2. スギモトが書いた小説は

 僕は歯磨きを終え、顔を洗って身支度を整えた。こういうのは習慣なのだ。一つ手順を変えると、何かがスッポリと抜け落ちたり、同じ事を二度繰り返してしまう事になる。例えば、腕時計を付けずに外出したり、髭を二回も剃ることになる。

 紐付き封筒を開くと、左上を黒い目玉クリップで留められた四百字詰めの原稿用紙が収められていた。パラパラとめくってみると、一枚一枚に黒々とした文字が整然と並んでいた。清書をしたのだろうか。大きな修正の跡は見当たらず、ごく稀に横線で書き損じた漢字をしてある程度だった。手書き文字は破綻しない程度に右肩上がりの字で、トメは躊躇なく、ハライは末端に掛けてのびのびと早起きした休日のように書かれていた。八十枚前後。イラストなどは書かれていない。これくらいなら何とか読めるだろう。何故かわからないが、懐かしい感覚に不思議と胸がざわめいているような気がする。人が書いた原稿用紙の小説など、一度も読んだことがない筈なのに、これはどうした事だろうか。

 僕はいつものインスタントコーヒーを作ってテーブルについた。講義までにはまだたっぷり時間がある。スギモトは果たして、どんな小説を書くのだろう。以下にあらすじを記す。



 クロスロード ◼️作・スギモト ユウコ


 八十年代、アメリカ・アリゾナ州(と僕は思った)。主人公は三十代後半を迎えた白人の主婦で、清掃員の旦那とはとうの昔に倦怠期を迎えている。子供はいない。主婦は生まれつきの糖尿病を患っていて、毎日決まった時間にインシュリンを打つ。主婦は夫の出勤後、自宅で近所の中古車ディーラーの従業員の青年と逢瀬を重ねている。もちろん、そんな事は長くは続かない。

 ある日偶然早めに帰宅した旦那はその逢瀬を目撃してしまう。当然青年と殴り合いになり、突き飛ばされた旦那はテーブルの角で後頭部強打して死亡する。

「クソ! 殺す気なんかなかったのに!」

「いいから逃げましょう!」

「終わりだ、人生終わりだ!」

「早くズボン履いて! 車のキーはどこ!?」

 着の身着のまま、それとなけなしの現金と銃(ベッド脇のサイドテーブルに隠されているのを主婦は知っていた)を持って青年の旧型シボレーに飛び乗ると、二人の逃避行が始まった。


 目指すは隣の州、ニューメキシコ。移民溢れる、混沌の街。そこでは人権は5ペンス通貨と同等の価値で扱われる代わりに、警察当局の力が及ばないスラム街がある。二人はそこで愛し合いながら暮らしていくのだと誓う。

 道中で金が無くなり、止む無く拳銃でうらぶれた商店を二人で強盗などをしてやり繰りする。二人には指名手配が掛かっており、一人殺したら何人でも一緒というような高揚感に包まれている。だが、二度と殺人は犯さないと二人は誓っている。安いサングラスを買い、日焼け止めをお互い塗りあって、酒を飲みながら車を運転し、ヒッピー村で草を分けてもらいながら、ガタピシとシボレーを走らせる。道中二人はセックスをしたり、お互いの嫌な所を大声で言い合ったりする。喧嘩もする。そして、紙に包んだ酒瓶を二人で回したり、一本の煙草ラッキーストライクを交代して吸ったりして仲直りをする。逢瀬を重ねていた頃よりも二人はイキイキとしている。

「どうして最初からこうやって生きなかったのだろう? 本当に、今までの私達ってバカみたいだと思わない?」


 終わりは突然やってくる。

 薬局で強盗をしている最中、見張り役の主婦が近づくなと何度も警告したにも関わらず、耳が聞こえない黒人の子供がポケットに手を入れたまま寄ってきたのだ。子供は喚く主婦を落ち着かせようと、ポケットからチョコレートバーを差し出そうとしていただけだったのだ。そんな事を知る筈もない主婦は取り乱し、また、突然のインスリン切れの痙攣から、ついに子供を撃ってしまう。倒れた子供の手にはチョコレートバーが握られていた。呆然とする主婦を抱え、青年は逃走する。スラム街の人気のない裏路地で主婦は震えている。初めて人を撃ったこと、そして以前堕胎した経験があった事を告白する。青年はじっとそれを聞いてやる。主婦の痙攣が激しくなる。持ってきた物は全て使い切ってしまっていたのだ。長く放置は出来ない。青年は主婦を車に連れ戻し、あらゆる場所に手を入れて甘い物を探すが見当たらない。止むを得ず再び薬局へ向かう。そこ以外に手に入れる場所はない。警察が大勢いる。実況検分をしている。目深に帽子を被り、インシュリンとチョコレートバーをクシャクシャの紙幣で購入した青年は、「死んだのか?」と警官に尋ねる。「死んだ。年端も行かねえ子供だ。ここいらじゃよくある話だが、辛いもんだ」


 店を出てしばらく歩くと、後ろから刑事が青年に近づいて警告する。そんなの、バレない訳がないのだ。

「動くな。子供を撃った連れの女はどこだ?」

 男は刑事を殴りつけて逃走する。背後から何発か打ち込まれるが、何とか主婦が休んでいるシボレーまでたどり着く。

「インシュリン持ってきた。使ってくれ」

「ありがとう。あの子は、あの子は?」

「命は何とか取り止めたらしい。お前は誰も殺してない」

 青年は咄嗟に嘘を付く。

 安堵して泣き咽ぶ主婦。青年は背後に警察の気配を感じ取る。もう長くは隠れていられないだろう。ニュー・メキシコは目と鼻の先なのに。青年は舌打ちをし、覚悟を決める。

「早く打て。それから、早く逃げろ」

「どうして一緒に逃げてくれないの? 私を一人にするつもり? そんなの嫌よ、絶対に嫌!!」

「もう逃げられない。お前だけでも逃げろ」

「いやよ、私のお腹に、あなたの子供が……」

「良いから行け! そんな子供は知らん!」

 泣き叫ぶ主婦を押さえ付けて、インシュリンを無理やり注射してやる。

 陽が暮れ始め、あらゆる影が不吉に長く忍び寄る。


 大人しくなった主婦とシボレーを後にすると、青年は警察を引きつける為に反対側の路地裏に一人で入っていく。途端に多数のスポットライトが当たる。

「跪け、手を頭の後ろで組め!」

 青年が跪く。

「落ち着けよ、良いものやるからさ」

 そして不敵な笑いを浮かべながらゆっくりとポケットに手を伸ばす。

 響き渡る銃声。

「落ち着けって言ったろう」

 一口だけチョコレートバーを口にして青年は死ぬ。

 主婦はシボレーのエンジンを掛け、背後に青年が射撃される銃声を聞きながらスピードを上げる。前の交差点クロスロードに設置された信号機が示す色は赤だ。だがその先には楽園がある。狂気のスピードで交差点へと突っ込んでいく。慣れ親しんだシボレーのエンジンが最後の仕事とばかりに、狂おしくうねりを上げていく。

「あたしは生きる! 一人じゃない!」

 こうして夜は明けていく。逡巡する暇はない。ニューメキシコ。


 ◼️



 読み終わった後、出席する予定だった講義の時間から大きく過ぎている事に気が付いた。マグカップのコーヒーもたくさん残ったまま冷えてしまっていた。続きはどうなるのだろう、と僕は気に掛かった。主婦はそのまま逃げ切れたのだろうか? 何故ここで終わらせてしまうのだ。僕は思わず煙草を探した。そして三週間前にやめた事を思い出した。僕はモヤモヤした気持ちを抱えたまま大学へ向かい、学食で食事を済ませ、残りの三限と四限に出席した。その間、休憩時間中に無意識にキャンパス内に目を配り、スギモトの姿を求めた。


 だが、スギモトと話をする機会はやってこなかった。

 いや、一度だけ大学のキャンパス内でスギモトを見かけた。僕はアパートに帰る所だった。新しくできた学食の手前で、スギモトは友達らしき女性と二人でいて(姿格好がよく似ていた)、日当たりの良いベンチで談笑していた。

「スギモト」

 と僕は声を掛けたが、スギモトはチラっと目をやっただけで、僕の事を無視した。

「友達?」

 スギモトの連れの友達が気を使って聞いてくれたが、スギモトは険しい目つきをして

「違う。何でもないの。行こ」

 と言って、大きいトートバッグを勢いよく肩に掛けると、僕に一瞥もくれずに去っていった。

「何か、ごめんね」

 とその友人は僕に苦笑いをして、その後を追っていった。

 そうして僕は、思っていたよりも深くスギモトを怒らせてしまった事に気が付いた。スギモトの小説は未だ手元にあった(あれから一週間経っていた)し、何度か読み返してすらいた。その感想を伝えたいと僕は思っていたが、スギモトはそんなのどうでも良い、聞きたくないといった風に僕の事を無視した。おい、主婦は無事にニュー・メキシコに辿り着いたのか? いきなりそんな事をスギモトの目の前で口走る訳にはいかない。そこには、ある程度の親密で、信頼できる距離感が必要であるように思われた。それくらい、僕にだって分かる。

 だが、その後のゼミでもずっと席は離れ続けたし、終わった後の僕の家で恒例となっていた勉強会も勿論無くなった。まるで、スギモトは僕をいないものとして振る舞った。まいったな、と僕は思った。僕には思っていた程友達がいなかったのだ。スギモトがいない僕の生活は意外な程静かで、僕はトランジスタ・ラジオの分解と組み立てを心ゆくまで楽しむ事ができた。最初から知っていたが、それは何の生産性もない作業でしかなかった。正義の兎、ピョンピョン星人さえ懐かしく思えた。あれはなかなか可愛かった。目もいい感じで互い違いだった。「正義をたっぷり溜め込んだ兎の穴ラビットホールにようこそ!」 スギモトの変な声さえも聞きたくなる。「死にたてホヤホヤのモグラなら、さっき血抜きをしておいたよ!」

 そのようにして一ヶ月が過ぎていった。まあいいや、と僕は思った。その時は、すぐにまた仲直りができるだろうと思っていたのだ。だが、その機会は遠く訪れなかった。五月、父が倒れ、僕は実家に戻らねばならなくなったのだ。

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