モアニ moani【漂う香り】

私が高校を卒業する前に面接に行ったのは、今の会社の本社だった。

本社はこのマンションから電車で1時間ほど行った街中のビルの中にあった。


面接に行った日、ちょうど高卒で正社員採用となった男女が研修中のようだった。私は思わず、自分の高校の同級生はいないか目で探した。そこにいたのは、高校2年で同じクラスだった岡田聡太だった。あ、岡田くんだと思った。特別、仲良くはなかったけれど、修学旅行のバスの座席がくじ引きで隣になった。だから、私にとって特別なひとだといえば、特別なひとなのだろう。相手は私に全く気づいていなかった。


私もアルバイト採用が決まり、高校も卒業後、三年目の春に、岡田くんは私たちのマンション受付の直属の上司となった。今もなお、そのままの状態が続いている。

私の携帯には岡田くんの番号が入っていたし、実際に仕事上どうしても必要な時は、勤務中に連絡をとることもあった。


岡田くんは1ヶ月に一回はこのマンションに直接来て、その日その時に仕事をしている者と話をした。本社からの伝達事項があれば、私たちに伝えたし、私たちが日頃わからない細々したことを、私たちのうちの誰かが、この日に聞いておいた。


私が初めてこのマンションで岡田くんと再会したのは、入社して3年2ヶ月が過ぎた頃だった。

その日、岡田くんが本社から訪れた日、私は勤務中だったからだ。

岡田くんは私を見るなり、


「びっくりしたよ。小川さんと同じ会社だって知った時。俺、小川さんは短大に行くのかなって勝手に思ってたからさ。

どう、最近わからないこととか困りごとはない?」


岡田くんは声がわりと大きくてはっきりと話すのが特徴だった。

高校時代、岡田くんは野球部で忙しそうだった。


「私もびっくりしたよ。面接に行ったら岡田くん研修中だったからね。しかも、担当になる日が来るなんて。

困りごとは今のところ大丈夫。」


私は手でOKサインを出した。


「夏服のサイズ、何号か書いてファックスしてほしいんだ。みんなにも伝えてくれるかな。2週間以内にファックスちょうだい。」


岡田くんはそう言って、サイズ表を一枚私に渡した。


「わかりました。」


私は丁寧にその紙を受け取った。


「あのさ、今日早番でしょ。2時に仕事終わった後、駅前で昼飯一緒にどう?俺、今日午前中で仕事終われる日なんだ。本社帰ってから、もう一度こっちに来るよ。こんな機会なかなかないからさ。聞きたいこともあるんだ。」


真剣な目で岡田くんはそう伝えてきた。


「いいわよ、わかった。2時半に駅の改札のところで待ってる。」


私はそう答えた。


「良かったー、こんな機会なかなかないからさぁ。」


岡田くんがほんとうにうれしそうにそう言った。そして、岡田くんはその日、本社に帰って行った。


その日、受付はとても静かで暇とも言えるくらいだった。

私は高校の修学旅行を思い出していた。

どんな高原に行こうと、どんな観光地を歩こうと、どんなお寺を巡ろうと、さんざん歩いたら、私たちはバスに戻り異動していた。バスは休憩時間のようなものだった。いつも、岡田くんは話をしてきた。「どうだった?」といつも切り出して、最後は自分の思いを語っていた。私はそれまで同じクラスでも、ほとんど岡田くんと話す機会はなかったけど、この修学旅行を機に、誰より親しいような存在に岡田くんは変わった。


修学旅行が終わると、夜、家に電話がかかってくることがたまに出てきたくらいに、私たちは親しみ合うようになった。

高校2年生の秋に修学旅行があって、その年の冬に電話で浩一先輩に呼び出され、あのことがあった。


以来、私は夜の電話を恐れ、出なくなってしまった。何度かかかってきている時に、岡田くんかもしれない、とも思ったが、身体がこわばり電話に出られず、そのまま、岡田くんとは疎遠になっていた。


ほとんど仕事らしいことが今日はないまま終わり、私は着替えて駅へ向かった。

改札口が見える位置の壁にもたれ、私は岡田を待った。岡田くんは5分遅れてやって来た。


「いやぁ、ごめん。

ほんとにごめん。

飯おごるから許して。」


と、拝まれてしまった。私はびっくりしてしまい、


「私、5分くらいで怒らないから。」


私は笑顔でそう言った。

そして、内心「体育会系だからかしら」とふと思ったりした。


「行こうか。ここの駅の近くに和食定食がうまい店があるんだ。」


岡田くんはそう言うと、先にたち、私を導くように歩いた。ほんの3分程度でその店にたどり着いた。少し駅から離れているだけで、余り目立たないものなんだと思った。こじんまりとした、おしゃれな感じのお店だった。男女で来るにもってこいな感じがした。


「かわいいお店だね。」


私は席に座りながら、岡田くんにそう言った。岡田くんは背広を脱ぎ、椅子にかけながら、


「初めて?」


と聞き返してきた。


「うん。初めて。」


私は岡田を見つめた。岡田くんは


「和食定食でいい?」


と聞いてきた。


「いいよ。」


私が答えてすぐに、店員さんを呼び、注文をした。

岡田くんは注文してすぐに、私に直球で聞いてきた。


「高校2年の冬に何かあった?」


優しい聞き方だったが、目の奥が答えを必死に求めているように見えた。


「..ちょっとね。」


私は、少し間が空いた答え方になってしまった。


「ちょっとって、ちょっとじゃないようなことだろう。俺に話して楽になってくれないか?」


岡田くんは、ずっと前から言うセリフを決めていたかのような熱心さで、そう詰め寄ってきた。


「..それは、..なんていうか、余りまだひとに話す気になれないの..。」


言葉に詰まりながら、私はなんとか言葉をつむいだ。


「そんなに、大変なことだったんだな。

なんの役にも立てず、すまない。

でも、俺は、俺はおまえのことがずっと好きだった。高校2年の時に、初めて見かけた時から。

だから、修学旅行ははりきったし、その後も、なんとか進展させたかったんだ。ふたりの関係を。その気持ちは今も変わらないんだ。俺と付き合うこと、時間かけていいから考えてほしい。」


そう一気に話終えた岡田くんは、注文した定食が届くと、


「食べよう。

おいしいと思うよ。」


と最後は穏やかな口調でそう言った。


「..うん。」


私は岡田くんがそんなに思い詰めていたことに、かなり衝撃を受けていたし、なんと返事をしていいかとっさにはわからなかった。


だから、肉じゃがやみそ汁などに細々と手をつけていった。

どこかで食べたような味、ふと母親のことを思い出した。確かに似た味がした。

私は何の涙かわからない涙を一筋流した。


岡田くんは驚き、

「大丈夫?」


ゆっくり聞いてきた。


「ごめん。大丈夫。」


そう私は言って、ほんとうにおいしくて、8割方食べた。とてもお腹がいっぱいになった。

岡田くんは完食し、私たちは店を出た。ほんとうに岡田くんのおごりで。


私たちは駅の改札をくぐり、お互い反対方向の電車に乗るのだった。


私はまだ入社して3年目で、実家に戻るところだった。


「また、たまに携帯に電話していいかな。」


岡田くんはつぶやくように言った。


「うん、いいよ。」


私は笑顔でそう答えた。

その顔を見て、岡田くんは心底ほっとした顔をした。

そして、私たちはその場を離れた。







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