モアナ moana【大海】
こうして私は父の死を、母の死から距離を置くことで、もう壊れてしまいそうな、そんな自分の心を自分で守っていた。
法事に出ない、葬儀に出ない、それに関わらないことは、現実的に距離を置くことである。
私の心はいつの間に、これほど弱っていたのか。
担当の精神科医と対話を重ねるたびに、私の心を私は知る。
入院して1ヶ月が経とうとしていた。
私が過去の人間で、最初に会いたいと思ったのが、なぜか岡田くんであった。
岡田くんのほうも、相当に、私を気にかけてくれているのは、メールや着信が携帯に入っているのを見れば、よくわかった。
そして、私が会いたいと言えば、会いに来てくれることも、もうわかっていることであった。
担当の精神科医に、会いたいと思うひとに会って良いかと尋ねると、大いに結構、ということであった。
私は岡田くんにメールをしてみた。
【岡田くん、お久しぶりです。ずっと連絡できずにすみません。やっと少し、心が落ち着く日も出てきました。いつでも良いので、面会に来てほしいと思っています。主治医の許可は下りています。由季】
1時間後に返信が入った。
【由季、久しぶり。やっと少し楽な日も出てきたと書いてあり、うれしく思います。明日の夜の7時頃、会社の帰りに面会に寄ろうと思っています。何か要る物あったらメールに入れといて。岡田】
今、夕食後でさっき食器を返したところだった。
もう、明日にはあえるんだ。
そう思うと緊張と少しうれしさが身体に走った。
翌日、夕食後に岡田くんが病室までやってきた。
「大丈夫か?体調はどうだ?」折りたたみのパイプ椅子を広げて、岡田くんはななめ前に座った。
「うん、少し気持ちが落ち着いてきているように思う。ただ、ぼんやりしてしまって、現実がなかなか受け入れられていないかもしれない。」私は岡田くんの顔を見た。
「今はそれでいいんじゃないかと俺は思うよ。」岡田くんは優しい目で私を見つめて、そう言った。
二人は少し無言になった。
「静かな病院だね。静養にはいいと思う。」岡田くんはそう言った。
「そうね。わりと人の入れかわりが早いの。」私は下を向きながらつぶやくように話した。
また無言になった。
岡田くんは遠慮がちに由季の全体を何度も、確かめるように見つめていた。
由季は、そのことが何を意味するのか、わかっていた。
岡田くんは由季に、とても会いたかったのだ、と。
私は、すっと視線を岡田くんに合わせた。
岡田くんは由季のベットで隣に座った。そして、由季をそっと抱きしめた。
カーテンは閉めていたが、少し周りが気になった。
二人は音の無い世界にいるかのように、静かに抱き合った。そして、キスをすることに迷いがなかった。
抱き合うこと、キスをすることで、どれほどの言葉にできない想いを伝えただろう。
由季には、罪悪感がなかった。それは、岡田くんもそうだと感じた。
二人には長い歴史があり、それを埋められるのは、お互いでしかないからだった。
「仕事のことは今は考えなくていい。そう言っても、頭によぎることもあるかもしれないけど、仕事は今の由季にはそれほど重要なことじゃない。大事なのは、心だよ、由季。」
岡田くんはしっかりかみしめるようにそう口にした。まるでそれを伝えるために来たかのように丁寧に。
私は言葉にはせず、首を縦に振った。
「じゃあ、あまり長居できないから、そろそろ行くよ。消灯になる前に。
いつでも、何でも言ってくれよ。また来るから。」
そう言って、岡田くんは病室から出て、帰って行った。
その後、何となく落ち着かず、私は談話室にテレビを見に行った。
まばらに、患者さんは寛ぎ、テレビは歌番組がかかっていた。窓の外はすっかり夜になり、近くから遠くまで、街の夜景が見えていた。その景色は、私のざわついた心を落ち着けた。
やがて、消灯の時間がきて、私たちはそれぞれの病室へ帰って行った。私はカーテンを閉めて、パジャマに着替えてから、ベットに横になり、真上を向いた。今日も、お薬が効いているのか、眠れそうな気がしていた。
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