コアニアミ koaniani【そよ風】

何度か診察を重ねるうちに、私はふと、家に帰りたくなった。2月の上旬のことだった。もう少しこの寒さに耐えれば、慎ましく梅の花も咲こうとするこの季節。私が1年で一番好きな季節であった。まさか、自分の人生に病気や入院が乗っかるとは、思いもしなかった。今でも入院し、薬を飲んで治すことのある自分に慣れずにいた。ただ、病室の空間が、私を救っていることを自覚している時点で、私は自分を病気であると認めたのだと思う。


「先生。私はまだ退院してはいけませんか?お薬を飲まないと、また、私の言動や思考はおかしなことになるのでしょうか。私、家に帰りたいんです。」私は先生に胸のうちをさらす。

先生は、

「小川さん、退院はまだ少し早いですね。この空間に、もう何も得るものがなくなりましたか?僕は、あと1ヶ月はこのままここで、何も考えず心身を休めてもらいたい。お薬もきちんと服用して治して頂きたい。小川さん、お一人で暮らしていらっしゃるので、それを考えるとまだ僕は不安でしてね。もう少し、小川さんの回復を見てから退院して頂きたいのです。」


あまりに、熱心に、これでもかと丁寧に言われると、妙に納得してしまう。この先生を信じてみようと思ってしまう。

最初から、この先生とは、そんな相性だったように思う。


「わかりました。もう少し休みます。」私は、すっきりした気持ちでそう答えた。


5階のその階にある中庭はわりと広く、緑もあり、ちょっとした散歩に良さそうなので、昼食後、ひとり歩いていた。精神科らしいのは、やはり、不自然に高い囲いだろうか。人がよじ登ろうとしても難しい仕組みになっていた。突拍子もないことをしてしまうのが、精神を病むことの基本のような気がしてきた。精神科には、随分と偏見があった私なのに、この、さらりとなじむ私はなんだろうと、めまいがしそうになる。


だって、お母さんは、ああいう高い囲いがあったなら、どうにかしてロープをかけて..


お母さんは、どうして、いつから、そんなふうになりたかったの?子どもに返った私の心が問い続ける。


私はその場にしゃがみ込み、お母さん、としゃくりあげながら泣いていた。


「大丈夫ですか?」その声に、こんな時に偶然出合うのは、あの19歳の学生の男の子しかいないと思った。

振り向かないまま、ゆっくり立ち上がり、呼吸が落ち着くまで待っていた。


そして、私は振り向き

「こんにちは。散歩してたら、気がちょっと狂っちゃったわ。」私は、笑顔を作った。


「後ろ姿を見ていると、とても呼吸がしづらいように見えて。お散歩ですか?僕もここをよく歩きますよ。ただ、この囲いがじゃまだなと感じる時があります。でも、やっぱり精神を病んでいる人間は死を選びたがるひともいるから、こんなつくりになっているんでしょうね。」

彼は囲いの内側から見える外の風景を淡々とした表情で眺めていた。

私も彼の横に立ち、同じように外の景色を眺めた。


「僕の幻聴の始まりは、死からはじまっています。死がどうしても僕を呼ぶのです。特に苦しいのは夜、真夜中です。そんな時間に眠れずにいたら、何人もの人のような声で僕を呼ぶのです。僕の名前を知っているのですね。僕は、彼らにいつまで抵抗できるのか、わかりません。お薬を服用するようになってから、僕を呼ぶひとの人数は減ったけれど、なくなってはいない。とても、こんな状態で、大学の授業に出られません。主治医はしばらくの休学と休息で様子をみようと言います。

ほんとうに僕も、精神科など自分から程遠く、切り離せるくらいに考えていた人間ですから。ある日、突然、それからずっと、自分を呼ぶ声に苦しむなんて、時々発狂しそうになりますよ。」

随分長く、彼が話した。それは とても珍しいことだった。


「早く家に帰りたくない?私は早く帰りたくてね。主治医に提案してみたけれど、あと1ヶ月は最低入院してしっかり休養して下さいって言われてしまった。私は一人暮らしだから、なおのこと、先生は心配してるの。私、寝てる間に、自分は寝てるつもりでも動いて、色々なことをしてしまうみたいなの。母が自殺してしまってから。

もう母はいないのに、まだ待ってる自分もいるの。そして、自分を責めてもいるわ。」

そう言って、私はコートのポケットに手を入れた。暖かな陽射と言っても、まだ真冬の外は寒かった。でも、この寒い空気は濁りなく、清らかにきらきら陽に照らされていた。私はそれを全身に浴びていた。


彼は私に何か声をかけたそうであったが、かけれずにいたようだった。


「身体が冷えてきちゃった。そろそろ病棟に戻らない?」彼を見つめて私はそう言った。

彼は「そうしましょう。」と同意して、中庭を後にした。

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