ラナ lana【浮かんでいる】
今日は早番で、更衣室で制服に着替え、5分前に受付に座った。壁にかけてあるカレンダーで日付を確認する。これが、案外受付にとって重要なことで、必ずというほど、住民の誰かは何かのついでに
「今日って何日だっけ」
と尋ねるからだ。
「おはよう、由季ちゃん。今日は早番ってわけだね。よろしく。」
管理人の上田さんが言う。
「おはようございます。お疲れさまです。お願いします。」
軽く頭を下げて返事をした。
上田さんはもう65歳を過ぎている。私の会社は定年は一応70歳としてあるが、それ以上の年齢のひとも、他のマンションでは勤務しているという噂だ。
とにかく、上田さんは大ベテランなのだ。
頭の後ろで、今日も上田さんの鼻歌から1日が始まる。
そう、今日ここへ来る前に通帳記入をしてきた。
岸本さんと付き合って初めての末日、振り込まれた額が記載されていた。
私はずっと心配していた。振り込むって、すごい額なら断るつもりだった。
でもその額は、何というか、とても現実的で、長続きする額だった。私はほっとした。
ここの職場の誰をとってみても、私と岸本さんが付き合っている、という発想の湧くひとはいないと思われた。
本質的に、二人とも、べたつくところの少ない人間だった。
浮わついていないというか、色香のないというか。
だから、二人は付き合い始めても、仕事中に私情を見せることは一切なかった。
今日は私は3時で仕事は終わるが、岸本さんは夕方6時から夜勤だった。
私たちは仕事のすれ違いで、あの喫茶店で話したきり、会っていない。私はまだ、電話もしていない。私の電話番号も即おしえたが、かかってこない。
私は今日くらいに、岸本さんが夜勤に入る前に少し電話してみようと思っていた。
これは、恋愛なのか、救済なのか、わかりかねていた。ただ、お互い乗り越えてきたものや、抱えているものが、大きすぎて、ふつうの幸せの域からは外れていることは確かなことだった。ふつう、体験しなくていいこと、できれば、見なくていいこと、それらに出合ってしまった人生だと思う。
だから、私は岸本さんを想うと、自分の心が軽く混乱し、それでいて、深い落ち着きも感じる。
今日は驚くことも、新しいこともないまま、私の勤務は終了した。
更衣室で着替えていると、かばんの中で携帯が光っていた。
見ると、岸本さんからメールが入っていた。
【小川さん、こんにちは。お疲れです。元気ですか?僕は元気です。岸本】
小学生のような文面に思わず笑みがこぼれた。
【岸本さん、お疲れさまです。今仕事終わりました。初メールですね。私も元気ですよ。小川】
送信ボタンを押し、終了した。
何となくそれだけで満足してしまい、また、電話から遠のいてしまう。
私は急いで帰りのバスに乗り込んだ。
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