それ、なあに?

澄石アラン

それ、なあに?

「それ、なあに?」




 久々に定時で帰れたこともあり、私は子供のように台所に立つ妻に聞いた。


 妻はまな板のほうに集中しているようで、笑いつつも視線さえくれないまま「秘密。いいから座ってて」と、私をあしらう。


 少ししょんぼりした顔を見せてしまったのだろうか、「後で洗い物、頼むから」とフォローが入った。




 私の稼ぎも多くなく、妻は専業主婦ともあり1LDKの古いアパートに暮らす生活がようやく一年を迎えようとしている。


 私も妻も多くを望まず質素を好んだので、裕福とはいえないまでも金銭的な不安はなかった。




 台所とは壁一枚をへだてたリビングで私はテレビを見ていた。




 めりめり、と根菜が分断される音。


 じゅわじゅわ、と炒め物から水気が奪われる音。


 ぽん、と……おやおや、電子レンジで何かが小爆発を起こしたようだった。




 今日の夕飯はなんだろう。


 手伝ったほうが良かっただろうか。




 テレビのバラエティー番組もニュースも興味がなく、頭に入らなかった。




「今日は何してたの?」




 手持ち無沙汰ぶさたになって、私は妻に取り留めも無く話しかけた。




「別に、何も?」


「何もってことは無いんじゃない?」


「洗濯して、晩御飯の献立を考えて、スーパーに行って買い物をして、夕食の準備をしていたのよ。結構大変なんだから」




 私は家事のことは全くわからなかった。


 少し語調ごちょうを強めた妻。


 刺激したくないので話をすることもやめた。




 とうとうやることがなくなり、はじめて疲れを自覚する。


 台所で妻が料理をする気配と、テレビから垂れ流される情報の中、穏やかに気を休めていた。




 ふと。


 自分の目は開いていたはずなのに、世界のほうがまばたきをしたような違和感があった。




 ちちっ。ぶーん。


 天井がうなる。




 ああ、たまにやつだ。


 この古いアパートは電圧が不安定なせいだろう、電灯が瞬きしてわずかにうなる。


 最初は不気味だったがあまりにも頻繁ひんぱんに起こるので気にならなくなった。


 今は台所で妻が電子レンジや湯沸かし器を使っている。




 私は目を閉じて身体も休めることにした。




 暗闇に入ると、ふと先ほどの妻の態度に意識が向いた。




 妻は最近になってペットが飼いたいといっていた。


 少し前までは子供が欲しいと言っていたのに。


 気が変わってしまったのだろうか。


 無理強いはしないがそれは寂しく思えた。




 私にはよくわからないが家事は大変だ。


 掃除も料理も出来ないと胸を張っていた彼女にとって、相当なストレスだろう。




 今度、意識を台所に寄越したところ。


 それはとても静かだった。


 部屋全体が静かだった。




 そんな中で密やかに床が軋む音、私の足元で布ズレの音がした。


 私はくすぐったい気持ちになりながら寝たフリを続ける。




 しっとりとした、冷たい指先が私の手首を掴んで持ち上げた。


 次に私の手の平が触れたのは。




 ざらついた糸の束。


 髪。


 丸み。


 頭頂部。




 ああ、そうか。


 寂しかったのか。




 私は少し罪悪感に胸を痛め、ゆっくりとその髪を撫でる。




 めりめり。


 じゅわじゅわ。




 ちちっ。ぶーん。




 生活感のある音が戻ってきた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

それ、なあに? 澄石アラン @azariyah

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る