98 芙蓮姫との会談 その3


「……は?」


 とっさに頭が働かず、呆けた声が出る。が、芙蓮はさらに身をすり寄せてくる。


「玲泉様からうかがいましたわ。龍翔殿下は、妃となる令嬢を探す目的もあって、晟藍国へいらしたのだと。ならば、わたくしをおいて他にふさわしい令嬢などいませんでしょう?」


 自信をみなぎらせて芙蓮が言を次ぐ。


「国王の姉であるわたくしは、晟藍国で最も身分が高い令嬢ですもの。それだけではございませんわ。わたくしをめとられれば、藍圭陛下に嫁ぐ初華姫様も、どれほど心強く思われることでしょう。龍華国と晟藍国のきずなも、この上なく強まるに違いありませんわ」


 瞳を輝かせ、熱心に言い募る芙蓮とは裏腹に、我に返った龍翔の心は、どんどん固く冷えてゆく。


 芙蓮が瀁淀を見限り、こちらにつく可能性はあると思っていた。


 が、ここまであからさまに妃の座を狙ってくるとは想定していなかった。

 いったい玲泉のどんな口車に乗せられたのやら。


「芙蓮姫。玲泉から何を聞いたのか存じませんが」


 冷めた声で言い、龍翔は芙蓮の肩を掴んで引きはがそうとする。が、芙蓮は離れるどころか、ますます身体をすり寄せてくる。晟藍国風の広いえりぐりから白い肌が覗き、華やかな衣装は龍翔を誘惑するために選んだのではないかと、変な勘繰かんぐりをしそうになる。


 そんなことをしても、まったくの無駄だというのに。


 龍翔の腕力なら、無理やり芙蓮を引きはがすことなど容易いが、さすがに乱暴には扱えない。


 龍翔は芙蓮の細い両肩を持ち、少しでも隙間をあけようとしながら、芙蓮の目を覗きこむ。


「芙蓮姫」


「はぁい」

 芙蓮が砂糖をまぶしたような甘ったるい声で応じる。


 期待に満ちたまなざしで見上げる芙蓮を真っ直ぐに見つめ返しながら、龍翔は淡々と口を開いた。


「はっきり申しあげておきます。玲泉がどんな甘言であなたを惑わせたかは知りませんが、わたしはあなたをめとる気など、欠片もありません。いいえ、芙蓮姫に限ったことではない。他のどんな令嬢であろうと、決して娶ることはありません」


 龍翔が求めるのは、たったひとり明珠だけなのだから。


「……はい?」

 今度は芙蓮が呆けた声を上げ、目をみはる番だった。


「……お、お待ちになって? え……? わたくしを、娶らないですって……?」


 告げられた内容が信じられないのか、芙蓮が視線を揺らしながらかすれた声を出す。

 畳みかけるように、龍翔は重々しく頷いた。


「ええ、その通りです。わたしはあなたを娶る気はありません」


 龍翔の低い声音に、絹の衣に包まれた肩がびくりと揺れる。細い首が、がっくりと折れるようにうなだれた。


 しおれた花のような風情に、いやおうなしに罪悪感が刺激される。


 玲泉によって、いったいどんな口車に乗せられたのかは知らないが、一概いちがいに芙蓮ばかりを責められない。


 確かに、龍翔と芙蓮ならば、身分も年齢も吊り合うし、龍華国と晟藍国のさらに強固な結びつきのために、初華と藍圭だけでなく、龍翔と芙蓮についても婚姻を、と考える者は一定数いるだろう。芙蓮は玲泉にそこを巧く突かれ、その気にさせられたに違いない。


 憎むべきは、策をろうした玲泉だ。


 芙蓮に迫られれば龍翔が落ちるだろうと……。明珠への想いを軽く扱われ、侮られたことに、胸の奥で怒りの炎が燃え盛る。


 だが、今ここに玲泉はいない。いるのは、打ちひしがれた様子の芙蓮だけだ。

 龍翔は芙蓮の両肩からそっと手を放し、できる限り穏やかな声で話しかける。


「玲泉があなたをたばかったことは、同じ差し添え人として、わたしからもお詫び申しあげます。芙蓮姫様のお心を傷つけてしまい、まことに申し訳ございません。怒りが収まらぬというのなら、玲泉を後で煮るなり焼くなりお好きにしていただいてかまいません」


 むしろ、龍翔の代わりに思う存分こらしめてやってほしい。


「ただ……。叶うならば、ひとつだけ信じていただきたいのです。このような卑劣な手段をとってまでも、一度、芙蓮姫様とお会いしたかったのです。晟藍国の未来のために、藍圭陛下と瀁淀大臣の確執をなんとしても取り除きたかったのだと……。どうか、それだけは信じていただけませんか?」


 龍翔は一縷いちるの望みをかけて、真摯に芙蓮に語りかける。


 効率だけを追い求めるのなら、玲泉の策に乗って、芙蓮を娶るかのようにふるまい、情報を引き出せばよかったのかもしれない。


 だが、そんな外道な行いは、龍翔の倫理観が許さない。

 何より、明珠が心の中にいるというのに、たとえ演技であっても、他の女人に甘い言葉など、口が裂けても囁けるわけがない。


 龍翔は黙して己の言葉が芙蓮の心に染み込むのを待つ。


 深くうつむいた芙蓮の複雑に結い上げられた髪型を見るともなしに眺め、待つことしばし。


「いいえっ!」


 やにわに鋭い声を上げた芙蓮が、ばっと顔を上げる。


「いいえ! 嘘に決まっておりますわ! わたくし、信じませんっ! このわたくしを娶らないとおっしゃるなんて、そんな……っ!」


 わなわなと唇を震わせる芙蓮は、ここではないどこかを見つめているかのようだ。


「そ、そうですわ! きっと会ったその場で即座に応じるなんて、軽々しい真似は、みっともないとお思いなのでしょう!? 玲泉様がおっしゃっていた通り、本当に誠実な御方ですのね。ですが、ご安心くださいませ」


 龍翔の目を覗きこんだ芙蓮が、ふふっと紅をひいた唇をほころばせる。


「この部屋にいるのは、わたくしと龍翔殿下の二人きり……。たとえむつみ合おうとも、知る者は誰もおりませんわ」


 誘うように伸ばされた芙蓮の繊手せんしゅが龍翔の胸元をう。

 のみならず、着物の合わせから忍び込もうとする指先を、龍翔ははっしと掴んだ。


「何をする気です?」


 問う声が我知らず低くなる。まさか、身分のある女人に、これほどあからさまな誘いをされるとは。


 龍翔の低い声を柳に風と受け流して、芙蓮が婉然えんぜんと微笑む。


「もちろん、龍翔殿下が望まれることを」


「……では、今すぐわたしから離れて、瀁淀が何を企んでいるのか教えてもらえませんか?」


 氷よりも冷ややかな声音に、芙蓮が愕然がくぜんと目を見開く。


「龍翔殿下……?」


「もう一度、はっきり言っておきます」


 ここで明確に言っておかねば、後でつらい思いをするのは龍翔ではなく芙蓮だ。龍翔は心を鬼にしてきっぱりと告げる。


「わたしはあなたを娶る気も、手を出すつもりもまったくありません。他の令嬢が来ても同じです」


 どんな美姫が来ようとも、手を出す気は欠片も起こらない。

 龍翔が愛でたいと願う花は、たった一輪だけなのだから。


「芙蓮姫。御不快な思いをさせてしまって申し訳ありません。ですが、どうぞ御身を大切――」


「このまま引き下がるなんてありえませんわっ!」


 龍翔の言葉など聞きたくないとばかりに、芙蓮がひび割れた声を出す。


「晟藍国一の女人であるわたくしをここまで虚仮こけにするなんて……っ! そんな無礼を許せるはずがありませんわっ!」


 整った顔立ちを憎悪に歪め、瞳に激しい怒りをたぎらせた芙蓮が、龍翔を睨み上げる。


 発した声は、ぞっとするほど低かった。


「龍翔殿下。わたくしを部屋に招き入れ、二人っきりになった時点で、殿下はもう、わたくしを娶る以外の未来はありませんのよ。――わたくしが、何も用意をしていないとお思いですの?」


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