18. トキトオの計画、蝋燭の炎のように

「あたしは男を殺そうと思った」


 トキトオさんが再び語り出した。僕は運転手がこの話に聞き耳を立てているか気配を伺ってみたが、彼は気持ち良さそうに、やや前傾姿勢で愛おしそうにハンドルを握って、細かくギアチェンジをしているだけだった。後部座席の我々の話には興味がなさそうに思えたが、あるいは、深夜のタクシー運転手がそう装う事に長けているだけなのかも知れなかった。

「でも、どうやって? 奴はあの重たい扉の奥にいる。そこを通るにはお局の厳しい目でチェックされる。お局は上の人達からあの男を周囲から隔離するように強く言い含められている筈だし、それを頑なに実行するだろう。報復を試みる可能性がある私を、やすやすと男に近付けたりはしない。もしかして、職場からあたしを排除する為に、もっと執拗に追い込むかも知れない。そうすると男を殺すのは難しい状況になる。 ──あたしは少し考えて、お局のところへ行って謝る事にした」


「謝る? トキトオさんが?」

 僕は思わず聞き返した。トキトオさんがお局に謝罪する理由が思い付かなかったからだ。

「私が身勝手な行動を起こしたばっかりに、同僚や、イナガさんに迷惑をお掛けして大変申し訳ございませんでした。つきましては今後心を入れ替え、患者の皆さんを始めとした、この施設で働く方々の為に力を尽くす所存でございます。イナガさんにおかれましては、どうかこの不甲斐ない私をお許しいただき、そして協力させて頂きたく存じ上げます。イナガさんのお力添えをさせていただく為に、私は何なりとやらせていただきたいですって、あたしはお局の前で土下座をして謝罪した。珍しく、お局が動揺している雰囲気があった。それはそうよね。自分自身の判断でリコをあの男に差し出し、それから私までもあの男に差し出し、酷い目に合わせた。きっとあたしが足腰も立たないくらい精神的に崩壊して、リコみたいに誰にも何も言わずここから退場する事を期待していた筈よ。お局は『まずは怪我を治しなさい』って平静を装うようにあたしに言って、どこかへ去った。ありがとうございます、ってあたしは大袈裟に御礼を言ったわ。大袈裟に何度も何度も、涙さえ浮かべて。内心、あの腐れ男に雌豚よろしくブウブウ鳴かされてた単なる肉の癖によく偉そうに言えるじゃんって軽蔑しながら。でも今は忘れておいてやる。リコを貫いたあの男を殺す事が最優先だから」

「分からないですね、何でトキトオさんが謝る必要が?」

「あたしの気持ちなんかどうでも良かった。あの男を殺す為だったら、あたし自身の事何てどうでも良かった。素直で従順なトキトオさんであれば、奴を殺すチャンスが広がる。落ち込んでいれば、あたしは自然と退場させられるだけ。代わりに新人がやって来るだけ。そんなのは絶対に嫌だった。復讐のためなら、何だって捨てて良かった」

 僕は曖昧に頷いた。


「まとまった休暇を貰ったのは久しぶりだった。その間、実家に戻ろうかとも思ったのだけど、思い直して寮に留まった。一回外へ出たら、もう戻りたくなくなってしまうかも知れない。意思に身体がついていかなくなるかも知れない。父や母の顔を見たら、立ち直れなくなる程泣いてしまうかも知れない。そうしたとめどない疼きのようなものが胸の奥でこわばっていた。泣いてしまいたい。誰かの前で。でも、それにはまだ早い。


 だからあたしは自分の部屋で体を休めた。

 ものすごくたくさん眠った。自分でも何故こんなに眠れるのか不思議だった。横になって目を閉じると、眼窩の奥から睡眠を誘う線が地球の真ん中まで結ばれてるみたいにあたしは眠る事ができた。悪夢にうなされる事もなかった。目が覚めると部屋に食事が用意されていて、それを食べた。食べて、眠って、食べて、眠って。それからようやく、時々ストレッチをして身体を解す位にまで回復してきた。身体自体は元気なのよ。多少、跡は残っていたけどね。でも、それを動かすには意思が必要で、取り戻すには睡眠しかなかった。あたしの本能がそれを望んでいた。


 徐々に自分を取り戻してくると、準備を開始した。自分の部屋に篭り、鏡を見ながら化粧をしっかりと怠らず、微笑みを作る練習を鏡に向かって何時間もやった。鏡に映ったあたしの顔は、まさかその内側に殺意を秘めているようには見えなかった。笑顔を1分キープする間、あたしはその脳内で何度も何度もあの男を殺した。その度に笑顔はより深まり、自分以外の者に対して慈しみや癒しを与えているかのように見えた。

 全身のストレッチや筋肉トレーニングも欠かさず入念にやった。毎日健康的な汗を流した。肌の艶が徐々に戻り、健康的な顔色を徐々に取り戻していった。人が一番少ない時間帯に入浴し、食欲は一切湧かなかったけれど、義務だと思って無理矢理ちゃんと食べた。もう絶対に暗い顔はしないと心に決めた。そんな事をした所で、何の意味を為さないから。表層でこの胸に秘めた怒りや殺意を誰かに示すメリットは、考えれば考える程無かった。


 職場に復帰すると、明るい顔をしているだけで自然と人と関わる事が増えた。せっかくなので、情報を得る為にも、積極的に同僚とコミュニケーションを計るようにした。みんな生まれ変わったみたいなあたしを見て驚いていた。まあ生まれ変わったっていうか、元の私に戻っただけなんだけど。もしかしたら気が狂ったと思われていたのかも知れない。それはそれで全然構わない。全ては目的の為だけに費やされた。でも、お局だけはいつまで経っても私に対する警戒を怠らなかった。本当に注意深い性格なの。私をあの男の前に再び突き出すような事はしなかった。ただ、多少は引け目を感じているのか、以前のようにあたしを怒鳴りつけたりする回数も減った。


 どうやら、同僚たちはあらかたあの男にヤラれてるみたいだった。お互いがそういう話しを赤裸々にしている訳ではないのよ。ただ、昨日の夜は◎さんが夜勤に当たった、みたいな事を誰かがいうと、『ふうん』っていう雰囲気が流れるの。その『ふうん』がね、全然ふうんじゃないのよ。色んな意味があるふうんなの。ヒガシダ君はあんまり知らないと思うけど、女同士のそういう言葉の意味って、ニュアンス一つの違いで百通りくらいあるのよ。


 そうね。

 リコ。リコの話も耳に入った。

 リコは、大勢の同僚の前で、お局にあたしに対する酷い物言いを抗議をした翌日、あの男の夜勤に突然組み込まれ、姿を消したんだって事だった。本当に気の毒だった、でもあんまり気に病んじゃダメだからねって、同僚が申し訳なさそうにあたしに言った。あたしは一時的に想像力をオフにして、ありがとう、大丈夫って言っておいた。あたしはその時、笑顔さえ浮かべられたわ。リコはつまり、あたしを庇おうとして、あの男に」

 その時、トキトオさんがハッと口に両手を当ててじっと俯いたので、僕は吐くんじゃないかと一瞬身構えたが、何とか持ちこたえたようだった。タクシーの車窓の外には暗い窓の茫としたオフィスビル群が流れていた。ふぅ、と息を整えてトキトオさんは再び背もたれに深く沈んだ。


「あたしは職務に復帰してから、折に触れてお局の行動をつぶさにチェックした。お局があの男の部屋の前からいなくなる時間帯を調べる為よ。勤務中、時には非番であってさえも、お局はあの男の部屋に続く封鎖された扉の前から動く事はなかった。あの人は決めた事は、何があっても守り通すの。休暇であっても、昼や夜にふらりと顔を見せて、机の上で書き物をしたり、軽食を運ぶ為に鉄扉の中へ入っていった。異常だとは思っていたけど、あそこまで徹底していると逆に尊敬の念すら覚えた。それに、完全に二人の仲は男女のそれだった。ほとんど隙が見当たらない。あたしは何とかして、、というタイミングを探し出したかった。絶対っていうのがポイントなのよ。運に頼っては意味がない。包丁を取り上げられ、今度こそ本当に退場させられてしまう。包丁。そうよ、包丁。どうする? あの男の胸に突き立てる包丁」

 トキトオさんが両手のひらを見ながら静かに呟いた。まるで何かが憑依しているみたいに。

「寮の共用キッチンには何本か包丁が置いてあった。ざっと見てみたけど、人を刺すにはあまりに玩具みたいに心細いもので、諦めた。そういえば、ってあたしは思い出した。かつて、この療養所には調理室があって、収容している患者達全員分の食事を作っていたって。今は食事を配るだけで済む分、だいぶ楽をさせてもらってるわよって笑うお局の話を。


 うろ覚えで夜中に忍び込んだ旧調理室はもう倉庫になっていて、埃っぽい戦時中に作られたような人体標本や、緊急時に使う折りたたみ式のベッドや、妙な標本がぎっしり詰め込まれている、人が滅多に近寄らない場所だった。あたしは無造作なガラクタ置き場と化している流し台を発見して、その足元の扉の内側に刺し掛けられている包丁を三本ほど見つけた。懐中電灯に照らされた包丁はしっかりと大振りで、あたしに見つけられるのをじっと待っていたみたいだった。人を刺すにも充分耐えそうだ。あたしはスタンダードに真ん中の大きさのやつを拝借した。トレイを両手で持つ時、その裏に隠せそうな丁度いい大きさのものだ。砥石もその奥にあったから、あたしはそれらをしっかり拝借した。

 毎晩包丁をちょっとずつ砥いだ。一応これでも看護師だから、久しぶりに教本を引っ張り出してきて、あの男の胸にこの包丁を刺し込む最適な場所と角度を研究した。当たり前だけど、教本には人間の心臓を一突きする方法なんて記載されていない。適当な雑誌を男に見立てて突き立てた。


 眠っている男の布団をサッとどかし、分厚い脂肪で覆われた左胸雑誌に、この薄く研ぎ澄まさせた包丁を当て、その上に血飛沫が飛ばないように枕を載せて、できるだけ、ゆっくりと、ゆっくりと刺していく。肋骨は問題ない。どういう角度で包丁を寝かせばあの忌々しい心臓を守る肋骨を避けられるか、あたしはすっかり熟知している。あたしは、あの男の醜い寝顔が少しずつ歪み、瞼の下や口の脇が痙攣していく様子を堪能しながら、ゆっくりゆっくりとそれを刺し込んでいくの。目を覚ましてくれたら最高。めった刺しなんかしない。あたしはこの手で、いかにあの男の心臓を静かに停止させられるか、それだけをイメージした。あの男の心臓の最後の鼓動を、そのひと震えを包丁越しに手のひらに感じるのを想像するだけで、私はたまらなく興奮した。明日への活力さえ生まれてきた。あの男には、そのようにしてこの世界から御退場していただく。


 職場に復帰してから、どうも施設周辺に異変が起こりつつある事に気が付いた。同僚たちが、奇妙な大きい黒い車、セルシオを見かけたと言ったり、近付いたら去っていった、という事を度々話題にするようになった。その目撃情報が増えるに従って、あたしのほとんど趣味と化してきた温度と湿度の記録をする外出の際にも、動物が無残に刻まれて捨てられているのを見かける回数が増えた。小動物よ。犬か猫かも判別できない、ただの赤黒い肉片に、蝿がびっしりとたかっているの。酷い臭いもする。そんなの、今まで見た事もなかった。なのに、そうした死骸を見ても、あたしは全然動じなかった。それどころか、彼等に ──死んでいるからなのかも知れないけど、親近感さえ覚えた。

 ヒガシダ君、これは内緒話でも何でもないのだけど、一度でもある種の決定的な暴力を受けた者は、それ以降、どんな僅かな暴力性でも肌に感じる事が出来るようになるの。それは人とすれ違った時の匂いや、置いてある煙草の箱のひしゃげ具合や、僅かに揺れる目線から発せられる空間の歪み、としか言いようがないのだけど、一本の細い蝋燭の炎が空気の揺らぎを感知するように、それはどうしても感じてしまうものなのよ。だから、あたしは同僚の話を聞いて、またそうした死骸を実際に自分が目の当たりにして、誰かが、何者かがこの施設を監視しているし、それはもうすぐ我々の前に姿を見せるだろう、という一種の確信めいたものを得るに至ったの。あたしの生きる希望、あの糞男。その命を奪う為に、どこかの誰かが我々に警告を発しているのだと。あたしにはそれを感じる事ができた。


 数週間、周到にお局の動向を探った結果、どうやら木曜日の午前中、11時から13時までの間がお局が必ず療養所から居なくなる確実な時間帯だった。理由は分からない。わざわざあの男の昼食の時間帯に居なくなるなんて、余程の事だと同僚は教えてくれた。あの男の昼食はお局が調理して、夕食は外から日替わりで専属のシェフが派遣されて、あの鉄扉の奥にあるキッチンで調理される。自分自身の事しか信用しないお局にとって、昼食の準備を他人に任せるというのは退っ引きならない事情があるのだろう。恐らくお局の持病関係ではないか、というのが同僚の見立てだった。なるほど、確かに病院で処方箋を受け取るなり、定期検診であれば、止むを得ずその時間帯に席を空けなければならない理由になる。田舎の病院は早く閉まる所がほとんどだから。

 調理? あの男の昼食は中で調理されているって事は、睡眠薬をどうやって混入すればいいの?

 睡眠薬はあたしが町の病院で貰ったものを使えば良かった。あの暴力を受けた後、あたしは唯一我儘を言って、不眠を理由にカウンセリングを受けさせてもらった。お局はそれを渋々了承してくれた。あたしは全然不眠なんかじゃ無かったけど、計画の為にはどうしても必要だったから、今にも死にそうな、しつこい不眠を演出して、一番キッツイ薬を出して貰った。もちろん、細粒タイプのね。ただ、昼食をあの鉄扉の向こう側で調理するとなると……」


 僕はすっかりトキトオさんの話に引き込まれていた。トキトオさんは両方の掌を開いたり握ったりしてじっと視線を落としていた。僕はそれでどうしたんですか、と言い出したい気持ちを抑えて、トキトオさんの言葉をじっと待った。すると、トキトオさんは突然こちらを向いて、綺麗な瞳で僕の目を覗き込んだ。その表情は完全に無だった。

「どうする?」

「わかりませんね」

 と僕は素直に言った。早く続きが聞きたい気持ちを押し殺した。トキトオさんは満足そうな笑みを一瞬だけふっと浮かべた。












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