ホクレレ hoku lele【流れ星】

午後、揺れるバスの中で由季は、この頃、岡田くんとのことばかりを思い出すのを不思議に感じていた。不覚に、風邪をひいてしまって、寝てばかりいたからだろうか。

でも、そこに理由はないと思われた。少しせき込み、マスクをしっかりかぶり直した。


仕事場に着き、着替えて受付へ行くと、見たことのない女性と、先輩の美琴さんが座っていた。

美琴さんが手を振ってくる。


「こんにちは。お疲れさまです」

私は二人に声をかけた。


美琴さんが私に、

「こちら今日から働いてもらっている佐藤さん。」と、その女性を私に紹介した。その方は立ち上がり、

「佐藤と申します。よろしくお願いします。」と頭を下げた。


「こんにちは。小川と申します。よろしくお願いします。」私もしっかりあいさつをしておいた。


美琴先輩が言うには、40代のパートの女性が1ヶ月後に退職することが決まっていたということを今日知ったようだった。そして、今日の朝から佐藤さんは上司の岡田くんに連れられてここで研修しているという。


急な話に少し驚いたが、誰かが仕事を辞めるとは、大抵こんなもので、「またか」という感覚もあった。


佐藤さんは50代で、独立した息子さんがいて、だんなさんと二人で暮らしているという。

ずっとスーパーでパートの仕事をしていたが、接客は好きだが座れる仕事に移りたくて、ここの仕事に応募したという。

佐藤さんは、確かに人に緊張感を与えない空気を保っている。すごく明るいとか、笑顔が印象的というものとは全く違うが、その場をお願いできそうな雰囲気も持ち合わせていた。落ち着き、というのか。


ほんとうに接客業が向いていて、長持ちする人はこういう人なのかもしれない、と由季は心の中でそう思った。


美琴先輩は、私が入社して研修時によく付いて指導してくれた先輩だった。

美琴という名前のイメージに負けない華やかさや美しい外見をしていたが、結婚して3人お子さんがいた。

そして、ママさんバレーに燃えていた。外見とはちょっと違う一面があった。

研修の時に美琴さんは、「私は普段とは全く違う異空間で働きたかった。ここの仕事の募集を見たときにこれだと思った」と私に言っていた。

30代後半には見えない外見をしていた。もっと若く見えた。

上から16歳、13歳、10歳のお子さんがいて、真ん中だけ男の子と言っていた。


私と美琴さんは、もう7年の付き合いになる。

仕事外でも、たまに食事やお茶をすることがある仲で、私は気が合う人なのかなと感じていた。

この7年、美琴さんは真ん中の男の子のことで、色々頭を悩ませ続けていた。幼稚園で集団行動ができない。すぐに物事に飽きてしまう。物を壊してしまう。それに反して、集中し出したら誰が止めてもとまらない。美琴さんは幼稚園では肩身が狭いと言っていた。

やんちゃだと、私も美琴さんも思っていた。

ただ、成長するにつれ、言葉はわかっているのに、意味が通じない、上の子と下の子とは、物事の理解の仕方が独特な面が見えてきたという。

そして最近、学校の保健室の先生の勧めで、心療内科に連れていき、そこで、発達障害という診断を受けたという。

だからといって、治療法が確立されているわけでもなく、彼は普通の中学で過ごしているという。

私と美琴さんの間では、彼の話はよく出たが、私の父親が急死してからは、美琴さんは気を遣って余り自分の話をしなくなっている。


佐藤さんと美琴先輩が午後2時に勤務を終えて、そこから私一人での業務が始まった。


今日の管理人の日勤は、足立さんという50代の男性だ。

管理人の会社と受付の会社は全く別で、お互いの業務内容は詳しくは知らないでいる。

ただ、あいさつや世間話はしたりもする。


足立さんと私は偶然、入社日が重なっている。同時期に仕事を始めた。

足立さんは前の仕事を辞めてから、この仕事に就くまで、うつ病を体験したと足立さんから私は直接聞いていた。


足立さんは前職は中学校の理科を教える教師だったそうだ。20年程勤めた頃、両親があいついで亡くなってから、身体の調子が悪くなり、眠れなくなり、食欲が異常に減退し、死にたい気分が続いたと言っていた。


「うつ病の知識はあったんだ。でも、自分には関係ないと思っていたから、最初は信じられなかったよ。精神科にかかるのも、とても勇気がいったんだ。」と足立さんは話してくれたことがあった。


「病状が治るのに1年、社会復帰に半年かかったよ。」ということも話してくれたことがあった。


「前職に戻りたいとは思われませんでしたか?」私がそう問いかけると、少しの沈黙の後に足立さんはこんなふうに私に語った。


「なんだかね、病状が回復したといっても、以前の自分とは少し違う感じで今だに違和感があるんだ。


歩くこと、話すこと、食べることなんかをとって考えてみても、全てがゆっくりとしか進まないことに気がついたんだ。


思考もね。


だから、余りたくさんの人に関わる仕事や、毎日変化のあるような難しい仕事は止めたほうがいいと思った。


それで、この求人をみて、この仕事ならできると自信があったから、応募してみたんだ。」そう言って、緩やかに足立さんは笑った。


確かに、足立さんとは同時期に入社して足立さんを初めて見た日、表情が薄いという難しさを感じたし、歩き方が、頭と身体が離れたゆっくりした歩き方に見えて、印象的だった。顔立ちが整っているぶん、なぜか妙に違和感があった。私は体調が悪いのかな?と思った。


足立さんと話したことを思い出していた。7年の間に色々と話した。

足立さんは、人と話すことがほんとうは好きなひとだから。


そんな足立さんと今日は夕方まで一緒だけれど、今、足立さんは駐車場の点検に行っていて、ここにはいない。


「由季ちゃんは、人によく相談されない?由季ちゃんは全体的にとろんとしているよ。目がね、とても優しい。人を包む目をしているね。」足立さんに昔言われたことを思い出しながら、私はロビーを通る住民にあいさつしていた。


こんにちは。

いってらっしゃいませ。

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