3. トキトオ


 二年ぶりのうらぶれた団地の五階に位置する実家は、天井が低く、全てが小さくなったかのように思えた。食事の跡と洗剤と絨毯とカーテンが混ざった匂い、大きなテーブルが殆どを占めるリビングルーム、日焼けが進んだかつての自分の部屋、毎日欠かさず使っていたベッドさえも他人行儀に感じられた。

「戻ってきてくれてありがとうね」

 所在無さげに昼の番組を眺めていると、母が麦茶と菓子を盆の上に載せてテーブルの向かいに座った。

「ちょっと心細かったから助かるわ」

「保険とか書類を提出しないといけないと思って。まあ死ななかったからどうとでもなるだろうけど」

 母は細々とした文字を書く事が苦手だった。

「本当にねぇ」

 父は軽い脳梗塞だった。

 朝方、父が「左の顔がやけに痺れる」と言い出し、やがて呂律が回らなくなった。ボーッと椅子に座って反応が遅い父を心配した母が救急車を呼び、そのまま緊急入院したのだ。

「話は出来るの?」

「何だかボーッとしてるけど、ゆっくりだったら何とか。言葉が普段より三倍くらい時間がかかるみたい。でも、話は出来るよ」

 父は会社を早期退職して、日中はもっぱら散歩とテレビを見るだけの生活だった。電気製品を作る大きな会社に勤めていたが、不況の折早々に会社に見切りを付け、退職金の割増を受けて退社したのだ。僕はまだ高校生で、父は五十代後半だった。

「大きな会社は潰れるな。小回りが効かないし、殿様商売から抜け出せない体質がドーンと骨身に染み付いてる。うん。中小の実力がある細かい精密部品会社は残る。海外で需要がある。大きな会社を通さなくても、今の時代いくらでもどうとでもなる。うん。俺は大きな会社でやってきたが、もうそんな時代じゃない。俺みたいな技術屋はもう、大きな会社じゃ必要ないんだ」

 退職を無事果たした夜、悠々と美味そうにビールを飲む父を思い出した。どことなく清々したという雰囲気があったが、その背中は淋しそうにも見えた。父親が会社について話すのを聞いたのは後にも先にもそれが最後だったし、僕は僕で会社というのモノに対して、漠然としたイメージしか持てなかったのだ。でも、何となく父は会社が好きだったのだろうな、という印象をその時に持った。自分を必要としない会社に対して、寂しい思いを持っていたのではないか。

 母は働かなくて済むのなら、それに越した事はないと言った。父の若い頃からの猛烈な働きぶりはまさに昭和そのもので、休日出勤や残業は当たり前だったからだ。

「お前は金の心配はしなくていい。勉強でも遊びでも、何でもやれ。ただし、悪いことはするな」

 そう一度だけ言われたきりで、父が僕の人生(およそ高校生の僕にとってそんなものは絵画の一部を拡大したような歪なものに過ぎなかった)に口を出すことはなかった。本音を言えば、もう少し相談に乗って欲しいところもあったが、とりとめのない成績(理数系だけは良かった)と、害の無い友人達と付き合っているところから、一定の信頼が寄せられているようだった。

 僕は高校を卒業し、一度就職した。

 友人の繋がりで、ベンチャーゲーム会社に開発技術者として入社したのだ。だが、三ヶ月も続かなかった。今であればその原因は単なるコミュニケーション不足に過ぎないと分かるのだが、当時の僕は初めての社会経験に戸惑い、憤りさえ感じていた。誰も僕に対して手本のようなものを示さなかったし、誰も僕に要求をしてこなかった。そこでは自発的な学びと行動が要求された。まるでロケットから振り落とされ、宇宙空間に放り出されたような感覚に陥った。慣性だけで地球から遠く離れて行ってしまう。そして酸素ボンベの残量を示す手元のランプは赤だ。

 引き篭もりに近い生活を始めた時、初めて父が僕の部屋に来て

「お前、大学へ行け」

 と僕に言った。

「数字が得意だったら理数でも工学でも経済でも何でもいいから、とにかく行ってこい。先の事はそれから考えろ」

 不思議な程素直に、その父からの初めて発せられた命令(少なくともアドバイスではなかった)を受け入れる事ができた。そうして僕は自宅や図書館で勉強をして、一浪という形で身の丈より少しだけ高い大学に入学する事となったのだ。


 夜の間に母親と昔話をしながら、必要とされる書類をまとめた。翌朝、懐かしい皿に載せられたトーストを食べ、一人で父が入院している大学病院へと向かった。その病院は東武東上線に乗って数駅の場所にあった。子供の頃に数回行ったきりで、不安だったので場所はネットで調べておいたが、杞憂だった。とても大きな建物だったからだ。誰でも見れば分かる。にも関わらず、病院への案内はしつこい程至る所に表示され、馬鹿でも行けるようになっている。

「お金が必要になったらこれを使って」

 朝、母が僕に封筒を差し出した。中には十万円が入っていた。

「入院の支度を済ませてからお母さんも行くから、よろしくね」

 母が身の回りの世話、僕が諸々の手続き係だ。


 父が入院している部屋は別館の六階にあるとだけ聞いていたので、専用の送迎バスに乗って建物に向かった。それは巨大な建物で、病院というよりは窓が大きい開放的な市役所を思わせた。混み始めている受付で入館証を受け取ると、エレベーターで六階に向かった。顔の見分けが付かないナースと医師らしき人間が小さな声で挨拶を交わしていた。消毒液と掃除のオレンジの匂いがした。廊下は長く、朝の清潔な空気と光に溢れていた。

 父は入り口に一番近いベッドで、簡素な病院の寝巻き姿に着替え横になっていた。点滴と、それを管理する大きなマシーンがベッドの横にキャスター付きの什器に乗せられていた。鼻の下におそらく酸素供給の簡素な管が装着されていた。

 久しぶりに再会した父は一回り小さくなっているように思えた。目は開いていたが、天井に向いたままで僕に向けられる事はなかった。それから、僕は今まで自分は父に対して、どのように呼びかけていたのかを思い出そうとした。未だ僕が来た事に気付かない父に対して、どう声を掛ければいいのだろう。

「父さん」

 僕は何でもない風に声を掛けた。

 広い額の下にハの字ぼさぼさの眉毛があり、その奥まったところにある目がゆっくりと僕を捉えた。その白目は黄色い斑らとなって、動きは鈍重だった。

「来てくれたのか」

 父はゆっくりと、一文字ずつ確かめるように発音した。表情は嬉しそうでも、悲しそうでもなかった。明らかに以前よりも遅い話し方だった。

「大学はどうした」

「ちゃんと行ってる。手続きを済ませたらまた戻るよ」

 父は僕が留年した時からその進級具合を気にしていた。二年前、僕が留年する事を伝えると、馬鹿野郎と大声を出した。きっと、高校を卒業するまでは何も問題がなかった息子が就職をし、引き篭もって離職をし、大学に入学したものの、留年するという(父にとって)不可解な行動を取り始めた事に、混乱したのだと思う。もしかしたら悲しかったのかも知れない。でも、僕には僕なりの事情があった。

「ちゃんと卒業しろ」

 僕の思い出の中の父と、目の前で横たわる父のどちらが言ったのかは分からないが、そう聞こえたような気がした。病院は特殊な場所だ。ベッドとベッドを仕切る布は大きな窓から射し入る光を柔らかく遮断し、空調でわなないた不思議な模様を作り出した。

「明日しゅっじゅつする。母さんに言っておいて」

「母さんはもうすぐ来るよ。僕はその手続きをしにきたんだ。でも、手術には付き添うから、頑張って」

 父は表情を変えず、じっと天井を眺めながらゆっくりと言った。

「髪がもっとなくなるなぁ」

 それが父なりの冗談だと気付くのにしばらく時間が掛かった。


 ナースステーションで一番窓口に近い場所にいた細身のメガネを掛けた看護婦に問い合わせると、入院・手術の手続きは一階の受付で済ませて下さい、と冷たく低い声で言った。

「結構混み合ってますので、充分時間がある時が良いかと思います」

 それでいて親切だった。メガネの淵ブリッジに指を当て、冷たい声のナースが教えてくれた。もう少し笑顔があれば、きっと綺麗な人なのだろうなと僕は思った。制服もよく似合っている。だが、本人の意思があるとないとに関わらず、緊張感が彼女の周辺に纏わりついている。

「ありがとう」

 と笑顔を向けて礼を言うと、

「どういたしまして」

 と口をへの字口にして固い声で返ってきた。それから、あなたに構った時間が惜しいとでも言うかのように、すぐに手元の書類に目を落とした。胸のバッジにはトキトオと書いてあった。

「あの」

 と僕は再び声を掛けた。トキトオさんは怪訝な目を隠さずに僕を見上げた。

「何でしょうか」

「例えば、お見舞いの花を買うとしたらどういう種類がいいのでしょうね」

 僕は何となく、トキトオさんが気になったのだ。もう少し話をしてみたい。トキトオさんはスン、と鼻を鳴らすと落ち着いた声で答えた。

「生きている花は患者さんに色んな事を考えさせるので、あまりお勧めはしないですね。万が一の場合があった際にも、花だけがその場所に残るんです。ご家族としても辛い思いになるだけなので。せいぜい、そうですね、例えば」

 とトキトオさんは唇の下に人差し指を置いて一瞬考えてから言った。

「せめて造花か、綺麗な風景の写真か、 ──未来への希望」

「ありがとうございます」

 僕はもう一度微笑んで、トキトオさんに礼を言った。トキトオさんは目礼だけして仕事に戻った。「未来への希望」。良い事を言うな、と僕は感心した。でも、本当は彼女は「商品券」とか「現金」と言いたかったのではなかろうか、と僕は予想した。看護師という立場が、彼女に言葉を変化させたのではなかろうか。どことなく、トキトオさんはそうした綺麗事をいうには実際的な雰囲気を纏い過ぎているように思えた。未来への希望商品券。とても好感が持てる。


 実際に、入院の手続きには膨大な時間が掛かりそうだった。新築の市役所のように大きな病院の受付には恐ろしい程の数の人間がギッシリとベンチに腰を掛けており、宙吊りにされたモニターに自分の番号が表示される瞬間を今か今かと待ち受けていた。モニターの番号は昼少し前の時間帯で「214番・Dカウンターへ」と表示されていた。僕の手持ちの券は723番だった。時折、何人かの老人が咳をする音が響いた。入院関係者だけが手続きを待つのではない。初診の患者や、処方箋を待つ患者も等しくここで待つのだ。多くの人達がマスクをしているが、僕は無防備だった。まいったな、と僕は思った。こんな所に三十分も留まったら、世界中のありとあらゆる病を罹患してしまいそうだった。僕は予めこの事態を予測して、マスクを持ってくるべきだったのだ。近くにマスクを販売している簡易自動販売機もあったが、それを買い求めるのは気が進まなかった。それなら、どこかで時間を潰す方が良い。世界のあらゆる病理から離れた場所で。

 気が付くと、腹が減っていた。腕時計は昼を少し過ぎたところだった。僕は歩いてエレベーター前まで行き、病院内のフロアー案内を見上げた。最上階の十二階に食堂があるようだったが、そこで患者や老人達と食事をするのも気が進まなかった。僕は思い切って病院入り口に引き返すと、駅前行きのマイクロバスに乗って出発を待った。

 五月の晴天、平日の駅前は多くの人達が行き交っていた。僕は特に目的もなく、目についた駅ビルの店を見て回って、更なる空腹を待つ事にした。電器屋、CDショップ、本屋、無印良品、靴屋、UNIQLO、ZARA。どれもこれも、普段立ち寄らない店だ。どこの店員も概して暇そうにしていて、僕が商品を手に取って検分しても、全く興味を示さなかった。まるで僕が透明な存在になってしまったのかと錯覚してしまう程だった。彼等にとって、僕はそんなに420万画素の一眼レフを買わない男に見えたのだろうか。それ程までに土色のジャケットを買わない男に見えたのだろうか。一体、彼等にとって、僕はどう映ったのだろう。病院に手続きに行ったものの、あまりの混雑にウンザリして抜け出してきた大学生に見えたのだろうか? 大正解だ。放置してくれてありがたいと思った。何かを買い求める為に店に赴く事はあったが、目的もなく、時間を潰すためだけを目的として店を徘徊するという行為をしたのがいつ振りか思い出せなかった。


 時間が二時を回った頃にいよいよ本格的に腹が減ったので、モスバーガーで食事を済ませる事にした。昼時を上手く外せたおかげで、客は少なく、二階の窓際の席が取れそうだった。

 そこで、見覚えのある女性がハンバーガーに噛り付いているのを見掛けた。トキトオさんだった。

「こんにちは」

 僕はトレイを持ったまま、トキトオさんに声を掛けた。社会で透明な存在として扱われていた僕にとって、知った顔を見掛けるのは心暖かく、嬉しい瞬間だった。

「誰ですか?」

 もっちもっちとハンバーガーを咀嚼しながら、トキトオさんが愛想なく言い放った。上目遣いで、まるで世界の敵が目の前に現れたかのように。


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