ナル nalu【波】
岡田くんとお好み焼きを食べた翌朝、私はトイレに行こうと寝床から起き上がった途端、ひどいめまいがし、その場にしゃがみ込んだ。頭を下に下げて回復を待つ。暗かった視界がゆっくりと明るくなった。脳貧血を起こしたとわかっていた。もう一度立ち上がると、軽い吐き気がした。吐くかと思ったが、吐かなかった。気分も悪かった。
昨日、岡田くんと身体を重ねようとしたことが、かなり心身の負担となっていたことを自覚した。
私は会社に連絡し、急な体調不良で休みたいことを伝えた。今日は遅番だったが、直感的に半日では治らないだろうと思った。会社側は少し驚いていたが、ほとんど休んだことがなかった私は、休みを取ることができた。
まだ、その頃生きて元気でいた父親は、会社に行くことを伝えに部屋へ来た。まだ、パジャマ姿の私を見て、
「具合でも悪いのか?」と尋ねた。
私は冗談で、
「昨日、遊び過ぎちゃった。」と笑って答えた。
「無理しないようにな。」と言い残し、父親は出かけて行った。
私は考えて、午前中、行ったことのない産婦人科へ行ってみることにした。
【性交痛】【不感症】
そんな言葉が私の頭をよぎった。
日曜でも開いている産婦人科はなかなかなかったが、探せばいくつか見つかった。同時に、「父親は今週末も休日出勤だ、いそがしい。」と思った。
予想を裏切るがごとく、その産婦人科はがらがらだった。受付の人に、
「初診なんですが」と話かけた。受付の人は
「今日はどのようなことでお困りですか?」と尋ねてきた。私は
「口頭では言いにくいんです」と答えると
「わかりました。初診受付表に詳しくお書き下さい。」と、用紙とペンを渡された。
先輩とのことには触れずに、「お付き合いしている彼との性交時に強い痛みを感じ、苦痛を感じている。」と書いた。その他、様々な問診の最後に【性交体験の有無】を問う質問があった。私は途中までしか体験していなかったので【無】にした。そして、受付に提出し、診察に呼ばれるのを待った。
「小川さん。小川由季さん、診察室にどうぞ。」
診察室に入ると、40代半ばくらいだろうか、男性医師が待っていた。隣に看護婦もいた。
問診表に目を通すと、私の顔をのぞき見るように見た。そのしぐさに、とっさの嫌悪感をなぜか感じた。
「小川さんね..ふん、21歳になったばかりだね。若いねぇ。性体験無いって書いてあるけどほんと?」
私の心は一気に嫌悪感と怒りに満ちた。この、ふざけたような口調はなんだ、と。
「セクハラ、パワハラ、家庭裁判所。色々ありますが。」私は吐き捨てるように言った。
看護婦が驚いて
「小川さん、大丈夫?ちょっとナーバスになっていない?」と肩に手を置いた。
「小川さん。僕は普通の問診してるだけなのにさぁ。そんな目くじら立てずに、ま、色々なやり方でやってみたら?上手く行くんじゃない?」と、その医師が言い終えた瞬間、私は、目の前の机にかばんをたたきつけ、
「もう、結構です。」と医師に背を向けドアを開こうとした時、医師が看護婦に
「安定剤出しといて」と小声で言った。
私はそのまま待ち合い室へ戻り、精算を待っていた。ほんとうは一円も払いたくなかった。
「小川さん。受付までどうぞ。」私が受付へ行くと、先程の看護婦が出てきて
「今日のお代金は結構ですので、この安定剤だけお持ち帰り下さい。」
と、安定剤の入った袋を押し付けられた。
私は、何も言わず受け取るふりをして、出入口にあるゴミ箱に、その薬をそのまま、たたきつけるように捨ててから外へ出た。外は初夏の陽気に満ちていたことを覚えている。
私は、なんとも苦々しい気持ちで家に帰った。
めまいや吐き気はすっかりおさまっていた。時刻は昼過ぎだった。
私は、誰もいない1階のソファーにうずくまり、頭の中の思いや考えを整理していた。
ほんとうは、産婦人科など行っても無駄だと、心の奥底でわかっていたこと。そして、決定的なことを私はもうわかっていた。
岡田くんに私を抱くことはできない、ということ。
なぜなら、彼は普通の中で生きてきた好青年であるから。そんな彼に、ひかれたのは、私には普通の人生への憧れが強くあったから。
でも、私はもう、幼いときから、思春期も、普通からは外れていた。
もっと痛みや苦しみを抜けた人にしか、私は抱かれることができない。
こんなことを岡田くんに言うと、岡田くんは
「由季は時々、独特の感性で物事をとらえるから。」そう言うに決まっている。そして、「大丈夫だよ」と。
全然、大丈夫じゃないのに。私は涙が溢れて止まらず、しゃくり上げて泣いた。息が苦しくなり、私はいつの間にか泣き止んだ。
私は岡田くんにメールを送った。
【もう、何を話していいのかわかりません。私もつらい。私以外の女性を見つけて幸せになってほしい。由季】送信ボタンを押した。
その後も、メールや電話がきたけれど、私はメールを読まないようにしたし、電話にでなかった。
仕事上、上司であることに変わりなかったが、私と岡田くんの付き合いは、こうして、半年以内に、私の一方的な想いにより、一度終わりを告げた。
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