17. 便所で寝る女

「ズゴゴーズ。ズゴゴーズって音がやけに大きく聞こえた。何の音かと思ったら、私の血液が体内で巡る音だった。男が見せたiPadの中では、リコが虚ろな顔をしてこちらを向いている映像が流れていた。今度こそ、あたしはもう動けなかった。一瞬たりとも目を逸らす事ができなかった。トチ狂ったあたしの心臓が血液をシャーベット状にして送り出し、脳の底からおぞましい痛みを引き連れて背筋を、全身を、時間を、何もかもをガチガチに凍らせたみたいだった。

『イナガにさぁ、こいつすげぇヤリマンだから好きにして良いって言われてたんだけどさぁ、処女だった。こんな小ちゃくて明るい可愛い子が処女って、世間の男たちの目は節穴じゃねえかって』

 男が含み笑いを我慢するような声で、時々いかにも愉快そうに噴き出しながらそう言った。

 目に焼き付いてるのは、虚ろな目をして、口を半開きにして、声も出せず、突かれるたびに玩具みたいに首をガクンガクンてさせるリコ。


 あたしは嘔吐した。ひと吐き毎に内臓が一個ずつ口から出そうだった。でも、ほとんど胃液しか出なかった。いっそのこと、本当に眼球から子宮までまとめて床に吐き落とした方が楽だった。あいつは、あたしの頭を床の吐瀉物の中に押し付けて、耳元で『ずいぶん抵抗されたけど、ボコしたらすぐ静かになった。名前、呼んでたぜ。トキトオさぁん、トキトオさぁんって。お前のお気に入りだったもんなぁ』 あたしの嘔吐は止まらなかった。『おとこに一瞬でも勝てると思ったか? 女風情おまえごときが』って。この男、何もかも、全部知ってやってるんだって、悔しくて、悲しくて。

 殺してやろうとしたんだけど、力で勝てる訳がない。反対にボッコボコにされた。目に見えない所を狙ってくるのよ、腹とか背中とか、首の後ろとか。顔には絶対に手を出さないの。あたしは結局、ボロボロになって、足で頭を踏まれて何を言ってるか分からない汚い河内弁で脅されて、いっそ気絶したかったのに何も出来なかった。憎くて憎くて、男の事が憎くて、憎くて。ずっとって言って、頭真っ白になって、男が『おう、やれるもんならやってみい』って、気絶する寸前まであたしの首を絞めたり、肩を外そうとしたり、腹に膝を入れられたりして、ほとんど記憶がそこらへんからもうない。でも、ヤられはしなかった。朦朧としてたけど、これだけは確か。勃たなかったのよ、アレが。『ちきしょう、糞、くそっ』ってあのカス野郎が擦ったりしてきたんだけど、駄目だった。あたしは、俯けに体をガッシリ抑え付けられて、身じろぎひとつできやしなかった。それから、あの男はあたしに本当に酷い事をした」


 トキトオさんが真っ青な顔をして口をつぐんだ。この話を始めてから初めて見せる表情だった。話していいものか、悪いものかを決めあぐねているようだった。それはこの告白を始めてから初めての事だった。トキトオさんは大きな溜息をつき、背もたれに身体を預けて、右手で顔の半分を覆いながら僕を見て言った。

「あたしは頭がおかしかったのよ、そうだったとしか思えない。お願いだから信じてくれる?」

 僕は小さく頷いた。それ以外に僕に出来ることはなかった。

「身体を抑え付けられて、男のアレがリコに何度も出入りする動画を見せ付けられながら、あたしは目を逸らしたり、暴れる度に容赦のない暴力を振るわれて、痛み、恐怖、嫌悪、憎悪、悪臭、悪態が私から正気を奪う、かろうじて自分の形を保っていられるヘドロみたいになった状態で、男は自分でシコって精液を出した。あたしは髪の毛を鷲掴みにされて、それを顔に受けさせられた。あたしはアレを噛みちぎってやろうと思って首を伸ばしたけど、虚しく空振りしてガチッて歯の音を立てただけだった。男はそれを見て笑って、あたしの首を肘で思い切り絞めて、窒息する寸前にいきなり私のあそこに指を何本か乱暴に突っ込んで、直接内部を揺さぶった。何故か、私はものすごく濡れていた。男に影形が無くなるほど蹂躙されながら、どうしようもなく濡れていた。あたしの中が直接揺さぶられて、下腹部に生じた小さな真っ白い空白が、ぽっかりあたしを飲み込んでいった。イきたくなんかなかったのに、全然さっきまで気持ちよくなんかなかったのに、怒りながら、拒みながら、憎みながら、身体中の激しい痛みに刺されながら、ものすごくイッた。私自身の中心を揺さぶる抗い難い絶大な何かがやってきて、しばらくそこに留まった。何故なの。そんな訳がないじゃない。何であたしがこんな糞以下の最低男にイかされなきゃいけないの。一体何が起こったっていうの。でも無駄だった。あの台風の日の風の音や雨音と一緒に、リコが私に届けてくれた感覚は、遥か遠くへ手放された。あれだけは大切に取っておきたかった、数少ない思い出だったのだけど。


 気が付いたら、私は自分の部屋のベッドに横たわっていて、同僚が看病してくれていた。『大丈夫?』って。包帯で内出血をしていた胸や腹の処置をしてくれた。身体もしっかり拭いてくれていた。私は何にも話をしたくなくて、ただぼーっとしていた。昨晩の地獄のような夜から一転して、穏やかな陽気に溢れる自分の部屋のベッドにあたしは横になっていて、まるで騙されてるような気がした。アレが本当だったことは、確かな重みを持った体中の痛みと、清め流し切れなかった精液が張り付いていたと思われる、髪の毛の一部のこわ張りでわかった。私は堪らなく不快になって、机の引き出しから鋏を取り出し、鏡を見ながらゴワゴワしている部分の髪を大雑把に切った。当時は髪の毛を長く伸ばしていた。切ってたら、何だか切っても切っても、全部精子に覆われていたみたいに不潔に思えて、我慢する間もなく、あっという間に机の上に吐いた。それ以降、私はただの一度も肩以上に髪を伸ばしたことはない。

 同僚達は交代で私の部屋に来て、掃除をしたり、食事を置いていったり、私に声を掛けていった。様子を見るフリをして、監視していたんだと思う。私はたまらなく心配になって部屋を抜け出し、足を引きずってリコの部屋まで歩いて行った。だって、あの子はレズビアンなのよ。万が一の事だって、あるかも知れない。すれ違う同僚は心配そうに私に声を掛けてくれたりもした。でも無視した。うるせえ、って言ってやりたかったけど。

 リコの部屋は四人部屋だったんだけど、窓際に設置されいる三人分の机の上にだけ、ドライヤーやら小物やら雑誌やらがわちゃわちゃ置いてあって、ひとつだけポツーンって、何も置いてない机がカーテンの影を静かに落としてた。ベッドも、ひとつだけ綺麗にシーツと掛け布団が丁寧に畳まれて置いてあるだけだった。日差しが射し込む部屋には誰も居なくて、私は嫌な予感がして、外の廊下を歩いてた適当な後輩に聞いた。ここに居たリコはどこへ行ったのって。『実家に帰った』ってその通りすがりの子が教えてくれた」

 トキトオさんは斜め下を見て、目の前の情景を思い出すようにして言った。


「リコは実家に帰った」

 トキトオさんはもう一度そう言うと、にわかに殺気立って両手で口を抑えながら立ち上がった。そして慌てて手洗いの案内に向かって早足で歩いて行った。

「トキトオさん大丈夫ですか」

 僕は振り返って声を掛けたが、彼女は振り返らず、口を抑えた前屈みの姿勢のまま奥のトイレ方面へと消えて行った。


 僕はとりとめもなく、ボーっとさっきまでトキトオさんがいた座席の背もたれを眺めた。タバコを吸おうかと思ったが、テーブルの上に無造作に置いてある彼女の黒いタバコケースから数本顔を出しているパーラメントに手を伸ばす気力も湧かなかった。腕時計は未だ始発の時間に届かず、それから以前見た時刻が何時何分であったのかを思い出そうとしたが、無駄だった。


 トキトオさんは明らかに喋り過ぎだった。高校生を救命したという行為が彼女を昂らせ、今日という夜に僕とトキトオさんをこうしてファミリーレストランへと導いたのだ。すごい。まるで映画みたいだ、と僕はボンヤリと思った。

 目を閉じると、店内に流れる有名な曲のインストメンタルや、食器が重なり擦れ合う音や、カップルの喋り声や、何人かの男女が大きく笑う声が聞こえた。新たに火を灯したばかりのタバコのヒリリとした匂いが漂ってきた。僕は試しに、自分の体内を巡っている血液の奔流に耳を澄ませてみたが、もちろんそんな音は聞こえて来なかった。そのような音の存在すら忘れていた。両耳を塞げば聞こえるかも知れない。だが、わざわざそんな事をするには僕は疲れ、酔い過ぎていた。そのまま自分の平衡感覚が失われ、いつの間にか眠ってしまった。


「すいません、お客様すいません」

 僕を揺り起したのは、奇妙な制服を着ている女性の店員だった。身長は低く、カナダの川沿いあたりで枯れ木を集めて巣作りに精を出す小動物のような顔をしていた。

「お連れ様がトイレから出てこないのですが、一緒に来ていただいてよろしいですか」


 僕は店員の後について行って、男女共用の札が掛かったトイレの黒い扉の前で、店員が鋭いノックを繰り返し、「大丈夫ですかお客様、大丈夫ですか」と声を掛けるのを眺めた。僕の胸の下あたりで、店員が被っている緑色のベレー帽がふわふわと動いた。あるいはそちらが本体なのかも知れなかった。僕は思いのほか深く眠ってしまったらしく、未だ左右にゆっくりと揺れる自分の軸が不確かなままだった。軽い頭痛と嘔吐感がする。指を喉に突っ込めば軽く吐いてしまうだろう。

「ちょっとドア開けますね」

 僕が何の役に立たないと分かると、店員は腰にぶら下げている何本かの鍵から一本を慣れた手付きで差し込み、カチャリと回した。僕に見えないようにそっと薄い隙間から中を覗いて、ゆっくりと大きく開いた。

 トキトオさんはトイレの床で気持ち良さそうに片膝を立てて座っていた。蓋が開いた洋式便器に肘を付くようにして頭を支え、ぽっかりと口を開けた幼い子供のような寝顔を、黒い艶やかな髪が無造作に覆っていた。人物画として、「便所で寝る女」という題が付いていてもおかしくない、完璧な構図だった。

「トキトオさん、帰りましょう」

 僕はしゃがみこんで、何度かトキトオさんに声を掛けた。形のいい頬をつねったり、軽く肩を揺すったりしてみたが、トキトオさんはムニャムニャと言葉を作る途中でそれを放棄し、マシュマロのような柔らかいものを噛む意味を成さない音しか発しなかった。

「すいません、会計をお願いします」

 と僕は後ろで困り顔をしている店員に言った。それから思い切ってトキトオさんの脇の下に腕を回し、肩を組んで無理やり起き立たせた。ぐったりと脱力していたが、体は不思議なくらい軽く、辛めの香水の匂いがほとんどを占める汗の匂いがした。

「あ……」

 トキトオさんは目を覚ました。

「帰りましょう、こうなったらタクシー代くらい安いものです」

 トキトオさんは僕の顔を間近で虚ろな目でじっと見つめ、ニッコリと笑顔を咲かせた次の瞬間、

「うッ……」

 とこみ上げる何かを寸前で手で抑え、慌てて僕からバタバタと離れて洋式便所に向かってしゃがみこみ、盛大に吐いた。僕はトキトオさんの髪の毛を後ろで束ね抑えながら、背中を軽くさすってやった。やれやれ、と僕は思った。この2000年代においても、やれやれ、という言葉は一定の効力を帯びているのだ。すなわち、「どうしてこういう事になっちまったんだろう、でも仕方がない、選択してもしなくてもこのような結果になっちまっただろうし、その責任は他でもない自分で背負うべきものなのだ」という淡い諦観を秘めたおまじないの一つとして。トキトオさんは時折、チキショウ、クソが、ばかやろう、と小さく呟きながら吐いた。その気持ちは僕にもよく分かった。


 タクシーに乗り込むと、僕はトキトオさんを促して行き先を伝えてもらった。

「下の道で行っても大して時間変わりませんから、そっちで行きますね」

 と運転手がゆっくりと発車させた。車内は空調が程よく効いており、涼しいフレグランスの香りが我々の波乱に満ちた夜を清めていた。地面を滑る深夜のタイヤの音を背景に、トキトオさんは僕があげたフリスクを噛みながら心地好さそうに後部座席に身を沈め、腹に両手を当てて目を閉じていた。パンプスは両足とも脱いで、しつけの良い犬みたいに床に置いてあった。僕は隣に座った。トキトオさんは深い呼吸を繰り返し、眠っているように思えたので、僕はゆったりと流れる深夜の街並みを眺め、次に何となく助手席の前に飾られている運転手の顔写真を眺めた。読んだ瞬間に名前を忘れてしまいそうな無個性な名前だった。きっと、子供の名前に個性など必要がないと考える常識的な両親から生まれたのだろう。そして今、酔った女性とパッとしない大学生を深夜、池袋から北千住まで送り届けるタクシーの運転手となったのだ。そう考えながら顔写真を見ていると、僕は不思議な感慨を覚えてきた。しかし暇潰しに覚えようとした運転手の名前は、目を瞑って思い出そうとする度に、山田や斎藤や田中といったような他の名前にすり替わっていった。未だ酔いは覚めていない。

「続きを話していい?」

 トキトオさんが目を閉じたまま言った。

「どうぞ」

 と僕は言った。トキトオさんは眠ってはいなかったのだ。話したければいくらでも話せば良い。ねぇ、退屈してない? などといちいち聞いてこないトキトオさんに僕は改めて好感のようなものを抱いた。彼女は話したいから話をしているし、僕も聞きたいから話を聞いているのだ。最後に僕は目を閉じたまま、運転手の名前を思い出そうとした。田中康二、伊藤康二、山田康二。


 だめだ、お前は一体誰なんだ。






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