19. カモフラージュ


 昨晩の豪雨から一転、決行の日は雲ひとつ見当たらない穏やかな晴天だった。あたしは目が覚めて布団から出ると、遂にその日がやって来た事を知った。期待と不安が交互に渦巻いたが、それに気付かない振りをして、毎朝のルーティンを体に従って支度をした。それでも今日、あの男を殺すのだと思うと、身体中の関節という関節がザワザワと粟立つような落ち着きの無さに捉われた。化粧の為に向かう鏡に映る自分を見て、溢れ出る笑みを押し殺すのに苦労した。不思議な事に、自分の顔には「今日、男を刺し殺す」という雰囲気が一切感じられなかった。これから人を殺そうとする人間にはもう少し何かしらの特徴があっても良いのではないか。例えば、足が地面から五センチほど浮いてるとか、体全体からやんわりと発光しているとか。でも鏡に映るのは髪が短くなったいつもの自分だった。左右の大きさが少しだけ違う切れ長の目、しっかりと存在を主張する気に食わない鼻、上下同じくらいの厚さで、少し頑固そうに結ばれた唇。なだらかな丸みを帯びた頬。右頬の中心にある小さな黒子。美しくも醜くもない。浮かれるな。楽しくもない、悲しくもない、少しだけ憂鬱な、いつもと同じ朝であるように。


 お局が出掛ける朝の10時30分、あたしはそれを二階の窓から見届けた後、こっそり建物の裏に回って、鉄扉の向こうにあるキッチンに繋がってる都ガスのホースを外し、バルブを締めて転がした。ものすごく重たかった。地面の溝の蓋を外し、水道の元栓も締めた。これでガスも水も出ない。


 11時、当番の看護師があらかじめ用意されている材料を献立通りに調理するために鉄扉の中に入る。しばらくして昼食の支度を始めたところで水道が止まり、ガスが点かない事実にようやく気が付く。


 11時15分、患者達の昼食を運ぶための業者のトラックが到着。専用の保温ケースに収められた昼食が妙なメロディーを流す可動式の小さな台車で玄関から運び込まれる。それには当日勤務の私や同僚達の料理も含まれている。昼食当番の看護師が顔を真っ青にして、ガス・水道が止まって男の料理が出来ない、どうしよう殺されると騒ぎ出す。あたしはそれに乗じて「ちょっと見てきたら?」と同僚達に促して、人が居なくなった所で台車の中に収まっている昼食のお椀、玉ねぎコンソメスープに睡眠薬を振り掛け、ポケットに忍ばせておいた小さいスプーンで軽く攪拌し、保温蓋を閉じる。

 騒ぎながら戻ってきた同僚達に『出来ない物は仕方がないじゃない。これ、あたしの分だけど、持って行っていいよ』と言って、いちいち台車の保温蓋を開けて、無作為に選んだかのように睡眠薬たっぷりの昼食トレイを当番に手渡す。『あたしは寮で適当に作って食べるから』って言って。え、いいよそんなの悪いからって遠慮されたりして面倒だったけど、早く男に持っていかないともっとヤバい、暴れ出すからって急かして、背中を押すようにして当番の看護師をあの鉄扉前まで送り出す。ありがとう、ごめんねって、ようやく腹を決めたように、その看護師はたっぷりと睡眠薬が掛かった昼食プレートを持って鉄扉の向こう側へ姿を消す。あたしはその見えない背中に向けて、『ワインと一緒に出してあげれば』と咄嗟に一言付け足しておく。ワインの苦味や酸味で万が一感じられそうな薬の味も隠せそうだし、アルコールは薬をよく効かせるから。


 12時、配膳を終えて、昼食の時間が始まる。あたしは寮の自室に戻った。数名の同僚がさっきの騒ぎで『あたしの少しあげる』『一緒に食べよう』って誘ってくれたのだけど、全部やんわりと断った。この今日という日に限っては、誰とも席を一緒にしたくなかった。

 あたしは自室に戻ると、あらかじめ用意しておいた包丁を机の引き出しから取り出した。それはもう充分過ぎる程に研ぎ澄ませてあった。虫くらいなら、切られてもしばらく動いてしまいそうな程の切れ味だ。それと、教本や雑誌と一緒に立て掛けておいた銀色の長方形のトレー。この裏に包丁を忍ばせて行けば、万が一誰かとすれ違っても気付かれない。それはもうハンカチを巻いた同じ長さの物差しで実証済みだ。


 部屋の鏡を見た。いつものあたしが、未だ何かしらの迷いを抱えているかのように包丁を持って立っていた。何だかその絵が面白くて、鏡に近付き、思いっきり笑顔を作って包丁に顔を寄せてみた。あたしの顔と同じくらい刃の長さがある。その刃の銀が、鏡のあたしを反射して目が異様に黒い人間のような顔を反射させた。あたしが口をパクパクさせると、その包丁に反射した顔も黒い何かを物欲しそうに遅れてパクパクさせた。何となく、そっちが本当のあたしであるような気がしてきて、嬉しい気持ちになった。ようやくあたしは自分自身と巡り出会えたのだ。それは祝福すべき出来事だ。気が付くと、その包丁を持って舞っていた。空間を切るように、自然と腕が肩からしなやかに、ゆっくりとただその切っ先が求めるがまま、あたしは踊った。始めは腕だけだった。でもやがてそれは鼻腔と口内から横隔膜を一杯に満たし、腹へと溢れ、全身の血管を駆け巡った。全身が恍惚とした高揚に捉われ、無心で舞い踊り、包丁で見えない空間を裂いた。どれくらい踊っていたのか、気付いた時には汗をビッショリとかいていて、休憩時間をややオーバーしていた。包丁とあたしは一体化していた。もう何も怖くはなかった。


 あの男がきちんとお利口に昼食を平らげたのであれば、今はもう深い微睡みの中にいるだろう。ワインも添えられていれば間違いない。あの睡眠薬は本当に強力なものなのだ。それは試したあたし自身がよく知っている。


 湯をガスに掛けて沸かし、ドリップ式のコーヒーを淹れると、まるで絵に描いたような七十年代を思い出させる白い陶器のコーヒーカップに注いだ。美味しそうな音と匂いがした。シュガーポットとミルクはない。スプーンは捨てた。これは単なるカモフラージュなのだ。誰かとすれ違った時に、違和感を無くすための。トレーだけを持ち歩く訳にはいかない。看護服に身を包み、たったコーヒー一杯をトレーに載せるだけで、あたしは不審者ではなくなる。誰もそのトレーの裏側に、鋭利に研ぎ澄ませた包丁を隠して歩いているとは思わないのだ。

 寮から出てあの鉄扉の前までお盆にコーヒーを一杯だけ載せて歩いた。だが結局、寮からお局が不在の鉄扉の前まで、あたしは誰にもすれ違わずにたどり着く事ができた。杞憂だったのだ。あたしは息をついた。あと少しでフィニッシュだ。ハッピーエンドだ。あたしは逮捕されるだろう。でも何の後悔もない。この殺意をきちんと清算する事なく送る人生に、一体何の意味があると言うのだろう。


「何をしているの」


 振り返ると、私服のお局がスーパーのビニール袋を下げ、立ってあたしを見ていた。あたしは息を飲んで立ち尽くした。何故ここにお局がいるのか、脳が処理しきれなかったのだ。お局は荷物を二袋、お局専用チェアーとデスクに置くと、手袋をはずしてその脇に置いた。


「おかえりなさいませ」


 あたしは精一杯の笑顔を浮かべて言った。






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