第28話 時代
庭に植えられた小さな木々の揺れる音が心地よい。揺れとともに外の匂いを部屋に運んでくる。言葉で上手く表せないが日本の香りを鼻に感じていた。
木々の揺れる音を聞いているとなぜだか、心が落ち着く。もちろん木々は戦場にもあり、戦場で聞く木々の揺れる音も心地よいが、それは不気味さも与えてくる。しかし、本土で聞くその音は心に平安だけをもたらしてくれる。
外は空襲があったせいかいつもよりも騒がしく、落ち着きがない。軒先で立ち話をしている人が多く、所々内容が寝室にまで聞こえてくる。この街や自分達が無事だった事を喜びつつも、空襲を受けた街や人々を気の毒に思っている。通りで話している会話はこんな感じだった。
なんという初夜だ
俺は時代に初夜の邪魔をされた。いや、邪魔という簡単な言葉では許されない。ほんの数時間前は命の危険を感じていたほどだ。防空壕に入れなかった時は結婚の申し入れ日に死ぬことを本当に覚悟した。
「晴子さんと過ごす初めての夜なのに、なんだか残念な気持ちです」
仰向けになり天井を眺める晴子さんに呟いた。
「時代が時代ですもんね、仕方のないことです。本当にいつまで続くのでしょうか」
晴子さんは姿勢を変えずに諦めた声で言った。その声はどこか弱く、寂しげで俺の心の奥底まで響いてきた。
時代を変えることなどできない。これは誰もが感じている所だろう。それでも、何かできることはないかと考えずにはいられなかった。しかし、何もできないという答えに頭を押さえつけられる。
「まだまだ続きそうです。それに、今後は被害が拡大するでしょう。民間人を目的に空襲することも考えれます。そうなれば、大都市が空爆目的地にされる可能性が高く、ここも危ないです。田舎や農村に疎開してはどうでしょう?」
「考えたくないものです。石川の爺様にお世話になる方が良さそうですね」
「はい。石川への出発は早い方がいいです。明日にでも父や母に相談してください」
「わかりました」
ほんの数年前までは戦争など外の出来事でしかなかったのに、今では本土が空襲されている。俺の頭の上を何機も通過していった。
食堂で父にしごかれていた頃が恋しく思った。ほんの数年前なのに遠い昔のように思えた。ましてや、アメリカ留学など前世で経験したかのような感覚だ。経済学の勉強に励み、バイトに励み、マスターと話し合ったりした全てが恋しい。晴子さんに心ときめく純粋な男だった頃が恋しい。
恋しいという言葉が何度も頭の中を駆け巡る。
「私、幸せな家庭を築くことが小さな頃からの夢でした」
晴子さんは夢を語り始めた。
「でも、まだまだこの夢は叶いそうにありませんね……。大好きな賢治さんはまた戦場に戻らねばならないし、このご時世そんな夢のような話をしても虚しいだけですね」
「いえ、必ず叶います。いや、二人で叶えましょう」
俺は晴子さんを抱き寄せ、強く抱きしめた。俺の決意のように、また、不安のように、息がつまるほど強く強く抱きしめた。
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