を掛け、景色を眺めていた。何だか男女の別れ話のシーンみたいだな、と僕は思った。確か、こんな歌詞だ。「さようならが 喉につっかえてしまって 咳をするみたいにありがとうって」


「まぁ色々あるよ」

 突然明るい声でトキトオさんが言ったので、僕は思わず吹き出してしまった。

「色々ってなんですか」

「色々、は色々だよ」

 何で笑うの、と僕の肘を軽く叩いて、トキトオさんは僕に背中を向けて煙草に口をつけた。耳が赤くなっているのが見えた。

「父親の手術が延期になったんです」

 と僕は正直に打ち明けた。

「本人は大変だろうけど、手術はすぐ済むだろうし、そんなに入院は長引かないだろうって思ってたんです、勝手に。でも、何だか変なんです。先生が手術を先に伸ばすって言って、母は『入院が長引くかも知れないから』って言ったんです。それでちょっと、混乱してしまって」

 トキトオさんは指に挟んだ煙草の煙を目で追いながら、じっと僕の話を聞いていた。

「何か、すいません。トキトオさんにカルテを盗み見て欲しいとか、そういうつもりで言ってるんじゃないんです」

 うんうん、とトキトオさんは頷いた。

「しばらくこの病院に通う事になりそうだなぁ、って思ったり、大学どうしようかなって考えたりすると、ちょっと色々と面倒になってしまって」

 トキトオさんは「面倒」という言葉でキッと僕を一瞬睨んだ。でも、すぐに目を逸らして煙草に口を付けた。

「それでトキトオさんが言う『ひどい顔』をしてエレベーターを待っていたという訳です。もともとひどい顔ですが」

 トキトオさんは根元近くまで吸った細い煙草を携帯灰皿で揉み消すと、パチっとそれを閉じた。

「じゃあ、しばらくここ使って良いよ」

 とトキトオさんが言った。てっきり慰めの言葉を言われると思っていたので、拍子抜けしてしまった。

「どうしたの? だってしばらくこの病院に通うんでしょ? だったら一人でいられる場所って、すっごい貴重なのよ。煙草も吸えるし、眺めも良いし。個室の患者さんよりVIP待遇だわ、はっきり言って」

 そう言いながら煙草を入れていた小さなポーチを開けて、ライターと煙草を仕舞いながら、カバーがない剥き出しの単行本を取り出した。モスバーガーでトキトオさんが傍に置いていた本とよく似ていた。まだ綺麗なままだった。

「きっと暇になるでしょうから、本も貸してあげる。別に返さなくていい」

 ありがとうございます、と一応僕は受け取って礼を言った。女性はだいたいが人に本を貸したがる性格なのだろうか? スギモト、と僕はふと思い出した。たまらなく懐かしくなった。


「僕も、一本貰って良いですか?」

 トキトオさんは一瞬驚いた顔をしてから、フッと笑って煙草のケースを取り出した。それから僕はトキトオさんと二人で百円ライターでお互いに火を付けあって、しばらく言葉も交わさずに、美しい東京のビル群へと傾いていく夕陽を眺めながら煙草を吸った。色を失っていく景色が煙草の目眩のせいなのか、夕暮れのせいなのか、僕にはその見分けが付かなくて、面倒になって目を瞑った。複雑な幾何学模様だけが瞼の裏にいつまでも残った。








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