文学性の女
江戸川台ルーペ
1. 文学性の女
「ありありなしなしありなし」
少し高めの声で、スギモトが早口に評価した。
「なしありありなしなしありあり」
「何が?」
と僕が隣で熱心に続けるスギモトに問いかけると、小さい声で答えた。
「文学性が」
その時僕たちは喫茶店のショーウインドウを眺めていた。春のうららかな日和で、少し早めの昼食をとろうとしていたのだ。東京ミッドタウン界隈のカフェのよく磨き込まれたショーウインドウには、いかにもインスタ映えしそうなメニューが並んでいた。手書きのメニューには英語で表記され、その下に日本語が併記されていた。
Humberg steak ハンバーグ
Omelette rice オムライス
と言った風に。
僕は一文字ずつそれらを丁寧に目で追ったが、特に文学性のようなものは感じられなかった。オムライスという片仮名の名称表記に対して、アルファベット表記は幾分お洒落な雰囲気がするな、と思った程度で、それからオムライスが「オムレツ」と「ライス」の存在に分けられている事に気が付いた。だが、その程度の発見をいちいち口に出していうべきかどうか、僕にはわからなかった。それは僕という健康な二十四才の男性が、三つ年下の女の子とデートらしき事をしている最中に発見した物事として、話題にするには幼すぎるように思えた。実は、僕は他にも大きな発見をしていたのだ。それは例えば、普段何の飾り気もないスギモトから流れてくる爽やかな良い香りであるとか、今まで巧妙にその姿を隠していた、しっかりとその存在を主張する柔らかそうなタートルネックが張り出す胸に目が行ってしまう現象であったりした。しかしそれを話題にする訳にはいかないだろう。天気やらクレソンやら付け合わせのセロリについて語る方がいくらか健康的だ。
僕は煙草をやめて三週間目で、その離脱症状のせいか慢性的な眠気を感じていた。あるいは軽い花粉症なのかも知れない。目を掌の付け根の方でゴシゴシと擦って、注文したメニューの到着を待った。僕はビーフシチューとサラダ、スギモトはオムライスとAセットのオニオングラタンスープ、フレッシュトマトサラダ。僕は眠気覚ましにコーヒーが飲みたかったが、それはやめておいた。何となく、食事前のコーヒーはマナーに反しているように思えたからだ。
「今日は付き合ってくれてありがとう」
スギモトが人懐こい微笑みを浮かべながら言った。僕とスギモトは大学の同じゼミに所属していて、教授が退職する祝いにネクタイを贈りたいというスギモトの提案だった。
「いいよ。久しぶりに都内に出れたし」
と僕は言った。
「僕はそれ程教授と親しかった訳じゃないけど」
「あたしはあの教授好きだけどなー」
「みすぼらしい老犬みたいで、放っておけない感じが?」
「
両手で頬杖をついてスギモトが笑いながら言った。
瞳が大きく、目尻がやや垂れていて美人というよりは可愛らしい、人懐っこい顔をしている。厚底のキャメル色のブーツを履き、長いジーンズ地のスリットスカートを身につけ、無地の白いカシミアのタートルネック。今は脱いでいるが、カモフラージュ柄の地厚のパーカーをその上に羽織っていた。髪は黒く引っ詰めており、ついさっき化学研究所の会議が終わって、帰り支度を始めた新進気鋭の若手研究員のような髪型をしている。今の流行なのかも知れない。
「キシマ教授には、小説をみてもらってるの」
運ばれてきた
「しょうせつ」
僕はおうむ返しをした。サラダを食べ終えて、ビーフシチューと対面する所だった。キシマ教授は、どこかの物好きな日本人がわざわざ英語で日本民族の特徴についてしたためた本を研究するゼミを担当していた。我々はそのゼミ生であり、やや異色な講座ではあったが、まさか教授が教え子の小説をみる程とは思えなかった。なぜなら、
「もしかして僕がうっかりしてるだけかも知れないけど」
僕は熱いシチューを呑み込んだ。それから水を飲んだ。コーヒーが飲みたい。眠気が活火山振動のように僕の奥底の底から不吉にこちらを伺っているのが分かる。
「僕達って文学部経済学科だったっけ?」
「そんなのある訳ないでしょう」
ユウコは呆れた声で言った。
「糞みたいな経済学部経済学科。特に大切な事でも無いのに二回も『経済』って繰り返す、芸のないあたしたちにとって相応しい学科」
「じゃあ何で教授に小説何か見せるんだよ」
「経済学がつまらないからよ」
当然のようにスギモトが言い放った。
「ハンバーガー一個に対してポテトフライ二個と交換しましょう。x軸とy軸をとってグラフにしましょう。ねぇ、もしポテトだけじゃなくてチキンナゲットも食べたかったらどういう風になる訳? ハンバーガー一個に対してポテトフライが1.3とナゲットが0.7? だって一口だけナゲットが食べたい時だってあるじゃない。それが人間っていうものでしょ? ファックよ、そんなのファック。控えめに言って豚も食わないわよ。言っておくけどね、あたしは数学が世界で一番嫌いなの。分数の掛け算と割り算を考えた奴の顔面に巨大な水虫が出来て今すぐ死んで欲しい」
およそオムライスを食べるに相応しくない眼光の鋭さとかわいい声で、スギモトが誰かに呪いを掛けた。
「多分、だいぶ前に死んでると思うよ」
僕は眠気が引いた感覚を得ながら続けた。
「ここは経済学部だ。君もわざわざ早起きして電車に乗って試験会場へ行って、いちいちご立派な入試を突破して入学してきた筈だ」
「そこなのよ」
スギモトがモグモグとオムライスを咀嚼しながら落ち着いた声で言った。美味しそうだ。頑張って低い声を出しているが、やはり高い。
「英語・国語の二科目で合格したの」
「結構倍率高めの入学方法だよね」
僕は友人から又聞きの情報を思い出して言った。
「あたしだってこんな情緒のない学部になんか入学したくなかった。他の大学で文学部に合格してたの。でも両親が『文学部何てダメだ。将来食いっぱぐれる』って。じゃあって言って、一応ここも滑り止めの滑り止めで受験してたんだけど、合格したら両親喜んじゃって、喜んじゃって」
「へえ」
モグモグ。
「その喜びようを見てたら、何か文学部へ行くって言いにくくなっちゃって。この大学は遠いから、『もし一人暮らしさせてくれるなら文学部は諦めるよ』って無理難題を出したら、両親はあっさり『いいよ』って。まったく、どんだけ娘に文学やらせたくないのよ。それで、あたしは文学部にさようならを告げて憧れの一人暮らしを手にしたって訳。楽しかったのは最初の三ヶ月だけ。母に感謝」
「おめでとう」
確かにスギモトは世間擦れしてなさそうに見える。っていうか、背も小さく華奢で(胸を除けば、という話だが)中学生か高校生に見える。両親としても娘を一人暮らしに送り出すのには大きな決断が必要であったに違いない。狼の群れに大切な娘を差し出すようなものだ。それ程までに、娘が望む文学部に進学させたくなかったのだ。
「でもあたしはやっぱり小説が書きたいと思うの。何故かは分からないけど、使命のようなものがまっすぐあたしに指を指して『書きなさい』って言ってるような気がする」
「悲劇の始まりにしか思えない」
「ちょっとやめてよ」
スギモトが顔をしかめた。
「悲劇のヒロインって柄じゃないんだからあたしは」
「ヒロインにしては声が高すぎる?」
僕はからかった。
「もう。気にしてるんだから!」
プン、とスギモトは怒った。怒ると声は高くなるが、本人は気付いていないのだ。
「ごめんごめん。でもさ、もしかして、悲劇って意外と目を凝らせば見えるモノなんじゃないかな。例えば必修科目内容を先にチェックして、『ミクロ経済学』『マクロ経済学』っていう、いかにも不吉な名詞が連なっているのを発見しておけばさ」
「 ──近視眼的な見方も必要なのよ」
スギモトが目を逸らし、美味しそうに煮込まれた大きいジャガイモにフォークを突き刺しつつ言った。
「物語には」
僕が助け舟を出した。
「物語には」
ユウコがピースサインを作りながらニコっと僕に微笑んだ。
「あなたには文学性があるかも知れない」
「それは嬉しいね」
僕は右手を上げてウェイターを呼び、ホットコーヒーを注文した。
実際のところ、スギモトに勉強を教える側になって、僕の成績も上がっていった。週一回のゼミが終わった後、大抵僕のアパートにスギモトが来て、小さなテーブルの上で二人で勉強した。スギモトは国際政治経済、語学などの成績は良かったが、やはり数式を使うミクロ経済、マクロ経済が壊滅的だった。
「初級の数式だよ」
僕は辛抱強く説明した。
「難しく考えなくてもいい。中学生レベルの基礎なんだから」
「お願い、今すぐ死んでくれる?」
スギモトが頭を掻きむしりながら弱々しい声で言った。
「数字はいいぞ。2はどこまでも2だ。
「うるさい考えてるんだから黙ってて」
それからスギモトはテキストを参考にしながらコキコキと無地のキャンバスノートに音を立て数式を組み立てて行き、一瞬シャープペンの動きが止まるとやがてそれは不思議な曲線を描き初め、コミカルな兎の顔のような絵を作り出した。
「兎だな」
と僕は言った。
「あなたに兎に見えるのなら、これは兎なのかも知れない」
スギモトが真剣な顔をしてシャープペンシルを動かす様子を僕はじっと眺めた。兎は完成しつつある。
「でも、こうは考えられないかしら。これを兎と認めたあなたは、潜在的に兎を追い求めている。歪んだ像を結ぶ世界の中で、兎が厳しい冬を越す為にせこせこと真実をたっぷりと溜め込んだラビットホールにいざ飛び込もうとしている」
キュッキュッと最後に髭を六本書き終えたスギモトが真剣な声で言った。
「今は数式を用いてGの値を求める作業中だったんだけど」
僕は冷静に事実を述べた。
「メタファーとしての兎はこのノートの住人であると同時に、私が生み出した正義の極悪ピョンピョン星人である。やがて人間どもの抱える悪、煩悩、消費税、意味のわからない居直り強盗のような国民年金を全て人参と変え、自らのハラワタに送り込むであろう」
「正義の極悪とは」
「正義の為なら見境なくなっちゃうウサギなの。ほらよく見て。このウサギ、ちょっと目が互い違いでしょう?」
トントンとシャープペンシルでウサギの目のあたりを指し示した。僕は少しイラッとした。
「じゃあ休憩しようか」
「あたし紅茶」
スギモトはそう所望する声を上げるとバタリと顔をノートの上に乗せ、シネシネシネと小さな声で数字を呪い始めた。僕はその声が背中から右斜め上にある換気扇に吸い込まれていく様子を思い浮かべながら、ヤカンを火に掛けた。
僕の文学歴は皆無に等しかった。教科書に載っているものを読んだ程度で、それらの文章に感銘を受けた事はなかった。小学生から高校生あたりに掛けて、戦争の悲惨さを訴えたい文章や、自制心がいささか強過ぎる傾向にある書生が自殺する暗い話などを読んだ。それらは例えるなら、運動会の開会式での校長先生の祝辞や、それを聞きながら校庭の砂地に足で描かれた意味不明な図形と同等に価値がなかった。だから、呼び鈴が鳴って玄関を開けた時、スギモトがギッシリと本を詰め込んだデパートの紙袋を抱えて立っていた時は
「帰れ」
と素直に、極めてスムーズに口から突いて出た。僕はその時、大学の三限の講義が終わって昼食を学食で食べ、アパートに戻ってから心穏やかにトランジスタ・ラジオを分解していたのだった。趣味が電気製品の分解なのだ。ジャンク品を買い求めて、一度分解し、組み立て直す。壊れているものを修理する訳でもない。全く意味がない、ただの作業だ。誰にも迷惑を掛けないし、時間も潰れる。それだけがこの趣味の美徳であり、美点だ。
「なんで帰らなきゃいけないの」
スギモトはきょとんとした顔で僕に聞き返した。
「今来たばっかりだよ?」
「本は読まない。持って帰れ」
「まあまあ。まあまあ。そう言わずにちょっとだけお姉さんの話をお聞きなさいな」
「年下だろ」
スギモトはニコニコと顔を綻ばせ、玄関でサンダルを脱ぐと僕の脇の下を通り抜けてとっとと僕の部屋に上がりこんだ。
「ちょっと何よこれ。ラジオの分解?」
僕はため息をついた。
「うわ、小さッ! 細かッ」
「触るなよ! 部品が無くなったら元に戻せなくなる」
僕は慌ててテーブルに戻って、並べた部品と本体を注意深く別の場所へ移した。
「本当に変わった趣味よね」
「放っておいてくれ」
仕方がないのでコーヒーと紅茶を作り(もちろんインスタントだ)、いつものテーブルの上で話を聞く事になった。スギモトは一冊ずつ本を取り出し、語り出した。僕でも名前を知っている有名な作者の本が数冊混ざっていたので、説明を聞きながらパラパラとめくってみた。
「この本はね、十八世紀のロシアで書かれたものなの」
「長くてシツコイし、登場人物も多いけど読み終わったらすごい」
「これは日本人がノーベル賞をとった最初の人が書いた本」
「あたしはそんなに文学性は感じないけど、評判は良いみたい」
「これ書いた人は自殺したの」
「きっと昔は暇だったから、一つの事を考えたら行くところまで行かざるを得なかったんじゃないかな」
「頭の良い人は、国を憂える義務があるって考えがちなのよね」
「みんなモクモク煙草を吸って、当時携帯電話もなかったから、一箇所に集まってあーだこーだとブンガクについて語ってたわけ。いい歳こいたおじさん達が、その場に居ない人の悪口言ったり、質の悪い日本酒を呑んでしょっちゅう電柱の根っこにゲボを吐いていた。ねえ知ってる? 日本の電柱が高くなったのは、文学者のゲボを養分にしていたからなのよ」
「あたしはそういう時代に憧れる。夜はずっと今より深く暗くて、孤独だって今よりずっと、日が昇る前の紫色みたいに研ぎ澄まされて、携帯電話で安く慰められなかった時代。だから書かずにはいられなかった。そうしないと自分がここに存在する意味が繋ぎとめられないって真剣に思っていた。そんな人達が書いた本を読むと何というか、何て言うか……」
スギモトは興奮気味に話していたが、そこでハタと言葉を止めた。
僕はテーブルに片方の肘を付いて適当に本をめくりながら(概ね保存状態は良好だった。メモ書きなども書き込まれていない)聞いていたので、スギモトが黙り込んだ事にしばらく気付かなかった。
「どうした?」
とスギモトに視線を向けると、顔を真っ赤にして両手で覆っていた。
「作者と、誰かに、長い、ながい、手紙を書きたくなる……」
か細い声で捻り出すような声で言うと、今度は恥ずかしい恥ずかしいと大きな声で呻きながら足をバタバタさせ、テーブルの上にうつ伏せた。Tシャツの浅い襟首から露わになったうなじまで真っ赤に染めたスギモトを、僕は可愛いなと思った。一体何に対して恥を感じているのかは、よく分からなかったけれど。
「君が文学が好きなのはよく分かった」
「恥ずかしい……恥ずかしい……顔赤い……」
自分の手を団扇のようにしてパタパタと煽りながらスギモトはまだ取り乱していた。
「でも、やっぱり本は持って帰って欲しい。僕は参考書とか、漫画とかなら読むけど、文学みたいなやつは読みたくないんだ」
「えー、何でー? 文学性は伸びるよ?」
素っ頓狂な声を上げた。何となくその無邪気さが気に障った。
「文学性って何だ? 大体さ、国語のテストからして気に食わなかった。縦線を引っ張って、『この時吉作が(棒線A)と述べたにも関わらず、皆から隠れて涙を流した理由を、三十文字以内で書け』とかさ、『この作品の主題を「貧困」「思いやり」「父との思い出」の語句を用いて、五十文字以内で表せ』とかさ、何様だよって思ってた。作者でもないどっかのおっさんが、『この作者が言いたい事は……』何てさ、したり顔でテスト作ってるんだろ。笑えないよ。全然笑えない。僕にとっては、作者が言いたい事なんかテストの点数稼ぎ以上でも以下でも無いし、予備校じゃあその『主題』とやらの導き方をテクニックとして教えてる。百歩譲って出題者が作者本人ならともかく、『ふむふむ。これは子供達にとって大切な事だから、いっちょうこの部分から出題しておこうかな』って、そういうキョウイク然とした誰ともわからない上から目線がもう臭くて臭くて、腹がムカついてた。放っておいてくれ。率直に言って反吐が出る。お前は一体誰なんだって思う」
スギモトが溢れそうな大きな目をして僕を凝視していた。僕はしまった、と思った。その顔はいささか傷ついているようにも見えたからだ。でも、もう止められない。
「朝は希望に満ちてるだろうか? 絶望を感じる人だってたくさんいる筈だ。雨の日は憂鬱だろうか? 雨の休日に心安らぐ人だって大勢いるだろう。戦争は悲劇だ。知ってる。だから
文学に全く興味のない男に押し付ける女のように、と言い掛けた所で僕は言葉を呑み込んだ。流石にそれは不味い。
でも手遅れだった。
スギモトは溢れそうに大きい瞳に涙をたっぷり溜めていて、瞬きをすればスルリとそれは頬を伝うばかりになっていた。口をへの字に結んで、ワナワナとさせていた。勘が良いのだ。
スギモトは乱暴に本を袋に詰め始めた。
「よぉーく分かりました。あなたが理屈っぽいって事。目に見える物事以外、何にも意味が無い思ってる超絶ド級の俗物であること。偏屈で視野狭窄で大した取り柄もない癖に自分が一番偉いと思ってて、そりゃあまあ、一浪もするでしょうし!? 二回も留年するでしょうし!? 友達も一人もいないでしょうなァ!」
スギモトは語尾に向けてだんだんと感情を昂らせながら言い放った。
「人には事情っていうのがあるんだ。友達は何人かいる」
僕も少し傷つきながら言った。スギモトが鼻と目を真っ赤にしながら僕を睨んで大声を出した。
「うるせぇ! 死ね!」
「悪かった、悪かったよ」
僕はその剣幕に気圧されて謝った。スギモトは本当に傷付いているように見えた。好きなものを馬鹿にされるのが嫌だったら、最初から自分だけで楽しんでいればいいじゃないか、と僕は思った。例えば、古いトランジスタ・ラジオを解体して、組み立て直すみたいに。そこには何の意味もなければ生産性もない。馬鹿にされても仕方がないし、人に勧めようとも思わない。なぜ勝手に人に勧めて、否定されたら怒るのだろう。あまりに身勝手ではないか。
グスグスと鼻を鳴らしながら本を詰めている子供みたいなスギモトを見ながら思ったことは、概ねそのような事だった。でも、僕は次の瞬間、思ってもいない事を口走ってしまった。
「スギモトが書いた小説なら読む」
スギモトは手を止めて、鼻を大きくすすって大きな瞳を僕に向けた。
「短編……だとありがたい」
僕は自分で言い出した事が自分でも理解できず、思わず条件を付けた。長い小説を読んだ事は数える程しかなかったし、やはりそれも友人に勧められたもので、最後まで読み通すのにかなりの苦労をした事を思い出したからだ。
「短編……」
鼻を啜りながら、僕を下から睨み上げるようにスギモトが呟いた。
「短いと嬉しい。あんまり長いと、多分眠たくなってしまう」
スギモトが唇に指を当て、眉を潜めて考え出した。
「え、無いの? あるだろ?」
「いや、あるにはあるけど……何をもってして完結済みの短編とするのか……」
「あんまりそういう事を言わないでくれ」
僕はコーヒーが無性に飲みたくなった。
「何をもってして、とか、良くも悪しくも、とか、限りなく透明に近いとか、そういうの苦手なんだ」
こうしてスギモトは重たそうに紙袋を抱え、眉間にシワを寄せブツブツと「最後のはちょっと違うんじゃないかしら」などと言いながら帰っていった。僕はその小さな背中が思慮深げに揺れて去っていくのを玄関先で見送って、ホッと息を付いて玄関を閉めた。
翌朝、何かがギッシリと詰め込まれた特徴のない茶封筒が僕の玄関ドアの新聞受けに突っ込まれていた。僕はそれを歯ブラシを咥えたまま、途方に暮れて眺めていた。なぜ、なぜ呼び鈴を押さないんだスギモト。
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